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 猫かぶり御曹司とニセモノ令嬢  ハッピー・ハッピー

前編

 「おやすみ」と声をかけ合い、寝室の明かりを消してから、どれくらい経ったんだろう。
 寝返りを打つふりで背を向けた私は、すぐ後ろにいる啓也の呼吸が穏やかになったのを確認してから、闇に目を凝らした。
 カーテンの隙間から差し込む月明かりのなか、目覚まし時計の針が薄ぼんやり発光している。細かい分数まではわからないけれど、二十三時半を少し過ぎたところらしい。
 私はドキドキする胸を一度強く押さえ、身体を滑らせるようにしてベッドから下りた。
 おそるおそる後ろを振り返る。静かに眠り続けている彼に、ほっと息を吐いた。
 忍足で普段あまり使っていない方のクローゼットまで移動する。できるだけ音を立てないよう、慎重に扉を引いた。
 昼間なら全く気にならない掛け金の音が、やけに大きく響く。慌ててベッドへ目を向けたけれど、啓也を包んでいる上掛けの山が動くことはなかった。
 ……びっくりした。
 安堵に肩を下ろして、クローゼットに隠してあったギフトバッグを取り出す。閉める時にまた音がしたら困るから、クローゼットの扉を閉まりきらないギリギリのところで止め、ベッドへ戻った。
 二人用の広いベッドの隣にある、小さなサイドテーブルへバッグを置く。中にはダークグレーの地にゴールドのリボンがかかった箱と、シンプルなメッセージカード。そして……少し大きめの封筒が入っていた。
 もう一度、時計を確認した私は床に座り、間近から彼の寝顔を覗き込む。闇に目が慣れたおかげで、月明かりだけでもちゃんと見えた。
 心の中でカウントダウンを始める。
 かぞえていた数字がゼロになったのに合わせて、そうっと啓也の頬にキスをした。
「誕生日おめでとう、啓也」
 起こさないように、唇だけを動かしてささやく。
 もちろん朝起きたら、もう一度言うし、夕飯を少し豪華にして誕生会っぽいこともするつもりだけど、どうしても日付が変わってすぐに言いたかったから、ナイショのお祝いになってしまった。
 声には出さずに、ふふっと笑う。男は信用できないと頑なだった私が、こんな風に恋人の誕生日を喜んでいるなんて可笑しい。しかも彼との結婚を望んでいて、実際、同棲して婚約同然なんだから、人生は不思議だ。
 頭を上げ、眠る啓也の横顔を見下ろす。少し乱れて額にかかっている髪を指先でどけた。
 彼の瞼がふるっと震えたかと思うと、突然クスクスと笑い出した。
「啓也?」
「汐里、くすぐったい」
 一瞬、寝言かと思ったけれど、はっきりした声で起きているんだと気づいた。
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
「いや。起きてた」
 パチッと目を開けた彼が、意地悪く口の端を上げる。眠っていた気配なんて、どこにもない。
「え。いつから?」
「ずっと。汐里がなんか楽しそうだから、寝たふりしてた」
「ええっ」
 別に悪いことをしていた訳じゃないけれど、気づかれていたのかと思うと変に焦ってしまう。
 そわそわする私にはかまわずに、啓也がベッドサイドのライトをつけた。淡い明かりでも今の私にはまぶしくて、ぎゅっと目をつぶった。
 すかさず唇にあたる柔らかい感触。キスされているんだってことは見えなくてもわかった。
 ついばむように何度も何度も口付けられる。放っておくと彼はいつまででもキスしたがるから、適当なところで顔を背けた。
「……ダメ。寝る時間なくなっちゃう。もう零時過ぎてるんだよ」
 たしなめるように言うと、啓也は嬉しそうに微笑んだ。
「うん、知ってる。そのために起きててくれたんでしょ。ありがとう汐里」
 かあっと頬がほてる。
 最初から起きていて、さっきのお祝いの言葉を聞いていたなら、私が何を思ってこんなことをしたのか気づかれて当然だ。でも、やっぱり恥ずかしい。
「うー」
 寝たふりをするなら、最後までやり通してくれればいいのに……
 なんて勝手なことを思っていると、啓也は私の額にキスを落としてから、サイドテーブルのギフトバッグを手に取った。
「これ、俺に?」
「あっ……うん。でも、明日にしたら? 夜も遅いし」
 彼は私の提案に少し考える素振りを見せたものの「ちょっと見るだけ」と言い訳してバッグを開いた。
 思わず視線をそらす。
 どんな贈り物でも喜んでくれるのはわかっている。いつもなら、そんな彼の反応を嬉しく思うのに、今日は少し怖い。期待と薄っすらした恐怖に顔を強張らせた。
 啓也は緊張している私に気づかないまま、楽しそうにバッグの中を探る。まず目についたらしい箱を出し、振っている音がした。
「んー、やっぱり開けたくなるなぁ。でも楽しみを取っておきたい気もする」
「あ、明日のがいいよ。もう寝なきゃだし。ね?」
 迷う啓也にさりげなく先延ばしを勧める。できれば私が寝ているうちに見てほしい、と続けたかったけれど、さすがにおかしく思われるから止めておいた。
「開けて見るだけなら、そんなに時間かからないよ……って、今開けたらマズいことでもあるの?」
