モノトーン・ベア
後編
「彼女になって欲しい」とマサオは言った。
聞いた瞬間、飛び上がるくらい驚いて、次に嬉しいって思った。気付いてないだろうけど、マサオは私の初恋の人だったから。
でも無理。付き合えない。
私が断ったのをマサオは年齢のせいだと思い込んだみたいだけど、そんな事じゃない。
マサオはちょっと……というか、かなり単純だから、趣味を理解して買物に付き合う都合のいい私を、何か勘違いしてるんだろう。手近なところで済まそうとしてると言うか。
大好きなファンシーグッズに囲まれてる時のマサオは、本当に幸せそうに笑う。私の前では、しない顔。人間の女なのに、ゆるキャラに負けるなんて、悲しいやら笑えるやら。
恋愛経験が無くても一方的に想うだけの関係が辛いだろうって事は、簡単に想像がついた。目離れすぎな、ありえない顔したクマにも劣るのに、気付かない振りして付き合う事は私にはできない。
……好きだから、絶対に受け入れる訳にはいかなかった。
買物に誘うのを我慢するという宣言通りに、マサオからの連絡がぴたりと途絶えた。
私たちが付き合っていると勝手に勘違いしているウチのお母さんと、マサオんちのおばさんは、破局かとオロオロしていたみたいだけど、週一だったのが月一になるだけの事。また来月になればメールか電話が来るんだろうと思っていた。
実際、夏休みに入った私は遊ぶ暇も無いくらい本当に忙しくて、マサオに会えない寂しさも忘れそうだった。
おかしいな、と思い始めたのは夏休みが明けて少しした頃。
月一で来るはずの誘いが、もう2ヶ月も無い。何かあったのかと思ってマサオの携帯に掛けて見れば、コールはするものの出ないし、メールは着いてるみたいだけど返事が来なかった。
仕事上でトラブルでも起きたかと心配して、おばさんに聞いてみても、至って普通らしい。携帯の番号も変えてないようだと聞いて、やっと避けられているんだと気付いた。
理由は多分、告白を断ってしまったから。
最初に拒否した時マサオは「気にしないから、今まで通りでいてくれ」って言ってたけど、建前と現実は違う。幼馴染とはいえ自分を振った女と、気を使ってまで会う事も無いと思ったのかも知れない。もしくは私の代わりに買物に行ってくれる人が現れたか。
そこまで考えた私は、痛む胸を押さえてベッドに座り込んだ。
強がらないで差し出された手を取ってしまえば良かったんじゃないかなって事は、何度も考えた。
前カノと別れて以来、趣味がばれないように女っ気の無い生活を送っているマサオだけど、探せば理解してくれる人だっているだろうし、いつ現れたって不思議じゃない。モテないマサオに安心しきって、今まで通りの関係が続くと信じていた私は今更、怖くなった。
座った位置から自分の部屋を見渡す。
女の子の部屋とは思えないシンプルなモノトーンの家具や小物。ベッドの枕元に置いてあるクマのぬいぐるみもグレーと黒だった。
そっと持ち上げる。年季の入ったこぐまは、ちょっと毛がパサパサしていた。
5歳の誕生日にマサオがくれたプレゼント。
当時、中学生だったマサオは初めて行ったファンシーショップに動揺して、小さい女の子へのプレゼントにも関わらず、一番買うのに恥ずかしくないモノトーンのぬいぐるみを選んだらしい。包みの中から超渋い色合いのクマが出てきた時の驚きを思い出した私は、思わず笑ってしまった。
この子が全ての始まり。
ファンシーショップへ行ったマサオは、その魅力に取り憑かれてしまった。逆に私はモノトーンの格好良さが気に入って、今では服装も白とか黒ばっかりだ。
手の中のぬいぐるみを操り人形みたいに動かしてみる。ぼーっとした顔。じっくり見ても、あんまり可愛くない。でも好き。
……会いに行ってみようかな。
会ってどうしたいのか自分でも判らない。ただ、避けられたままは嫌だった。
私はクマを元の位置に戻すと携帯を取り上げた。
