ガラスの靴の行方
1
王都から遠く離れた小さな農村。朝の終わりを告げる鐘の音の響く中、教会へと向かう小道を行く人影があった。
装飾一つ付いていない黒のドレスに、同じ色のマントを羽織り、人目をはばかる様にベールで顔を隠している。体格や衣類で、その人が女性だという事は判るが、それだけだった。
規模は小さいものの歴史を感じさせる教会に辿り着いた彼女は、前庭の掃除をしていた老齢な牧師に軽く会釈をする。毎日の事なので、牧師も彼女の格好を別段気にせずに目を細めた。
「おはようございます。ジラメネスさん」
牧師にジラメネスと呼ばれた女性は、居心地が悪そうに俯いた。
「おはようございます、牧師様。しかし、姓では無く、名で呼んで頂けるとありがたいのですが……」
喪に服す老婆のような格好とは裏腹に、ベールの奥から聞こえた声は若い。
彼女の生い立ちや素性も知っている牧師は、それにも驚く事は無いが、若い身空で名を隠さなければならない暮らしを強いられている彼女を不憫に思った。
「すみません、失念していました。それにしても、今日は良い日和ですね」
「ええ、本当に」
僅かに彼女が笑ったような気配を感じた牧師は、箒の手を止めて空を仰ぎ見る。晴れ渡った青空はどこまでも澄み切っていた。
「心地よい日は、神の存在を間近に感じられるものです。奇跡が起きるかも知れませんね」
「奇跡……で、ございますか?」
「ええ」
脈絡の無い唐突な話題に、彼女はとまどっているらしい。
牧師は、ただ思いついただけの話だと彼女に知らせるように、そこで話題を断ち切った。
「今日も、ご両親にお祈りを?」
「あ、はい」
本来の目的を思い出した彼女は、ハッとして頷いた。
「では、どうぞ」
空気の入れ替えを兼ねて、開け放したままにしてある礼拝堂を示す。来た時と同じように会釈をして、教会内へと向かう彼女の背中を、牧師は静かな瞳で見送った。
……神と奇跡は、常に我らの隣に。
聖典の一句を口の中だけで暗唱した牧師は、礼拝堂に背を向け、また箒を動かし始めた。
朝の食事を終え、身の回りを整えてから教会へ向かい、今は亡き両親と神へ祈りを捧げるのは彼女の日課であり、義務であった。それは誰でもない、自分が自分に課した贖罪。
礼拝堂に進んだ娘は神の像の前に跪き、心の全てを傾けて祈りを捧げた。それこそ周りの全てが見聞きできなくなる程に。
だから我に返った時、すぐ近くのベンチに若い男が座っていた事に酷く驚いた。
「あ……」
びくっと身体を震わせた娘は、思わず声を上げてしまった。静かで天井の高い礼拝堂は、音がよく響く。案の定、こちらに気付いたらしい男がふっと微笑んだ。
「やあ」
気安い男の笑顔と態度に、身を強張らせる。娘は生い立ちのせいで、若い男性と接触する事が極端に少なく、二人きりになった事も無かった。
礼拝堂の中は薄暗いが、ちょうど男の座っている位置に天窓から差し込む陽光が当たっている。歳は二五歳くらい。緩く波打っている薄茶の髪に、緑色の瞳。他人の美醜に疎い娘にも、彼がかなり美しい顔立ちをしている事は理解できた。
この村に住んで既に数年。余り出歩かないと言えど小さな村だからほとんどの人間を知っているが、見た事の無い人だった。ただの白いシャツに紺のズボンを身に着けているだけの格好からは、旅人とも思えない。
一瞬、彼の存在を不審に思ったものの、誰であろうと礼拝に来た信心深い人間には変わりないと思い直した。
「あの……礼拝のお邪魔をして、申し訳ありません。誰もいないと思っておりましたので……」
うっかり声を上げてしまったせいで、彼の祈りを中断させた事を詫びる。と、彼は意外そうに眉を上げ、礼拝堂には相応しくない音量で快活に笑った。
「ははっ、私は礼拝に来たのではありませんよ。謝罪は無用です」
「え?」
驚く彼女に、男は身を屈めぐっと近づき、いたずらっぽい笑顔を見せた。
「貴女に会いに来たのですよ、レディ。神の導きによって、ね」
「……」
男の言う意味が判らない。返事も忘れた娘はベールの奥から、ぼんやりと男を見つめた。
無反応な態度をどう感じたのか、男はこれ見よがしに肩を竦めると、またベンチに戻って長い足を組んだ。