 彼の指摘にギクッと肩が震える。
「な、ないよ。ある訳ないでしょ」
 我ながら白々しいと思いつつ、笑ってごまかした。
 一瞬こちらへ不審げなまなざしを向けた啓也は、何かを企むようにニッコリと笑う。
 凄く嫌な予感。
「ねえ汐里、これ何が入ってるのか教えて。どんなヤバいモノ入れたの?」
 突き出された箱を視界に入れた私は、思いきり首を振った。
「違う。そっちはキーホルダーと名刺入れだから……あっ!」
 しまったと思った時には、もう遅い。慌てて口を押さえたけれど、プレゼントの中身をはっきり白状してしまっていた。
「へえ。ありがとう。嬉しいよ。今日から早速使うね」
 啓也は手の中の箱をじっと見つめる。
 プレゼントはオーダーメイドのキーホルダーと、皮の名刺入れにした。大したものじゃないけれど、アクセサリーの類を身に着けない彼が普段から持ち歩く物と言えば、それくらいしか思いつかなかったから。
 もう一度ふわっと微笑んだ啓也は、大事そうに箱をサイドテーブルへ乗せ、私の手を引いた。
 促されベッドに戻る。後ろから抱きかかえられるようにして横になると、耳の後ろに口付けられた。
 ぞわりと肌が粟立つ。忍び寄る興奮に小さく震えた。
「んっ」
 私は仕事が休みだからいいけれど、啓也は朝から出勤だ。早く寝なければダメだと思うのに、続く耳朶へのキスで流されてしまいそうだった。
 次第に荒くなる呼吸。ドキドキが加速していく。耐えきれずに仰け反ると、啓也が耳元でくくっと笑った。
「ところで、そっちのプレゼントは聞いたけど、今見られて困るのはこっちのこと?」
「え」
 とっさに何の話かわからず、ぽかんとする。啓也は私の目の前で、枕元に残されたギフトバッグを指差した。
「汐里さっき、そっちは違う、って言ったんだよ。覚えてない?」
 ……そんなこと言ったっけ?
 自分の言葉を思い返そうとしたけれど、よくわからない。
 私が夢中で考えているうちに、啓也はバッグへと手を伸ばし、中から封筒を取り出した。
「汐里からのラブレター……にしては大きいな」
「あ。待って!」
 止める声が届かないうちに封を開けられる。恥ずかしすぎてベッドへ顔を押しつけた。
 静かな寝室に紙のこすれる音が響く。中身を確認した啓也が、ガバッと飛び起きた。
「汐里」
 何かに追い詰められ、焦っているような、低くて硬い声。
 口元に触れるシーツへ向かって息を吐いた私は、羞恥に蓋をして寝返りを打った。
「うん」
「……これ、どういうこと」
 視線を上げた先に、怖いくらい真剣な表情した啓也が見える。彼の手にあるのは、私の署名が入った婚姻届。
「どういうって、見たまま、だよ」
 言い訳するみたいに、ぼそぼそと説明する。
 てっきり素直に受け取ってくれると思っていたのに、啓也はますます眉間の皺を深くした。
「俺にこれを渡す意味、わかってる?」
「わ、わかってるよ」
「でも汐里、籍入れたら今までと同じようには仕事続けられないって言ってたよね。本当に後悔しないって断言できる?」
 射抜くような視線と言葉が心に響く。本当は結婚を望んでいるはずの彼が、私をここまで尊重してくれていることに泣きたくなった。
 啓也と向かい合うために身体を起こす。まっすぐに彼の目を見つめて、うなずいた。
「できる。いっぱい考えて、決めたから」
 何度も何度も考えた。どの選択がベストなのか。
 考えるたびに思い浮かぶのは、幸せそうな文緒さんの姿。私もあんな風になりたい……啓也の隣で。
「仕事のやりがいが減るのは少し惜しいけど、啓也とちゃんと家族になりたい」
 彼の奥さんになって、子供を産み育てる。古風かも知れないけど、そういう未来が欲しい。
 私の告白に啓也はパッと視線をそらし、苦しげな溜息をつく。まだ手に持っていた婚姻届を丁寧にたたんで封筒へ戻した。
 まるで嬉しくなさそうな態度に呆然とする。彼が喜んでくれないことにおののいた私は、次の瞬間、思いっきり強く抱き締められた。
「ああ、もう。ずるい。反則だ」
「え、ちょっ……何言って……」
 ぎゅうぎゅう締めつけてくる腕が痛いし苦しい。しかも言ってることが意味不明。とりあえず離してほしくて身体をよじると、更にきつく抱きすくめられた。
「なんでこんなに俺のこと喜ばすの上手いんだよ。すげー悔しい」
「はあ?」
 啓也の腕の中に閉じ込められたまま、首をひねる。態度とは反対に喜んでくれているのはわかったけれど、それがどうして、ずるくて反則で悔しいに繋がるのかが理解できない。
 会話をしているというより、ただ独り言を漏らしただけらしい彼は、疑問に答えることなく、いきなり私をベッドへ押しつけた。
 驚いて見上げれば、啓也の瞳が熱を孕んで潤んでいる。次の展開が予想できる体勢に頬が引きつった。
「ひ、啓也。今からは無理。時間が……」
「汐里、愛してる」
 って、この人、聞いてないしっ!
「止め……うぇ!」
 もう一度声に出しかけた制止の言葉は、圧しかかってきた啓也によって、カエルの鳴き声みたいな音に変わった。

 → 後編


   

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