書籍番外編集  index



 猫かぶり御曹司とニセモノ令嬢  全部好き!

前編

 勤務先のビルのロビーを抜け外へ出た私は、あたりの明るさに一瞬、気を取られた。
 退社時間を間違えるはずはないけれど、一応、腕時計を見る。間違いなく今が十七時半だと確認して、ほっと息を吐いた。
 ビルへ出入りする人の邪魔にならないよう、入り口から少し離れて上を仰ぐ。空には想像していたよりも明るい夕焼けが広がっていた。肌に感じる風もなんとなく暖かい気がする。気づいていなかっただけで、季節は少しずつ進んでいたらしい。
 啓也と過ごす、二年目の春。伯父さんに頼まれ、菜摘ちゃんのふりをしてお見合いをしたのは、去年の今頃だった……
 ふと自分を見下ろせば、垂らした髪が胸元でゆれている。色を変えていない黒のストレート。勝手に髪をいじられて今のヘアスタイルにされたのも、あのお見合いのせい。これ以上、痛むのが嫌でそのままにしているうちに、すっかり見慣れてしまった。
 はっきり聞いたことはないけど啓也はこの髪型を気に入ってるみたいだし、今さら、戻そうとも思わない。変えられた時はダサくて冗談じゃないと思っていたのに、彼の好みだというだけで良く見えるんだから、恋って恐ろしい。
 我ながら啓也に影響されすぎてる。それが嫌って訳じゃないけど、自分の中にある想いの大きさを改めて知り、ちょっと呆れた。
 春から夏。夏から秋、冬。そして今まで。順に思い出を拾っていく。楽しいことばかりじゃなかったし、本当につらくてどうしようもないこともあった。それでも思い返せば、やっぱり幸せで。いつかの痛みすらも必要だったんだろうと愛しくなった。
 空を眺めながら、つらつらと思い出に浸っていると、後ろから軽く肩を叩かれた。ハッとして振り返る。見上げた先にいる意外な人に目を瞠った。
「……田上くん?」
「はい! ご無沙汰です、先輩」
 驚いて呆然とする私の前で、田上くんは以前と変わらない、ほがらかな笑みを浮かべていた。

