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 ガラスの靴の行方

 そして、それから……。

 青く光る山々を背に立つ重厚な屋敷の門を潜り抜けた馬車は、入り口の前まで来ると緩やかに停車した。
 長旅を終えた事を告げるかのように、いななく馬たち。合わせて開かれた扉からは続々と使用人たちが現れ、馬車の中の二人を見つけて顔を綻ばせた。
 馬車の扉を開けるのももどかしく飛び出した年若い女性……ミュリエルは、ずっと会いたいと願っていた人の元へと駆け寄った。
「ドリーン!」
「お嬢様」
 優しく細められた瞳が涙で輝く。同じように目尻を濡らしたミュリエルは、人目をはばかる事無くドリーンに抱きついた。
「会いたかった……!」
「私も、心待ちにしておりました」
 親子のように抱き合う二人を、いくつもの瞳が温かく見守る。その中には、あの白亜の別荘で共に暮らした者たちも混じっていた。
 ミュリエルとは対照的にゆっくりと馬車を降りたギュンターが、勢ぞろいした面々を見回して苦笑した。
「出迎え、ご苦労。しかし再会を祝うのは、中に入ってからにしたらどうだい?」
 凛と響く声にハッとしたミュリエルは、振り返って恥ずかしそうにはにかんだ。
「……ごめんなさい。つい」
「構わないが、ここは冷える。さあ、我が屋敷を案内しよう」
「ええ、ありがとう」
 ごく自然に寄り添って歩き出す当主と、その婚約者を、使用人たちは嬉しそうに見送った。

 王都での舞踏会を終え、想いの通じ合ったあの夜から一月。ミュリエルは婚約者として、彼の領地アディンへと迎えられた。
 あの後……継母、義姉と和解し、ジラメネス家の今後を話し合ったミュリエルは、一旦ドリーン達の待つ別邸へ戻るつもりだった。もちろん、口約束とはいえ婚約したのだから、アディンに居を移すつもりではいたが、何もかもが急すぎて準備のために戻らざるを得ないと思っていた。
 しかしそんなミュリエルの考えは、とうに先回りしていたギュンターによって意味を成さなくなる。
 舞踏会の翌朝。彼の出した早馬の知らせにより、ドリーン達は別邸を整理し、先んじてアディンへ向かったという。
 ミュリエルは、その時に初めて、屋敷の使用人が一人も同行しなかった事の理由を知った。彼らはミュリエルが旅立ってすぐに転居の準備を始めていたのだ。二人の婚約が成立すればアディンへ、しなければ取り戻した紋章を使い本邸へ帰るつもりであったらしい。
 一人蚊帳の外に置かれたミュリエルは酷く驚いたものの、どこまでも自分の事を考えてくれていたギュンターとドリーンに頭が下がるばかりだった。

 いつかあの麦畑でギュンターが言った通り、アディンはとても美しい街だった。
 雄大な山並みと、雪解け水が作り出した湖。冬になれば一面雪と氷に覆われてしまうそうだが、初秋の今は、まだかろうじて青い牧草地に家畜が放牧されている。
 色とりどりの布を重ねた服を着た人たちが行き交う、活気ある街並みの最奥、漆喰と黒木で作られた広い屋敷の窓からミュリエルは外を眺めていた。
 振り返ればそこには、優しい笑みを湛えたドリーンがいる。
 ギュンターは留守にしていた間に溜まっていた仕事をしなければならないらしく席を外していたが、彼の屋敷でドリーンと共にいる事がミュリエルには不思議でならなかった。
 まして、今の自分はギュンターの婚約者。
 数ヶ月前には想像もしていなかった事態に、ミュリエルは実感を持てずにいた。
「……何だか、まだ信じられないの」
「何か、ご不振なところが、おありなのですか?」
 穏やかなドリーンの声に、ミュリエルはゆっくりと首を振る。
「不満なのでは無くて、夢のようで。こんな私が幸せになっても良いのかしら……」
 本邸から追われたミュリエルはドリーン達の心配や想いにも気付かず、ただ後悔し泣き暮らしていた。ギュンターが訪れてからも、言われるまま行動していただけで、自発的に何かをした訳でも無い。
 与えられた幸せを嫌だとは思わないが、何も返せていない事が心苦しかった。それに……父の最期を思えば、やはり気が引ける。
 無意識に俯いてしまったミュリエルに、ドリーンは大げさに驚いた。
「まぁ、まぁ! お嬢様はお幸せにならなくてはいけませんよ」
「……でも……恵まれすぎている気がして……」
 これまでの暮らしのせいで、ミュリエルは幸せから遠ざかってしまっていた。ゆえに、差し出された手をそのまま掴み取って良いのかと悩んでしまう。
 表情の陰ったミュリエルに気付いたドリーンは、不安を吹き飛ばすようにカラカラと笑った。
「ご結婚される事で、お嬢様だけがお幸せになる訳では無いのですよ。ギュンター様も共にお幸せになられるのです。もちろん、私もでございます」
「……ドリーンも?」
「ええ。私がお仕えした方々がご結婚されるのです。とても嬉しい事ですよ。幸せでないはずがありません」
 満面の笑みで大きく頷いたドリーンを、ミュリエルは見つめる。深く大きな彼女の愛は、まるで母親のようだった。
 思わず駆け寄ったミュリエルは、ドリーンの胸に飛び込む。柔らかな感触に、涙がこぼれた。
「まぁ、何でございましょう。これから奥方様になられるのに、子供のようですよ……」
 口では嗜めながらも、ドリーンはミュリエルの頭をゆっくりと撫でていく。彼女の掌から伝わる温もりが、寄せる波のように心に広がった。
「ありがとう、ドリーン。大好き」
 触れた部分から、ドリーンが苦笑いした気配が伝わる。
 主従に厳格な彼女に嫌がられるのは判っていたが、どうしても気持ちを告げたかった。
 山の間へ消えていく夕日に照らされた暖かい室内で、ミュリエルはただドリーンに縋り付く。使用人などではない、大切な家族がそこにいた。