アパートの部屋の前まで来た私は、呼び鈴に指先を当てて息を止めた。
変に緊張する。
マサオが官舎を出てここへ引越した時に一度来ているから、中の様子も知っているのに、なんでドキドキするのか判らなかった。
ぐっと顎に力を入れてから、指を押し込んだ。間延びしたベルの音が響く。
1、2……と心の中で数えて、余裕で1分を過ぎた頃、中から鍵の外れる音がした。
ドアの隙間から顔を覗かせたマサオは、新聞勧誘か何かだとでも思っていたのか、私が立っていた事に驚いてぽかんとした。
「絵衣。なんで……」
「あ、会いに来たの。連絡、来ないから。えと今、平気?」
マサオが今日、非番だという事はおばさんから聞いていた。でも本人には何も言っていない。電話やメールと同じように避けられて会えなくなりそうだったから。
「ああ、うん」
特に用の無かったらしいマサオは、私が通れるように身を引いて場所を空けてくれた。
「お邪魔します」
一応、他所の家だから挨拶をして上がる。靴を脱ぐ時にこっそり見たマサオは、凄く困った顔をしていた。
みぞおちの辺りがズキズキ痛む。
避けられてるのに押しかけるなんて、迷惑以外の何でもないって判ってたけど、このまま会えなくなるのは絶対に嫌。空気読めない子供だって思われても良いから、話がしたかった。
「そこら辺に座って。なんか飲むか? つっても酒以外じゃ麦茶しかねえけど」
「ううん、いらない」
喉は乾いてるのかも知れないけど、緊張しすぎてそれどころじゃない。
マサオは軽く相槌を打つと、ローテーブルを挟んだ向かい側にどすんと座った。
「……」
お互いに無言。テレビもついてないから、部屋の中には目覚まし時計の秒針が立てる音しか聞こえない。
最近の様子とか、どうして連絡くれなかったのかとか、何で避けるのかとか、このままじゃダメなのかなとか、聞きたい事は色々あったけど、どう切り出して良いのか判らなかった。
落ち着かなくて、そわそわしながら部屋を見渡すと、テレビの脇の本棚が目に付いた。
マサオがファンシーグッズにハマりだしてから、欠かさず購読していたキャラクター専門誌。左から発売順に並べてある右端、最新号が先々月のままになっていた。
「マサオ……本買うの止めたの?」
余りにも意外で、思わず口にする。何の事か判らないらしいマサオが首を捻ったので本棚を指差すと、理解したのか「あー」と呟いた。
「んー、なんか急に飽きたっつーか。もう良いかなって感じになったから買ってない」
驚いてマサオを見つめた。まさか本当に買わなくなったとは思っていなかった。
マサオは豪快な見た目と違って何事も地道にこつこつ続けるタイプで、飽きるという事がほとんど無い。小学生から始めた柔道もずっと続けていて、その延長で警察官になったようなものだし、グッズ集めだって10年以上やっている。並べられた雑誌の一番古い日付は13年前だった。
「なんで急に……」
問いかけた私の視線を避けるように、顔を逸らしたマサオはゆっくり息を吐いた。
「何となくって言うか、多分だけど、もうとっくに飽きてたんだと思う。ただ今まで気付いてなかっただけで……」
「え?」
言われた意味が判らない私は、思いっきり聞き返してしまった。
飽きていた事に気付かないってどういう……幾らマサオでも、自分の好みの変化に気付かないほど鈍くは無いと思うんだけど、多分。
横目で私を一瞥したマサオは、またそっぽを向いて少し顔をしかめた。
「ずっとキャラ物が好きだと思ってて、絵衣を付き合わせてたけど、いつの間にか逆になってた。お前に会いたいから買物行ってたみたいで。気付いたのは最近だけど」
物凄く予想外な事を言われた私は、いまいち理解できなくてパチパチと目を瞬いた。胸がやたらドキドキしていて、内容をちゃんと考える事ができない。
「それ、で、買わなくなったの?」