「えと……どうして、ここに?」
「まあ、出張みたいなもんですかね。社長に呼ばれて、これからしばらく本社勤務らしいっす。今日はとりあえず挨拶に来ただけなんすけど」
 挨拶もそこそこに質問をぶつけると、田上くんは気を悪くする様子もなくニコニコしながら状況を説明してくれた。
「ええ、凄い。栄転じゃないの」
 企業の体制として良いことなのかはわからないけど、うちの社長は目をかけた社員を傍に置きたがる。支店から本社へ呼ばれたのは、田上くんが有望視されているからに他ならない。しかも入社して一年経たないうちに呼ばれるなんて凄いことだ。
 まだうちの会社の内情を知らないのか、田上くんは、驚く私とは裏腹に、きょとんとしながら首をかしげた。
「うーん、でも、とりあえず三ヶ月だけなんで。研修みたいな感じっすよ?」
「それでも凄いよ!」
 重ねた言葉に、田上くんははにかむ。他人事なのに興奮してしまった私も恥ずかしくなって、うつむいた。
「ありがとうございます。こっちにこれたのは素直に嬉しいです。仕事のこともだけど、また先輩に会えたし。まあ先輩が元気そうで残念っすけど」
「え?」
 おどけた口調で告げられた棘のある言葉に、目を見開く。私の知る田上くんは、ふざけることはあっても、こんな嫌な言い方をする人じゃなかった。
 目の前で唖然としている私に気づいたのか、田上くんは困り顔で微笑む。
「やだなー、前にも言ったでしょう。彼氏さんと揉めてボロボロになったり愛想尽きたりしたら、俺んとこへウェルカムですよ、って」
「あ」
 以前、支店へ出張していた時、私へ想いを寄せてくれていた彼から、啓也との仲がこじれたら奪いに行くと宣言されていた。ふざけてるっぽく言われたから当時も受け流したし、今まですっかり忘れていたけど。
「また綺麗さっぱり忘れてたでしょ」
「えっと、はは……」
 半眼で睨まれ、視線をそらす。薄ら笑いでごまかすと、田上くんは深い溜息をついてから、また爽やかな笑顔に戻った。
「でも先輩が思ったより幸せそうで、ほっとした気持ちもあるんすよねー。実は心配だったんで。あの人、先輩のこと大事にしてくれなそうだったし」
 田上くんは啓也を何度か見かけたことがあるだけで、実際の彼がどんな人かは知らない。当然、私が出張へ出た事情も知らないから、田上くんの中の啓也は、彼女を放ったらかしにしていたひどい恋人のイメージのままなんだろう。
 まっすぐに田上くんを見つめ、うなずく。もう大丈夫だと示すために。
「心配してくれて、ありがとう。今、凄く幸せなの。まだはっきりした日は決まっていないけど、彼と……結婚することになったから」
 結婚の二文字をはっきり声に出すのは、まだ照れてしまう。でも、田上くんにはきちんと伝えなきゃいけない。私への気持ちが、未来へ向かう田上くんの足枷にならないように。そしてそれ以上に、大事な場面で私の背中を押してくれたことへの感謝の証として。
 一瞬、目を瞠った田上くんは、ふっと表情を崩し苦笑いを浮かべた。
「……あーあ。俺、ついに引導渡されちゃいましたね。んなこと言われたら、もう諦めるしかないっすよー」
 溜息混じりの切ない声音に、胸の奥が痛む。どうしようもないとわかっていても、同じ想いを返せないことが申し訳なくて苦しい。
 落とし所のない感情を抱えたまま見つめると、田上くんはますます困った顔をして、自分の頭をくしゃくしゃと掻き混ぜた。
「あーもーだから、そういう顔しないでくださいよ! ばっさり断られてるのに、諦められなくなるでしょ!? 男ってのはね、好きな女が困ってるの見たら、ぎゅーってしたくなるんすよっ」
 少し乱暴に男心を語った田上くんは、驚き呆然とする私の腕をつかんで強く引く。あっ、と思った次の瞬間には、田上くんの腕の中に閉じ込められていた。
「ちょ、ちょっと!」
 慌てて身じろぎをする。啓也じゃない人の温もりを察知した身体が、無意識に拒否反応を示し、ぶるっと震えた。
 田上くんには申し訳ないけど、やっぱり啓也以外の男性に触られるのは気持ち悪い。肌が粟立ち、筋肉が強張る。私が固まってしまったことに気づいたのか、田上くんは短く息を吐き、そっと腕をはずしてくれた。
 おそるおそる見上げると、気の抜けたような笑みを返される。
「すいません。最後の思い出に、ついハグっちゃいました」
 冗談めかした言い訳に合わせ、私も身体から力を抜いた。
「な、なによ。どさくさにまぎれてっ。今のセクハラで訴えられても文句言えないよ!?」
「えー。勘弁してくださいっすー」
 片手を振り上げ、わざと大げさに怒るふりをする私と、ヘラヘラしながら、かわす田上くん。
 はたから見たらコントみたいだろう。でも、それでいい。何も言わなくても、このふざけたやりとりで、私たちの間に越えることのできないラインが引かれたのを感じた。
 中途半端に近づいていた心の距離が、元の位置へ戻っていく。
 また普通の先輩後輩として、同僚として、付き合っていければいい。そして、田上くんが本当の意味で幸せになれる誰かを見つけられるようにと強く願った。

 これから社長に顔を見せに行くという田上くんと別れ、駅へ向かって歩き出す。話をしているうちに陰った空の片隅には、一番星が輝いていた。
 啓也は今、何をしてるだろう?
 歩きながら彼を想う。今日、仕事が休みの彼は特に予定を立てず、のんびりすると言っていた。
 一緒にいるときは、こっちが申し訳なくなるくらい色々してくれるから、せめて私が仕事の間だけでもゆっくりしてほしい。でも今、彼の声が聞きたい……
 邪魔してしまうのを覚悟で電話をかけようか、それとも帰るまで我慢しようか悩んでいると、前方から向けられる視線を感じた。不思議に思い顔を上げる。右斜め前、歩道と車道の間に立てられた街路灯に寄りかかる見慣れた姿。
「啓也!?」
「お疲れさま、汐里。帰ってくるの待ちきれなくて、迎えに来たんだ」
 微笑みをたたえ、私を気遣う言葉をかけてくれる彼に、心がじわりと熱を持つ。嬉しくて思わず駆け寄ろうとしたものの、ふと湧いたわずかな違和感に私は足を止めた。
 啓也の顔に浮かぶ、わざとらしいほどパーフェクトな笑顔。前にもどこかで見たことがある……そう、あれは、啓也の機嫌がものすっごく悪い時の……
 立ち止まってしまった私の代わりに、彼が近づいてくる。腕をつかむ力の強さに驚いて見上げると、啓也は表情を変えないまま首をかしげてみせた。
「……で、さっきのは浮気?」
 ざあっと一気に血の気が引く。啓也がいつからここにいたのかは知らないけど、田上くんとのことを見られたらしい。
 違うと叫びたいのに、冷たく光る彼の瞳に気圧され喉が開かない。私は無言でぶんぶんと首を振りながら、蛇に睨まれた蛙の気持ちを痛感していた。

