負け組奇想曲 1 自室のソファにだらりと寝そべって、グラスの中のワインを煽る。 かたわらでボトル片手に私を見下ろす小林(こばやし)の、非難がましい視線は綺麗に無視しておいた。 いい歳した女がだらしない、とか、みっともない、とか思ってるんだろう。もう十年近く一緒にいるヤツの考えることなんて、お見通しだった。 静かな溜息が聞こえる。次にくるのはお小言だ。 「お嬢様、飲みすぎですよ」 ほらね。 「うるっさいなあ。いいでしょ、今日くらい」 酔いにまかせて突っぱねる。 今日は私の失恋記念日……もとい、負け組確定日なんだから、ヤケ酒くらいさせてほしい。 「……そんなに飲んだくれるほど、あの方を想ってらしたんですか?」 気遣いなんてまるでない、疑いに満ち満ちた声音に、ふんと鼻を鳴らした。 「そんなわけないでしょ。見合いして一回デートしただけの婚約者なんて、どうでもいいわよ」 「でしたら、何故そんなに荒れておられるんです?」 首をかしげる小林に正直、呆れた。この男は長いことウチで働いていながら、まだ状況が読めないらしい。 「バカねえ。あんなモヤシ男と縁が切れたって痛くもかゆくもないの。問題は私が婚約を破棄されたってことよ」 自分で言うのもナンだけど、会社を経営してる金持ちの家の末娘な私は、数ヶ月前にお見合いで知り合った男と晴れて婚約をした。 お互いを気に入ったわけでも、政略ってことでもない。単に立場とか家格がちょうどよかっただけ。 既に子持ちの兄がいて跡取りを望まれることのない私と相手は、嫁き遅れて面倒になるのを回避するために婚約に踏みきった。完全なる打算で。 他の人がどうかは知らないけれど、私は恋愛や結婚に夢なんて抱いていない。 下手に家が金持ちで注目を集めるから、格差のある人と運命的な出逢いを果たしたところで、なんのかんのと反対されるのがオチだし、寄ってくるのは逆タマ狙ってる困ったヤツばっかり。同じような金持ちの男は変にプライド高くて面倒くさい。本気で恋愛しようなんて、とても思えなかった。 我ながら枯れているけど、とにかく静かに暮らせればいい。そんな私にとって、うるさいことを言わない、そこそこ金持ちなモヤシ男との結婚は、まさに理想的だった。 ……相手に運命の出逢いが訪れてダメになるとは思わなかったけど。 具体的に何があったかなんて知る気もない。ただ結果的に、モヤシ男はOLやってる一般人の女と恋に落ち、婚約を解消してくれと土下座してきた。で、協議の末、今日それが成立した。 「婚約を破棄されたからといって、どうということもないでしょう。次のご縁をお探しになればよろしいじゃないですか」 細いメガネを押し上げながら、小林はいつもどおりの真顔でそんなことを言う。 「そんなもの、あるわけないでしょ。婚約までしておいて他の女に盗られたって、外じゃいい笑い者よ。婚約破棄ってだけで傷物扱いだろうし」 「しかし当家の人脈を駆使すれば……」 言いつのる小林を、あざ笑ってやった。 「それで一生、傷物の女を貰ってやったんだって旦那に大きい顔をされ続けるわけね」 冗談じゃない。 知らないうちに溜息が漏れる。 「もう海外留学でもして、向こうで暮らそうかな」 行きすぎた現実逃避で、到底、無理な可能性まで頭に浮かんだ。 「ダメです。海外では私が同行できません」 小林がきっぱりと否定する。 もともと彼は私のお目付け役兼、運転手として採用されたのだけど、最近では有能さを買われて、家内の財務や執事の真似事までしていた。 私が海外留学をすると、お目付けと執事業の兼務ができないと言いたいんだろう。 「いいわよ、別に。私だって二十歳すぎてるんだし、今さら面倒みてもらわなくても大丈夫」 「お嬢様……」 硬い声に目線を上げる。見れば小林はぐっと奥歯を噛み締め、表情を強張らせていた。 単純にお目付けが必要な歳じゃないと言いたかったのだけど、彼は何か勘違いしたらしい。 「小林が役立たずだって言ってるんじゃないのよ。ただ、もういい歳なん」 「わかりました」 「え?」 私の説明をさえぎった彼は、はっきりとうなずいた。 「私がお嬢様を貰い受けます」 一瞬の静寂。 「は、はあぁっ!?」 驚きすぎて固まっていた私は、我に返った瞬間、奇声を発していた。 「ご不満ですか?」 「不満も何も、無理よ、無理っ」 私の手からグラスを抜き取り、ボトルと一緒にサイドテーブルへ戻した小林は、冷静そのものな顔で条件を指折り数え出した。 「こちらには及びませんが私の家もそれなりの資産は有しておりますし、採用時の身辺調査でも良い評価を頂戴しました。