 アディンへやって来て最初の夜だというのに、ギュンターは急を要する仕事が立て込んでいるとかで食堂にも現れなかった。
 旅の間、ほとんどの時間を共にしていたミュリエルは寂しく感じたが、それ以上に、自分のせいで彼を不在にさせ、迷惑を掛けていた事に心を痛めた。

 屋敷の執事が用意してくれた部屋のベッドで、ミュリエルはギュンターを想う。
 ただ半日会えないというだけで、何故こんなに悲しくなるのかが判らない。すっかり弱くなってしまった自分に困惑した。以前なら、どんなに寂しくても一人で耐える事ができたのに、今は片時も離れず彼の傍にいたかった。
 そっと窓の外へ視線を移す。夜の帳の下りた空はどこまでも深い闇が広がっていた。
(……まだ、お仕事をされているのかしら……)
 会いたい。会って、迷惑を掛けている事を謝りたい。それから、無理をしていないかを確認して……できるだけ早く休んで欲しいとお願いして……。
 そこまで考えたミュリエルは、重く息を吐く。結局のところ理由など無いも同然で、ただ彼の顔が見たいだけだと気付いてしまった。
 ミュリエルは上掛けを剥がすと起き上がり、傍らの燭台に火を灯してベッドへ腰掛けた。
 今すぐ彼の元へ駆けて行きたい。しかし、こんな夜更けに寝巻き姿で出歩く訳にはいかないし、そもそも屋敷に来たばかりのミュリエルは、彼の仕事部屋や私室がどこにあるのかすら知らなかった。
 頼りない蝋燭の明かりが、ゆらゆらと瞬く。
 ミュリエルは身を屈め両手で顔を覆うと、愛しい人の名を呼んだ。
 ふいに掛け金の外れる硬い音が響いた。それから、僅かな扉の軋み。
 驚いて顔を上げたミュリエルは、半ば開いたドアの向こうに、明かりを手にしたギュンターを見つけ目を見開いた。
「ギュンター様……」
「ミュリエル? どうして、ここに」
「え?」
 自分以上に驚いているらしいギュンターに、ミュリエルは首を捻る。
 寂しがっているのを察した彼が忍んで来てくれたのかと思ったのに、そうでは無さそうだった。
 お互い状況が読めずに、少しの間ぼんやりと見つめ合う。やがて埒が明かないと思ったのか、部屋に入った彼が後ろ手にドアを閉めた。
「……夜這い、に来てくれた訳では無さそうだね」
「よっ、夜這い!?」
 ぎょっとして目を剥いたミュリエルに、ギュンターが苦笑する。
「とすると、おせっかいな精霊が一計を案じたのかな?」
「な、何の話ですの? 私はただ休もうと思っていただけで……」
 突然、夜這いなどと言われ混乱したミュリエルは、会いに行きたいと思っていた事も忘れ釈明を始めた。
 既に何かに気付いているらしいギュンターは、意地悪い笑顔で室内をぐるりと見回した。
「……ここは、私の私室だよ?」
 信じられない言葉に、ミュリエルはパチパチと瞬きを繰り返し、首を振る。
「そんな、だって……ここは客間だから、婚姻まで私室として使っていいと……」
「執事がそう言った?」
 先回りした彼の言葉に、何度も頷いた。
 肩を竦めたギュンターは疲れた笑顔を見せて、困ったように長い溜息を吐く。それからミュリエルの隣に座り、こめかみに口付けを落とした。
 急に縮まった距離に胸を高鳴らせたミュリエルは、そっと彼を見上げた。
「ギュンター様?」
「すまない、ミュリエル。君は執事に騙されたんだ」
「はい……?」
 不穏な言葉に眉を寄せる。未だに理解できないミュリエルは、はっきりと首を傾げて見せた。
「つまりね。執事は私の私室を客間だと偽って、わざと貴女がここで寝起きするように仕向けたのだよ」
「まぁ、どうしてそんな事を……」
 驚きから、ぽかんとしたミュリエルに、ギュンターは頭を掻いて目を逸らした。
「もともとは独り身の長かった私のせいなんだが、執事は焦っているんだ。……その……跡取りを早く、とね」
「御子をでございますか?」
