書籍番外編集  index



 コーヒータイム  携帯サイト「どこでも読書」さま主催 秋のエタニティフェア2014寄稿作品

「うー……やっと終わったぁ」
 一人きりのオフィスでバンザイのポーズをして、溜息と一緒に喜びの声を上げる。
 中堅どころの文具メーカーで営業事務をしている私は、就業時間ぎりぎりに、どうしても明日必要だという見積書の作成を頼まれた。
 年始から間もないせいで課長は取引企業への挨拶まわりに行っているし、主任は昨日からインフルエンザで休んでいる。他の先輩社員さんたちものっぴきならない理由で残業できず、どうなることかと思ったけれど、なんとか私一人でも形にすることができた。
 強い疲労と共に、やりきったという満足感を覚える。あとは、できあがったものを明日の朝、課長に確認してもらって、担当部署に提出すればOKだ。
 私は作成したデータを保存して、パソコンの電源を落とした。
 やっと帰れる。今日の夕飯は何にしよう。遅くなってしまったから外で食べるのもいいよね。
 さっきから騒がしく鳴いているお腹をさすり、タイムレコーダーの前に移動して『花井小百合』と書かれたカードを通した。
 退勤の処理が済んだことを確認して、自分のデスクに戻る。バッグを取り上げたところで、入り口のドアをノックする音が響いた。
 私が在席している営業事務課は、営業部全体の資料の管理と保管をしている。だから、他の課の社員が資料を確認するためにこうしてやってくるのだけど……
 こんな遅くに誰だろう?
 私が返事をするよりも早くドアが開き、すらりとした男性が入ってきた。同じ営業部の、法人企画開発課に在籍している藤岡嘉人さんだ。
「失礼します」
 男性特有の低い声を耳にして、キュッと身体が強張る。
 女子校育ちで異性と接することが少なかったうえ、ぽっちゃり体型で恋愛事と縁がない私は、彼に限らず男性が苦手だった。
「あ。お、お疲れさまですっ。どうか、されましたか?」
 緊張していることを悟られないように明るく返事をしたけど、力みすぎて声が裏返ってしまった。
 急に恥ずかしくなって、うつむく。
 藤岡さんは私の不審な態度を気にかけることなく、淡々と資料を確認しにきたと語った。
 どうしてこんな時間にきたのか疑問に思ったけれど、彼は何も説明せずに目的の資料を指定してくる。社交辞令的なねぎらいの言葉さえない。私は言われたとおりに資料を出しながら、いつもと違う冷たい態度の藤岡さんに違和感を覚えた。
 普段の彼は穏やかで明るくて、誰にでも優しい。さっぱりした綺麗な顔とスタイルの良さで、女性たちから持てはやされているけど鼻にかけることはなく、仕事に対しても真面目で、悪い噂を聞いたことがなかった。
 爽やかで誠実な人。それなのに、今、目の前にいる藤岡さんは、声をかけるのも躊躇するほど刺々しい雰囲気を纏っていた。
 よく見れば髪が濡れていて、顔色も良くない。いったい彼に何があったのか。余計なお世話だというのはわかっているけど、心配する気持ちが頭をもたげる。
「……あの、何かお手伝いしましょうか?」
「いい。自分でやるから」
 私の申し出をきっぱりと拒絶した藤岡さんは、手元の資料をチェックしては必要な部分をコピーしている。私は近くのデスクに積まれたバインダーへ目をやり、そっと息を吐いた。
 あれを一人で確認するのは、かなりの時間がかかるに違いない。
 彼に気づかれないようにこっそりと肩をすくめて、私は給湯室に向かった。
 電気ケトルに水を入れて、スイッチを押す。自腹で用意してあるドリップバッグのコーヒーを二つ取り出し、自分用とお客様用のカップに乗せた。
 もうタイムカードを押したし、本当は藤岡さんを残して帰っても問題はない。使った資料はまとめて置いておくようにお願いしておいて、明日の朝、私が少し早く出勤して片づければいいだけだ。
 でも、彼の様子がおかしいことを考えると、先に帰るのはためらわれる。
 もちろん私がいるからといって藤岡さんの問題が解決するとは思っていない。ただ、せめてコーヒーでも飲んで一息ついてほしかった。
