猫かぶり御曹司とニセモノ令嬢 チョコレート・フレーバー 前編 残りわずかな昼の休憩時間。お昼を食べ終え、いつも通りデスクに座った私は、ある雑誌を睨み、低く唸った。 実際そんなに大きな声じゃなかったのに、耳ざとく聞きつけた智絵が後ろの席から振り返る。私の持つ雑誌に目を留めた彼女は、いつぞやのエビス様顔でニヤリと笑った。 「すいぶんとラブラブしいものを見てるわねぇ」 ラブラブしいってなんだろう…… 変な造語に首をひねりつつ、雑誌を隠す。 「見ないでよ」 「そう言われれば言われるほど、見たくなるのがヒトのサガってね」 どどいつみたいな抑揚をつけてそう言うと、智絵はすばやく私の手元から雑誌を抜き取った。 「あ、やだ!」 奪われた本の表紙に掲載されている、つやつやのチョコレートケーキ。タイトルは「ハッピー・バレンタイン! 〜はじめてさんのチョコレートスイーツ〜」……選んだ私が言うのもなんだけど、恥ずかしい。 「あれ。これ初心者用じゃない」 表と裏を確認した智絵が、意外そうに声をあげた。 「……だって、初心者だもん」 少しだけ口を尖らせて言い訳する。料理はそれなりにできるけれど、お菓子作りは大の苦手だ。 レシピ通りに作っているはずなのに、何故か上手くいかない。何度か挑戦し、ことごとく失敗した過去を思い返した私は、溜息と共に肩を落とした。 「ふうん。で、何を作るの?」 智絵はまるで自分のもののように、ペラペラと本をめくる。 何度も見ているから、掲載されたお菓子の種類はもう覚えているけれど、いまだに何を作るか決められずにいた。 「まだ決めてないっていうか、ちゃんと作れる気がしない」 「えー。これ簡単なのばっかりじゃない。溶かして混ぜるだけのクランチチョコとか」 「混ぜるだけのは、簡単なのがバレそうだし」 今までも一人暮らしと変わらない生活をしていたからか、啓也は家事全般を普通にこなす。当然、料理もできる、というか私よりも上手だった。 お菓子作りができるのかは知らないけれど、混ぜただけのチョコには、さすがに気づくだろう。 「簡単でも手作りに違いないんだから良くない? 汐里のカレってそういうの、こだわる派?」 「ううん。そうじゃないけど」 実際どれだけ簡単なお菓子だろうと、作って贈れば喜んでくれるのはわかってる。 きみの作るものならなんでも美味しいよ、とか思い出すのも恥ずかしいセリフを平気で言うだけあって、啓也は失敗した料理でもちゃんと食べてフォローしてくれる人だ。 でも、そんな彼に贈るからこそ精一杯頑張って作りたい。だからレシピ本を買ってみたのだけど…… うなだれる私を見た智絵が、慈愛に満ちたまなざしでふっと微笑む。 「汐里かーわいいー! 汐里のカレがでろんでろんに溺愛するのわかるわぁ」 でろんでろん? 「なにそれ」 またもや、よくわからない表現を持ち出した智絵に、ちょっと引く。彼女は私の態度を気にすることなくグッと親指を立て、片目をつぶってみせた。 「カレに愛と想いと手間のかかったお菓子を作ってあげたいんでしょ? いじらしい汐里に私が一肌脱ごうじゃないの」 「え?」 ぽかんとする私の手に雑誌を戻すと、智絵は自信ありげに口角を上げた。 「私こう見えて、お菓子作り結構得意なのよ。汐里にピッタリのレシピを探して、レクチャーして、あ・げ・る」 全く予期していなかったコーチの登場に驚き目を瞠る。気のせいだろうけど、智絵の後ろから光が差しているように見えた。 新居のキッチンに陣取った私は、智絵が持ってきてくれたレシピを前に腕を組んだ。 彼女のアパートを借りて練習がてら一度作ってはいるけれど、再度、手順を確認する。 今日は2月13日。本当のバレンタインデーは明日だけど、作るお菓子が日持ちしないことと、私の休みの関係で今夜渡すと決めていた。 粉、卵、ココア、生クリーム……ひとつひとつ材料をチェックし、順番に作業台へ並べる。智絵が提案してくれたのは、ココアクレープケーキだった。 クレープを何枚も作るのは手間だけど、慣れれば簡単に焼けるし、重ねてケーキの形にすれば見栄えも良い。スポンジケーキが上手く焼けない私には、最適のレシピだった。 今日はまっすぐ帰れると言っていたから、啓也が戻るのは多分、十九時より少し前。 ……絶対にやり遂げてみせる。 午後の陽が差し込むキッチンで、私はギュッと拳を握った。 今日の夕飯は青菜のパスタとサラダにした。クレープケーキの方に力を入れすぎて、簡単に作れるメニューにしてしまったことは内緒。 予想通りの時間に帰宅した啓也を待って、二人で食事を済ませた。 後片づけを手伝うという彼の申し出を断り、強引にお風呂を勧める。私の態度に不思議そうな顔をしたものの、啓也はバスルームへと向かった。 壁の向こうからかすかに響いてくるシャワーの音を確認して、私は最後のデコレーションのために冷蔵庫を開けた。 そうっとケーキ型を外し、切り分け、大きめの皿の真ん中に置く。チョコレート色の生地の上に粉糖を振り、ケーキをぐるりと囲むようにチョコソースを落として、脇にイチゴとホイップした生クリームをそえた。 渡す瞬間が近づいていることに、緊張してドキドキが募る。 