「そう。だから寝室を一緒にしてしまえば、子ができると思ったんだろう」
「!」
 そこまで聞いたミュリエルは、やっと執事の意図を理解した。声も出せないほどの驚きと羞恥に、頬が熱を持つ。熱心な神教徒であるミュリエルには、婚前に契りを交わすなどという考えは微塵も無かった。
 真っ赤な顔で俯き微動だにしないミュリエルに、ギュンターはまた苦笑した。
「平素であれば我慢も利くのだが、今日は疲れているから難しいな。少々残念だが、私が客間へ行くとしよう」
 さっと立ち上がったギュンターは、ベッドに座ったままのミュリエルの手を取り甲に口付けた。
 おやすみの代わりのキス。ドキドキしながらそれを受け取ったミュリエルは、触れた彼の手が酷く冷たい事に違和感を覚えた。
 アディンはこれまでミュリエルが住んでいた土地より遥かに北に位置し、気候も一年を通して冷涼らしい。まだ初秋の今でも日が落ちれば暖が必要で、事実、この部屋もミュリエルがベッドに入るまでは暖炉に火を入れていた。
 ギュンターの手が冷たいのは、おそらく廊下を歩いてきたせいだ。部屋の外がそこまで冷えているとは思ってもいなかったミュリエルはハッとした。
「ギュンター様、客間には暖の用意がございますの?」
「まぁ……無いだろうが、構わないよ。どうせ寝るだけだ。ベッドに入ってしまえば気にもなるまい」
 離れかけた彼の手をぎゅっと握る。はぐらかすような曖昧な笑顔に、ミュリエルは強く首を振った。
「いけませんわ、風邪でも召されたらどうなさいます! 私が客間に参りますから、どうかここでお休み下さい」
「それで貴女が風邪を引くのかい? そんな寝巻き姿では廊下に出ただけで凍えてしまうよ」
 少し呆れ顔のギュンターに、唇を噛む。自分のせいで、また彼に負担をかけてしまうのが辛くて悔しい。
 ミュリエルは眉間に力を入れ一度強く目を瞑り、心を決めた。自分に悩む暇を与えぬよう、さっと顔を上げギュンターを見つめる。
「では、共にここで休んで下さいませ……っ」
 言う傍から、頬の熱が上がっていく。意を決したというのに羞恥から胸が震え、最後の方は声が裏返ってしまった。
 驚きで目を見張ったギュンターは、次の瞬間、苦しそうに顔をしかめ息を吐いた。
 様子の変わった彼を心配し声を発する前に、ミュリエルはきつく抱き締められ、そのままベッドへと押し付けられた。
 柔らかい寝具に身体が沈む。何が起きたのか判らず見上げると、強い光をたたえた眼差しとかち合い、息を呑んだ。
(……あの時と、同じ)
 愛していると告げてくれた夜に見た瞳が、自分を見下ろしていた。
「貴女は、ここで共にいる意味を本当に判っているのか? もう我慢が利かないと、言っているのに……」
 重ねられた両手から互いの鼓動が伝わる。どこか……胸の裏側が、どくりとうねるのを感じた。
「まだ正式な誓いを立ててもいない。神に背く事になるかも知れないのだよ……?」
 二人は婚約をしただけで、神に結婚を宣言してはいない。教会の承認が無い以上、契りを交わす事は貞淑を重んじる教義に反する事になる。……いかなる理由があろうとも、教義に譲歩や例外はありえなかった。
 ふと、ギュンターが自分の為にしてくれた事を思い返す。
 ミュリエルは一本一本絡められた指先をそっと握り、触れた彼の手の甲を確かめた。
 この手を汚させてしまったのは自分。彼が嘘をつき、紋章を奪い返した事を神は許さないだろう。例え、そこに正義が存在していても。
「なれば、私にも罪をお与え下さい」
「ミュリエル……!」
 彼のした事が罪だと言うのなら共に負う。今、傍に在る事、愛し合う事が罪悪でも構わない。
 ただ……。
「……貴方と一緒にいたい……」
 蝋燭の儚い光の中で、ギュンターの瞳が鈍く光った。
 紳士的な態度を取り去った、本当の彼を見つめたミュリエルは、熱い鼓動を全身で感じながら瞳を閉じた。