歳が多少離れていることには目をつぶっていただくとして、私はお嬢様を傷物だとは思っておりませんし、大きい顔をする気もありません」 「そ、そんなの、お父様が許すわけないでしょ!」 淡々とした小林に、唾を飛ばす勢いで叫ぶ。 彼は立ったまま少し顔をしかめた。大方、女性ががなり立てるなんて、はしたないとか思ってるんだろう。 「……ご当主様からは以前より、お嬢様が嫁き遅れた時にはよろしく頼むと仰せつかっております」 うぉい、オヤジ!! 内心で口汚くつっこみを入れ、目を剥く。 「嫌よ。絶対に嫌!」 「何故です。面倒のない相手なら誰でもいいと、以前おっしゃっていましたが……」 彼の追及に頬がほてる。顔を見られたくなくて、うつむいた。 「小林は面倒だから、ダメ」 「は?」 まあ、その……あまり思い出したくないけど、小林は私の初恋の人だったりする。 小林がこの家へ来た当時、まだ十代の多感だった私には年上の男というだけで彼が格好良く見えていた。というか女子校育ちのせいで男に免疫がなかったから、しかたない。 ところが恋に恋していた初々しいドキドキは、ほんの数ヶ月で破れた。小林に彼女ができたから。しかも相手はウチで働いていたメイドの一人。 そもそも最初から相手にされてないのはわかっていた。彼にすれば雇い主の娘なんて完全に対象外だろう。でも、ムカついた。 だってコイツ、裏庭でこっそりキスしてたのよ。それも濃厚なやつ。失恋と同時に男女の生々しい交わりを見ちゃった、いたいけな私のショックを考えてほしい。 ソファに座ったまま小林を見上げ、睨む。 「そういえば、あの彼女どうしたのよ」 小林が不思議そうな表情を浮かべた。 「あの彼女?」 「いたでしょ。アンタがウチに来てすぐ、よろしくやってたメイドが」 「ああ、別れました。七年も前ですが。よく覚えていましたね」 感心したような声にムッとする。 「忘れないわよ。ウチの裏庭でチューしてたの見たんだからね!」 過去の恥ずかしい場面を見られていたというのに、小林は動揺することもなく平然と受け止めた。 「それは、お見苦しいところを申し訳ありませんでした。あの当時は私も若くて、やりたい盛りでしたので……」 さらっと飛び出した爆弾発言に、思いっきり吹き出す。そのまま続けて咳き込んだ。 「大丈夫ですか、お嬢様」 私に向かって伸ばされた彼の手をはねのけ、後ずさる。 「ななな、何言っちゃってるのよっ! ヘンタイ!」 弾かれた自分の手をじっと見つめた小林は、きょとんとして首をひねった。 「屋外で致したということではありませんよ。若気の至りで深く考えずに女性と付き合っていたというだけで」 「やーっ、聞きたくない! 最っ低、もう!」 次々出てくる下品な言葉に、耳を塞いで首を振った。 恥ずかしくて、ドキドキして、顔が熱くなる。 おそるおそる目線を上げると、小林は唖然としていた。 「お嬢様……もしかして、この程度の会話もダメなんですか?」 「も、もしかしても何も、平気なわけないでしょ! 私まだ嫁入り前なのよ!?」 ギリギリと睨みつける私に、憐れみの視線を投げかけた彼は「まさか」と呟き、目頭を押さえた。 「……あの、赤ん坊はコウノトリか妖精が運んでくるとは、思ってらっしゃらないですよね?」 「はあ? それくらい知ってるわよ。学校で勉強したもの」 男女の身体と、妊娠の仕組みは小学校の時に習った。それに付随する行為があるのも知ってる……その……なんかやらしいことらしいっていうのも。 恥ずかしさでそわそわする私に、小林は呆れ混じりの視線をよこした。 「では、具体的にどういうことをするのかは、ご存知ですか?」 「ばっ、バカじゃないのっ!」 振りきった感情のままに叫ぶ。 肩を落とした彼は、うつむいて長い溜息をついた。 「よくそれで婚約しましたね。戸籍上だけの結婚というわけではなかったのでしょう? お相手の方が不憫というか。知らないまま結婚しなくて良かったというか……」 「何よ、それ」 どうして振った男の方が不憫だなんて言われるのか。 憤慨して頬を膨らませると、小林は困ったように微笑んだ。どこか優しげな表情に、どくんと胸が鳴る。 「まあ、いいです。私が教えて差し上げますから。最終的に一緒になるのなら同じことですしね」 「え……何を……」 一度大きくはねた心臓が、続けて小刻みに震え出した。 期待と怖さの入り混じった不思議な気持ちをかかえた私は、近づいてくる彼をただ見つめていた。 → 2 |