震える手でケーキをダイニングカウンターへ運んだ私は、プロでもないのに、角度を変えて何度も出来上がりをチェックした。 「できた……!」 「何が?」 突然、後ろからかかった声に飛び上がる。 いつの間にお風呂から出たのか、Tシャツ姿の彼がタオルで髪を拭いながら立っていた。 「あ、あの。早かったね」 「え、そう? いつもと変わらないつもりだったけど」 できるだけ急いだはずなのに、啓也がお風呂に入っている時間を目一杯使っていたらしい。手際の悪さを痛感しつつも、間に合って良かったと胸を撫で下ろした。 「ねえ、啓也。コーヒー淹れるから座って」 ダイニングカウンターに合わせて置かれたスツールを示す。 コーヒーを淹れるために反対側へまわったことで、私の影に隠れていたケーキが彼の目の前に出た。 ドリッパーをコーヒーメーカーにセットしながら、啓也の顔を盗み見る。彼はケーキを見つめ、ぽかんとしていた。 「……汐里、どうしたの。これ」 お菓子作り初心者の私じゃ、頑張って作っても買ってきたものほど格好良くはできないから、手作りだとすぐに気づいたらしい。あからさまに驚く彼に、肩をすくめ苦笑いしてみせた。 「今日、作ったの。バレンタインだから。売ってるのみたいに綺麗じゃないけど」 「汐里が、俺に?」 「そうだよ。他に誰がいるの」 ここには私たちしかいないんだから、渡す人も、受け取る人も決まってる。わざわざ確認されたことに少しだけ呆れて見つめると、啓也は口元を押さえて固まっていた。 「えっ、ダメだった?」 目を見開いたまま、全く動かない彼に焦る。 嫌いなものやアレルギーがあるとは聞いていないけれど、クレープケーキはダメなのだろうか。もっと彼の好みを調べてから作れば良かったと私が蒼ざめたあたりで、ハッとした啓也が首を振った。 「いや。違う、逆。嬉しすぎて……どうしたらいいか、わからない」 ぽつぽつと返された言葉に、私も固まる。失敗したかもしれないとおののいていた心が、温かい気持ちで満たされていく。 カウンターを挟んで見つめ合っているうちに、コーヒーメーカーの音が止んだ。 ふと我に返った私は、せわしない鼓動をごまかしてカップを手にする。 「あ。コーヒーできたから、座って?」 「……あ、ああ」 啓也も金縛りが解けたみたいに慌ててうなずき、スツールへ座った。 二人分のコーヒーを運んでいくと、カップを置くか置かないかのうちに、きつく抱き締められた。 「ちょっと、危ない。こぼれるよ」 私の注意が聞こえていないのか、啓也は返事もせずに、ぎゅうぎゅう私を締めつける。その強さが彼の気持ちを表しているような気がして、苦しいけれど嬉しくなった。 「嬉しい。汐里、ありがとう」 「ん。ねえ食べてみて。形は微妙だけど、味はまあまあだと思う。たぶん」 自分の体重が気になるくらい何度も味見したし、自称お菓子作りマスターの智絵のお墨付きだから、啓也の口にも合うはず。 彼は名残惜しそうにゆっくり腕を外すと、優しく微笑んでからカウンターに向き直り、ケーキにそえてあったフォークを取り上げた。 「いただきます」 「どうぞ」 味は大丈夫だと思っていても、やっぱり緊張する。 一切れ口に入れた啓也は、パッと眉を上げた。 「お、美味い。なんだろう、洋酒が効いてる」 「うん。チョコレートのお酒を少しだけクリームに入れてみたの。まあ、私が考えたんじゃなくて、教えてもらったアイディアなんだけどね」 気に入ってもらえたことに、ほっとする。 初心者の私にアレンジなんて高等な技が使える訳もない。バレンタインの時期に出回るチョコレート風味のお酒を入れてみたら、と言ってくれたのは、もちろん智絵だった。 「でも、これ、汐里が一人で作ったんだろ。凄いな。手作りのをもらえるとは思ってなかった」 お世辞とかじゃなく、本当に喜んでくれているらしい彼に微笑む。 「私も思ってなかったよ」 「え?」 「今までバレンタインに手作りしようなんて思ったこともないし、本当いうと私お菓子作り苦手だし……」 もっと言えば、バレンタイン自体をちょっと面倒くさいと思っていた。ここ数年、男性と係わることを避けていた私は、恋愛色の強いイベントに抵抗があったから。 「でもね、啓也には自分で作ったのを贈りたかったの。お金で買ったのじゃなくて」 「汐里」 また腕の中に引き込まれ、口付けられる。ほんのりと漂うチョコレートの香り。 背中にまわされた彼の手に力が篭もる。キスが深くなるのを予感した私は、わずかに身を引いて行為をさえぎった。 「もう、食べてからにして。あ、お腹いっぱいだったらいいけど」 止められると思っていなかったのか、一瞬きょとんとした啓也が苦笑いする。 「いや、いただくよ。美味いから、いくらでも食べられそう」 彼はまたフォークを取り、言葉通りにパクパクと平らげた。 空になったお皿を下げようとした手を上から押さえられる。まだ食べたいのかと思い、首をひねった。 「お代わりもあるけど、食べる?」 「食べたいけど後にする。今は……こっちがいい」 さっきの続きをせがむように唇が触れる。驚きで緩んだ口元から啓也の舌が入り込み、私を絡め取った。 どんどん強くなる甘さに息を詰め、目をつぶる。興奮で大きく身体が震えたのに合わせて、エプロンの肩紐が滑り落ちた。 → 後編 |