「うん。絵衣に振られて会わなくなって、そしたらどうでも良くなった」
「じゃ、じゃあ、全然連絡来なかったり、避けてたのって……」
「……だって目的も無いのに会ってくれなんて言えねえし。嘘ついてまで会うのは何か違うし。あと……ずっと諦められなくなりそうで怖かった」
ちょっと情けないマサオの告白を聞いた私は、ガチガチだった緊張がほぐれていくのを感じた。
「なぁんだ」
力の抜けちゃった私は、テーブルに突っ伏して目を閉じた。
「絵衣?」
突然テーブルに倒れこんだのを心配する声が、上から響く。大丈夫って知らせる為に頭を振った私は、首を反らせてマサオを見上げた。
「私、マサオの事、好きだよ」
ひゅっと息を呑んだマサオの顔が、強張ったように見えた。
「でもね、マサオは私よりクマの方が好きなんじゃないのかなって思ってた。いつもグッズ買いに行く時しか連絡来ないし、会いにも来ないし。クマ相手に超幸せそうに微笑んじゃってるし」
「いや、それは……」
訂正しようとするマサオの言葉を、首を振って遮る。
「それに……告白してくれた時、私の事、好きって一言も言わなかった」
あの時マサオは、私の事をどう思っているか言わないで、ただ「彼女になって欲しい」とだけ言った。わざわざ言わなくても判るだろうと思ったのかも知れないけど、想いよりも条件を優先されたような気がして悲しかった。
マサオはキッと顔を上げると突然立ち上がり、一足飛びにテーブルを越えた。そして、驚く私に覆い被さるように抱きついた。
「好きだ。絵衣が、好きなんだ」
想いの強さに比例するみたいに、ぎゅうっと腕に力が篭もる。少し苦しかったけど、それだけ強く求められている事が嬉しかった。
「うん。私も好き」
「……絵衣」
吐息混じりに呼ばれ、顔を上げる。うるさいくらい激しい鼓動。間近で見つめ合った私は、急に恥ずかしくなって目を逸らした。
それが引き金になったのか、マサオの両手が私の頬を包んだ。触れた手を熱いと感じた次の瞬間には、唇が重なっていた。
初めてのキスに驚いて呼吸を止めていた私は、息苦しさに顔を反らした。
単なる酸欠なのか、びっくりしすぎかは判らないけれど、くらくらして目に涙が浮く。
「絵衣」
間近から聞こえた心配そうな声に顔を上げると、熱っぽい目をしたマサオが私を見つめていた。
ちょっと厳しくも見える真剣な表情。初めて見る顔にドキドキした。
そっと胸にもたれて目を閉じると、同じくらい激しいマサオの鼓動が聞こえた。
「好き……」
今まで隠していた気持ちを素直に言葉にする。想いが通じ合っている事を確認したくて何度も声に出した。
「絵衣、ごめん」
「え?」
搾り出したようなマサオの掠れ声が耳に届いたのと同時に、私の身体が宙に浮いた。抱き上げられたと気付く前に、奥のベッドに押し付けられる。
「ちょっと、待っ……!」
間髪入れずに重なった唇が焦る私の声を吸い取った。
マサオの舌が口をこじ開け、中を撫でる。初めて触れる感覚に驚くのとは別に、寒気みたいなぞわぞわした痺れを腰の辺りに感じた。
「ん、んっ」
お互いの舌が絡み合う感触と音。ずっとバクバクいってる心臓、苦しい呼吸。頭が真っ白になった私は、マサオの触れる感覚だけを追いかけた。
「絵衣、絵衣、好きだ」
キスの合間に、うわ言みたいなマサオの声が聞こえる。今まで聞いた事が無い熱の篭もった囁きで、マサオも夢中なんだって判った。
唇を合わせたまま、マサオの手が私の腕から胸を撫でる。
服の上からだったし力もそれほど入っていなかったから、さらっと触れただけなのだけど、その感触は私を急に現実へ引き戻した。
感情の秤にかけられた想いが、未知への恐怖でどんどん軽くなる。耐え切れなくなった私は、胸にあてられた手を上から押さえて首を振った。
「マサオ、だめ。怖いよ」
思わず声が震えた。
「あ、絵衣。俺……」
どこか遠くを見ていたマサオの瞳が、私に焦点を合わせる。