 お湯が沸くのを待つ間、迷惑に思われてしまう可能性を考える。今日の彼はひどくイライラしているようだから、余計なことをするなと怒るかもしれない。
 藤岡さんの負担にならないように、さりげなくコーヒーを差し出す理由はないかと頭を悩ませ……間違って不在の課長の分を用意したことにしようと思いついた。
 香り立つコーヒーを、黙々と作業をしている藤岡さんから少し離れた場所に置く。
「もし良かったら、飲んでいってください」
 緊張で強張る顔に笑みを貼りつけて、藤岡さんに声をかけた。顔を上げた彼は眉間の皺を消すことなくコーヒーカップを見やり、そのあと私に視線を移した。
 まるで睨むような表情を向けられ、ますます身体が硬くなる。
「い、いつもは課長がいるので一緒に休憩を取るんですけど、今日はいなくて。うっかり二人分淹れてしまって。なので、お嫌いじゃなかったら、どうぞ!」
 焦った私は訊かれてもいないのに、さっき考えた言い訳をまくし立てた。
 実はうちの課長は緑茶しか飲まない。あまり胃が丈夫じゃないそうで、コーヒーを飲むと胃もたれするらしい。けど、他の課の藤岡さんはそれを知らないだろうから、嘘の理由をごり押しした。
 私の勢いに驚いたのか、藤岡さんは表情を消して唖然としている。
 コーヒーを押しつけたついでに、私はポケットから取り出したハンドタオルをカップの隣に置いた。
「あと、これも使ってください」
「え?」
「髪、拭かないと風邪をひくので」
 オフィスのなかは空調されていて暖かいけれど、真冬に髪を濡らしたままでは体調を崩してしまう。
 ハンドタオルを出した理由を説明すると、藤岡さんは自分の頭に手をやり、初めて濡れていることに気づいたように「ああ」と呟いた。
「さっきまで外にいたから。雪が凄くて……」
「雪? 降ってるんですか!?」
 独り言のような藤岡さんの言葉を聞きつけ、私は慌てて窓に駆け寄る。下ろされていたブラインドをめくり、曇ったガラスを手で拭うと、外の景色が白く染まっていた。
「わあ」
 思わず声を上げる。
 雪に覆われたオフィス街は、普段の無機質な外観からは想像できないくらい幻想的で美しい。けれど……
「電車、大丈夫かなぁ」
 頬が引きつり、乾いた笑い声が口から零れる。
「今はどの路線も停まっているけど、雪がやんだから、順次、徐行運転に切り替えるみたいだね」
 すぐ後ろからかかった声に振り返ると、藤岡さんがいつの間にか近くにきていた。
 彼は右手で携帯をいじりながら、左手に持ったコーヒーを一口飲む。まさにできる男って感じの姿。一瞬見惚れたけど、また男性に対する緊張が湧き上がり、私はギュッと身を縮めた。
「あ、ど、どうも。ありがとう、ございます」
 藤岡さんはさっきまで機嫌が悪かったことなんて忘れてしまったみたいに、ふわっと微笑んだ。
「いや。……それより、さっきは失礼な態度をとってごめん。やっぱり仕事を手伝ってもらってもいいかな?」
「え。あ、はい」
 突然の方針変更に驚き、まばたきをくり返す。
 どのみち電車が動きだすまでは帰れないようだからかまわないけど、どうしたんだろう?
 藤岡さんは手に持ったコーヒーカップを少し上げて、笑みを深くする。
「ありがとう、花井さん」
 彼の表情を目にして、ドクッと心臓が跳ね上がった。男性に免疫のない私にとって、イケメンの笑顔は刺激的すぎる。
「や、そんな。お礼を言われるようなことじゃないです。コーヒーは間違って淹れてしまったんだし、資料をお出しするのは営業事務の仕事ですから」
「うん。そうだけど、それだけじゃなくてね」
 藤岡さんは静かに首を横に振り、なぞなぞのようなことを言う。彼の存在に緊張しまくりの私には、何の話か理解できなかった。
 ぽかんとして、藤岡さんを見る。私の表情を読んだらしい彼は「なんでもないよ」と言って、苦笑した。
 ……今日の藤岡さんは、本当に変だ。
 会話を切り上げ、コピー機の方へ戻っていく彼の背中を見ながら、私は思いきり首をかしげた。
 まさか、この夜のできごとが私の人生を変えてしまうなんて、思いもせずに。