 半ば押し込められるように車へ乗せられ家に向かう間、私は何度となくさっきの顛末を説明した。
 田上くんが出張してきて偶然会ったこと、啓也との結婚を報告したこと、私の意思じゃなく無理矢理ハグされたこと。それから……多分あれは親愛の意味だろうと、ごまかした。
 迎えに来た時の完璧な笑顔を消した啓也は、真顔のまま、ぴくりとも表情を変えない。私の話を聞いていない訳じゃないんだろうけど、返事もしてくれなかった。
 マンションのエレベーターの中で、彼の横顔をちらちらと窺う。相変わらず無言。張り詰めた空気が痛い。
 嫉妬に駆られた啓也は私と田上くんの仲を誤解しているんだろうけど、これ以上どう説明すれば、なんでもないと信じてくれるんだろう。真実を何度くり返しても聞き入れてもらえないことに、うなだれた。
 かける言葉が見つけられないでいるうちに、エレベーターは最上階へ到着する。先に降りた彼を慌てて追いかけると、啓也は玄関ドアを開けた状態で押さえていた。
 近づいて彼を見上げれば、サッと顎をしゃくる。先に入れってことらしい。彼の瞳にある冷たくて剣呑な光を見た私は萎縮し、やっぱり何も言えずにドアをくぐった。
 啓也はちょっと子供っぽくてワガママなところがあるし、よく拗ねるけど、本気で怒ることはあまりない。そのせいか、一度怒ると機嫌が直るまでかなりの時間がかかる。これからどうやって彼を宥めればいいのかを考えると、気が重かった。
 玄関のセンサーが私の姿を感知し、ライトを灯す。明るくなったのに合わせて溜息をついた。
 背後に啓也の気配を感じるのと共に、鍵をかけた音が響く。のろのろと靴を脱ぎ、スリッパに履き替えたところで、突然後ろから抱き締められた。
「あっ、啓也?」
「ったく、もう、なんであんな奴と一緒にいるんだよ……!」
 怒っているというより、何かに苦しんでいるような、切なげなささやき。痛いくらいきつく締まる腕の中で、私は無理に首を曲げ後ろを見た。
「啓也、違うの! 私と彼は本当になんでもなくって、ただの同僚だか」
「わかってる」
 もう何度目かわからない釈明が、彼の声にさえぎられる。とっさに口をつぐむと、啓也は、はあっと深く息を吐いた。
「汐里は勘違いしてる。俺はあいつとの仲を疑って怒ってるんじゃない」
「え?」
 彼の意外な言葉に目を見開き、ぽかんと口を開ける。私が本当に何もわかっていないと気づいた啓也は、腹立たしいと言わんばかりにもう一度、溜息をついた。
「前にも言ったけど、汐里は男に対して無防備すぎるの。いくら相手が同僚だからって、あんなに近づいて上目遣いで見つめたら、変な気起こすんだよ。男ってのは」
 ふいに湧き上がるデジャヴ。いきなりハグされた時、田上くんも似たようなことを言っていた。
 そもそも私は男の人にモテないし、今まで普通に接していて問題が起きたこともない。でも二人が同じことを言うのなら、そうなんだろう。少なくとも、想いを寄せてくれていた田上くんの前でする態度じゃなかった。
「ん、わかった。ごめんね」
 前へ向き直り、心から反省をする。ヤキモチと心配をかけてしまった啓也にも、無意識とはいえ、おかしな気持ちにさせてしまった田上くんにも申し訳ない思いでいっぱいになった。
「本当に、ごめん」
 もう一度謝ると、息苦しいほどの締めつけがゆるんだ。彼は一旦離した両手を私のお腹のあたりで組み直す。優しい抱擁にほっとした。
「ちゃんと理解して、反省した?」
 まだ少し疑っているらしい彼に、うなずいてみせる。
「うん。今度から気をつけるよ」
 啓也は納得したように「そう」とささやいて、私の耳に唇を押しつけた。
「それじゃ、次はお仕置きね」
 耳の奥に直接響く、ひそやかな笑い声。
「……ええっ!?」
 一瞬遅れて言葉の意味を理解した私が目を剥いたのと同時に、お腹の上の手がすばやく上着のボタンを外した。

 → 後編


   

Copyright (C) chihiro sasa all rights reserved  書籍番外編集  index