ベッドに仰向けになっている私と、覆い被さっているマサオ。我に返った私たちは身動きもしないで、ただ見つめ合う。押す事も引く事もできない微妙な雰囲気が漂っていた。
マサオの言う付き合いの中には、えっちな事も含まれているって最初から判っていたはずなのに、思い切れない自分が情けない。
何だか物凄く申し訳ない気持ちになった私は、そっと視線を逸らした。
「ごめんね」
「え、何で絵衣が謝るんだよ。その……押し倒したのは俺だろう?」
「だって、止めちゃったし」
謝るくらいなら先に進んだ方が良いのかも知れない。でも、さっき感じた掴みどころの無い恐怖を思い返すと、続けられる自信が無かった。
ふっと苦笑したマサオが、大きな手で私のおでこを撫でた。
「ありがとな。でも俺が急ぎすぎただけで、絵衣は悪くない。これから少しずつ慣れていけばいいんだ」
優しい言葉が胸に沁みる。
「マサオ……!」
涙が出るほど嬉しくなった私は、腕を伸ばしてマサオを抱き締めた。
「うわっ」
片手で体重を支えていたマサオは、私が突然しがみついた事でバランスを崩し、ベッドに肘をついた。
重くは無いけど、身体が密着する。目の前まで近づいた頬にキスをした。
「好きだよ」
マサオの身体がビクッと大きく震え、次にがくんと脱力した。
「絵衣、そうやって煽るの禁止」
「はい?」
煽るって何?
そんな事してないって言い返そうとした私は、体勢を立て直したマサオが、不自然な程にっこり笑っているのに気付いて言葉を飲み込んだ。
「煽られたら止まらなくなる。さっきみたいに無理矢理、襲うかも」
「ええっ!」
清々しい笑顔でさらっと言われた方が、逆に恐ろしく聞こえる。
私が思いっきり仰け反ったのを見たマサオは、笑いながら引き起こしてくれた。
「……じょ、冗談?」
「いや本気」
「うそぉ!?」
ぎょっとして目を剥く。
やっぱり冗談だったのか、マサオはまたカラカラと笑った。
「抱き締めるだけなら、良いか?」
「う、うん」
恐る恐る頷くと、後ろから回された腕に包まれた。
大きくて、あったかい。ドキドキと安心の混ざったような不思議な気持ちが胸に広がった。
「嬉しいけど、片想いの時より我慢しなきゃならないって、結構きついなあ」
「何が?」
上から降ってきた言葉の意味が判らずに、首を傾げる。
私の後ろにいるマサオは、少しの間黙ってから低く唸った。
「まあ、うん……あれだ。ほら、絵衣これから受験だし、付き合っててもなかなか会えねえだろうなって事」
なんとなく取ってつけたように聞こえたけど、受験が終わるまで頻繁に会えない事は間違いない。
今、目の前にいて触れ合っているのに、先を思うと寂しくなった。
「月一くらいなら、いいよ」
最後に会った時の自分の言葉を、もう一度言ってみた。
気付いたらしいマサオが、くっと笑う。
「ケーキバイキングの新作もあるし?」
「そうそう」
「俺はケーキのついでかよ」
悪ノリした私は、マサオのツッコミに笑い声を上げた。ひとしきり笑った後、目の前で交差しているマサオの腕に触れた。
「……嘘。マサオに会えるなら、どこでもいいよ」
「絵衣」
回された腕にまた力が篭もる。
「買物じゃなくて、ちゃんとしたデートしようか。水族館とか、ドライブとかさ」
マサオの気遣いが嬉しくて、前を向いたまま微笑んだ。
「それなら、今度はうちに来てよ。見せたい物があるの」
「絵衣の家? 何だ?」
「なーいしょ」
今もベッドの脇に座っているはずのぬいぐるみ。古くて毛がパサパサの可愛いこぐまを見たら、マサオは何て言うだろう。
ああ、でも、またファンシー熱が上がるかな?
まあそれでも良いか、と思った私は不思議そうなマサオに気付かれないように、こっそりとほくそ笑んだ。
End
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