 ギュンターはそれから二度「本当に良いのか」と訊ねたが、ミュリエルの覚悟を悟ったのか後は何も言わなかった。
 いつも優しく触れ合うだけだった唇は、同じ人のものとは思えないほど荒々しく、男女の秘め事に疎いミュリエルを大いに狼狽させた。
 絶え間なく続くキスに震えているうちに夜着と下着は取り去られ、気付いた時には、互いに一糸纏わぬ姿で抱きあっていた。
 最初、冷たかった肌が、触れている場所から熱を発する。夜が更けるに従い温度の下がってきた室内で、二人は互いを温めた。

 羞恥と驚愕の連続だった一時の後、すっかり温まったベッドの中で、ミュリエルは自分を抱き締めているギュンターを見上げた。
 何も纏うものが無いせいで、酷く落ち着かない。夢中だった時には気付かなかった男女の身体の違いが、まざまざと感じられて、ミュリエルは知らず頬を染めた。
 睦みあう事は、まるで嵐のようだ。強い力に翻弄され、嬲られ、為す術も無い。
 いくら二人きりとはいえ、あられもなく声を上げ、感極まって泣いた事を思い出したミュリエルは、彼の腕の中で縮こまった。
「……ミュリエル、どうした? どこか辛い?」
「えっ、い、いいえ……その……」
 心配そうに覗き込んだ視線を見返す事ができずに、顔を反らす。さっきまでの事を考えていたとは、とても言えなかった。
「ん……本当に平気?」
「だ、大丈夫です……でも、あの、私……きちんと、できていたでしょうか?」
「え?」
 何を言っているのか判っていないらしいギュンターが、不思議そうに眉を上げた。
「先にお伝えすれば良かったのですけど……私、こういう時の作法が判らなくて。無学で申し訳ありません……」
 通常であれば、貴族の娘たちは成人する時か、婚約のできた時に、男女の営みとその作法についての教えを受ける。いざその時に慌て、夫君に恥をかかさぬように教育されるのだが、成人した時すでに隠遁生活を送っていたミュリエルは、そんな知識は永久に不要だと思っていたし、婚約ができてからは事の進みが速すぎて考える暇も無かった。
 訊いてはみたものの、ミュリエルは恥ずかしさに耐えられず、ギュンターの胸に額を押し付け顔を隠した。
 一瞬、ぴくりと震えた彼の身体が、小刻みに揺れだす。やがて、堪え切れない笑い声がこぼれた。
 ギュンターが笑っている事に気付いたミュリエルは、何が面白いのかと憤る。女の側からこんな問い掛けをする事が、どれほど覚悟のいる事か理解していないらしい。
「わ、笑わずとも宜しいじゃありませんかっ、私、本当に気にして……!」
 キッと顔を上げ視線を投げかけたミュリエルは、待ち構えていた彼の唇によって言葉を奪われた。不意打ちのようなキスに、背筋を震わせる。
 長い口付けの後、名残惜しそうに離れたギュンターはミュリエルの頬を撫で、ふと微笑んだ。
「すまない。馬鹿にしたのでは無くて、貴女が余りにも可愛らしいのでね」
「……」
「何も気にする事は無い。私は貴女の良人になれた事が嬉しいよ。感謝している。ありがとう、ミュリエル」
「そ、そんな……」
 キスの余韻でぼうっとしたミュリエルは、濡れた瞳を彼へと向けた。
 間近で見つめ合った彼が、にやりと笑う。
「まだ、自信が無い? それなら、おさらいしようか? 皆が起き出すまでは、まだ時間があるからね」
「えっ! あ、だめ……っ」
 制止も空しく、あっさりと組み敷かれたミュリエルは、項に触れる唇に身を捩った。
 翻弄される身体に、思考が呑みこまれる。過去とか、状況だとか、遠慮や配慮、そういう面倒な事が全て消えていく。
 ……とうに蝋燭の燃え尽きた暗がりの中で、二人は互いの想いをもう一度触れ合わせた。

 まだまだ陽の昇らぬ宵闇。
 暖かい彼の腕の中で眠るミュリエルは、この先、良人の溺愛ぶりに領民はおろか、王族の噂にまで上るようになる事や、後のアウデンルート家の系譜が、次代から極端に広がる事、果ては子や孫にまで冷やかされる事など想像もしていなかった。
 東の空が白むのは、もう少し先……今はただ幸せな夢に包まれていた。

                                          おしまい

   

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