 ふと、コーヒーの濃厚な香りを感じて、深呼吸した。
 良い香り……でも、コーヒーなんて淹れたっけ?
 不思議に思いつつ、そっと瞼を開ける。ベッドで横になっている私は、陽の光が差し込む明るい室内を見まわしてから、状況を思い返すために天井へ目を向けた。
 えーと、今日は土曜日で、私は夕べ嘉人さんの家に泊まって……って、もう朝なの?
 覚束ない記憶をたどり、溜息を吐く。今から一年近く前の、まだ嘉人さんを苗字で呼んでいた頃の夢を見たせいで、私は少し混乱していた。
 ぼんやりする頭を持ち上げて、上半身を起こす。かけてあった布団がはだけて、何も身に着けていない胸元が露わになった。
「ひゃっ!」
 慌てて布団を引き寄せる。誰も見ていないけど、恥ずかしい。
 私が裸で寝ていたのは、寝る前にパジャマを着直す余裕がなかったせいだ。夕べは嘉人さんにしつこく苛まれ、気を失うようにして眠ってしまった。
 段々はっきりしてきた頭に、その時の記憶の断片が浮かんでくる。嘉人さんはいつものように私に触れて、舐めて、エッチなことをいっぱい言っていた。
 思わず頬がほてる。最後の方に散々焦らされて「もっとして」と自分からねだったことまで蘇り、私はブルブルと首を横に振った。
 これ以上、思い出してはダメだ。恥ずかしすぎて、どうにかなりそう。
 それにしても、嘉人さんはどこにいるのかな……
 強引に頭を切り替えて、今日の予定をあれこれと考えていると、かすかな音と共に寝室のドアが少し開いた。
 その隙間から嘉人さんがそうっと顔を覗かせる。彼はすぐ私に気づいて、嬉しそうに目を細めた。
「なんだ、まだ寝ていると思ったのに」
「おはようございます。今、起きたところです」
 嘉人さんが寝室に入ってくるのに合わせて、コーヒーの香りが一層強くなる。ベッドの傍にきた彼は、私の額に軽く口づけた。
「おはよう。きみの寝顔を堪能してから起こすつもりだったけど、朝食の準備に時間をかけすぎたみたいだ」
「もう、なんですかそれ。でも、良い香り」
 歯が浮くような、わざとらしい彼の冗談に笑いつつ、濃いコーヒーの香りにうっとりする。
 ふと、さっきの夢の続きを見ているような錯覚に陥り、ベッドの脇に立つ彼を見上げた。
 夢に見たあの夜からしばらくあと……私はひょんなことから男性が苦手なことを嘉人さんに打ち明け、それを克服するために彼と練習のお付き合いをはじめた。そして、いつの間にか本当に彼を好きになっていた。
 自分に自信がない私はこの想いを諦めかけたけど、まわりの人たちの助けと、嘉人さんの愛情に包まれて、今、彼の隣にいる……
 眩しい日差しのなかで私を見返している優しいまなざし。少し気だるくて、穏やかな休日の朝。
 胸に広がる幸せな気持ちを伝えたくて、嘉人さんに向かって両手を伸ばす。私に合わせて少し屈んでくれた彼を、思いきり抱き締めた。
「嘉人さん、好き」
 想いを声に出すと、嘉人さんの背中がピクッと震えた。続けて溜息が零れる。
「……嬉しい。けど、最近の小百合は小悪魔っぷりに磨きがかかってきたなあ。そんな可愛く誘われたら、我慢できなくなりそうだ。もう朝食の用意はできてるのに」
 予想外の言葉にぎょっとして身を引く。違うという意味を込めて、ブンブンと首を左右に振った。
「さ、誘ったわけじゃないです! ただ、好きって言いたかっただけでっ……」
「でも、その姿で『好き』なんて言われたら、普通に期待するよ?」
「え……」
 その姿って?
 嘉人さんの指摘を受けて、自分の身体を見下ろす。胸元に引き寄せていた布団は、手を離したせいで太腿まで落ちて、上半身がすべて晒されていた。
 うそっ、やだぁーっ!!
 心の中で叫び声を上げ、布団を頭からかぶる。恥ずかしくて何も言えずに震えていると、嘉人さんがプッと噴き出した。
「そんなに慌てて隠さなくてもいいと思うけど。お互いに全部知っているんだし」
 確かに彼の言うとおりだ。でも恥ずかしいのは、どうしようもない。
 うつむいて唇を噛む。少ししてから、布団越しに抱き締められた。
「ごめん。小百合の反応が可愛いから、ついからかってしまった」
 謝罪の言葉に促され、そろりそろりと顔を出す。待ちかまえていた嘉人さんに、すかさずキスされた。
 彼は軽く唇の表面を合わせただけで離れていく。次に私の顔を覗き込んで、労わるように頭を撫でた。
「本当にごめん。小百合が嫌でなければ、朝ごはんにしよう」
「……嫌だなんて思っていないです」
 ただ恥ずかしかっただけで、からかわれたことに対して怒っていたわけじゃない。私がうなずくのを見た嘉人さんは、満足そうに笑った。
「良かった。今日はちょっと良い豆で、挽きたてのコーヒーを淹れてみたんだよ。久しぶりだからミルの調子が悪くて……」
 嘉人さんのコーヒーへのこだわりを聞きながら、大きな幸せを感じる。
 一年前のあの夜、嘉人さんにコーヒーを出して良かった。彼を好きになって良かった。……そして、私と同じ気持ちでいてくれることが嬉しい。
 じっと嘉人さんを見つめて、心の中で「ありがとう」と「好き」を告げる。
 またからかわれるのは嫌だし、本気で誘われているととられても困るから、声には出さない。それでも私の想いが伝わったように、嘉人さんは優しく微笑んだ。

                                          End


   

Copyright (C) chihiro sasa all rights reserved  書籍番外編集  index