「実はね、私は遠方で魔法を使う仕事をしているのですよ。いわゆる魔法使いという奴です」
「魔法使い……」
繰り返してみたものの、いまいちピンと来ない。ここよりも北の諸国には未だに精霊の加護や、魔法が存在しているというのは何かの折に学んだ。しかし魔法に頼らない生活を選択したこの国で、彼らを見かける事はまず無かった。
おとぎ話に出てくる魔法使いは、暗い色のフードとマントを身につけた老人ばかりで、目の前の健康的な男とは似ても似つかない。胡散臭い事には変わりないが、随分とイメージが違うものだと暢気な感想を抱いた。
「魔法使いは生まれつきの素質で、精霊の声を聞く事ができます。精霊たちが万物に宿るというのはご存知かな?」
「え……ええ」
唐突な質問に面食らいながらも頷く。幼い頃に受けた神学の授業中、家庭教師がそんな事を言っていた。精霊は選ばれた者以外には見聞きできないが、神の意思によって数多の物、空間に宿り、世界を安定させていると。
彼女が見た目と違い博学なのに気を良くしたのか、男はすっと目を細める。男性に免疫の無い娘は、密かに頬を染め心臓を震わせた。
「少し前の事ですが、この教会に住まうという精霊が私の元を訪ねてきました。村に滞在している哀れな少女の夢を叶えてやって欲しいと言うのです」
「……」
「彼女は寓話に出てくる姫のごとく不幸で、心美しく、毎日教会を訪れては亡きご両親と神へ祈りを捧げるのだそうですよ」
静まり返った礼拝堂に、男の凛とした声が響く。
住む人の少ないこの村で、そんな酔狂な事をしているのは自分の他には無い。娘は突然やって来た得体の知れない男に、不気味なものを感じた。
昔ならいざ知らず、血を分けた家族も地位も失った今となっては、娘を狙ったところで得られるものなど皆無だ。だが、父をたぶらかしたその人が、意味も無く娘を疎んじる事が無いとも言えなかった。
じりじりと入り口へ向かって後ずさる。気付いた男は追いかけるそぶりも見せずに、くすりと笑った。
「逃げなくても大丈夫ですよ。まだ信じられないかも知れないが、私は貴女の味方で危害は加えない。何かするつもりなら、最初からそうしているとは思いませんか?」
確かに、男の言う事には一理ある。手を下すつもりなら、祈りを捧げている最中に後ろから襲えば良いだけの事。
娘は歩みを止めはしたものの、やはり男の話を信じきれずにその場で立ち竦んだ。
「……では、何が目的なのですか?」
「ですから、あなたの夢を叶えに来たのです。ミュリエル・ジラメネス伯爵令嬢殿」
久しく呼ばれていなかった呼称を耳にした娘は、驚愕に目を見開き身体を震わせた。
「どうして……その名を……!」
名前は隠しようが無いが、この村に来てから出自と家名は牧師と使用人以外の誰にも伝えていない。まして、貴族だという事も明かしてはいないのに、どうしてこの男が知っているのか。
ベールの奥からミュリエルが凝視すると、男はまた肩を竦めて見せた。
「精霊たちには隠し事など通用しませんよ。貴女の事は全て聞いています。不遇な生い立ちも、現状も、それからそのベールの下に隠している金色の髪と可愛らしい顔立ちの事もね」
「なっ……!」
立っているミュリエルの顔を覗き込んだ男は、極めつけとばかりにぱちんと片目を瞑る。
思わずざっと赤面したミュリエルは、自分を守るように固く両手を組んだ。
どういう事なのか全く判らない。ただ大変な事が起きようとしているのを本能的に感じ取っていた。
ジラメネス家は父の代まで都の政務役を任じられていた由緒ある貴族だ。
早くに母を亡くした為、父一人子一人ではあったが、数年前までミュリエルは伯爵令嬢として何不自由ない生活を送っていた。
その父がある時、同じように夫を亡くし、女手一つで子供を育てていた婦人と知り合い再婚する事になった。突然できた継母と義姉に戸惑う事もあったが、穏やかなミュリエルはすぐに打ち解け、父と継母の結婚を心から喜んでいた。
だが、父の早世により事態は急転する。
不慮の事故で父がこの世を去った途端、継母と義姉は掌を返すようにミュリエルに辛くあたり始めた。
それでも、生まれついての伯爵令嬢として、高貴であるようにと教え込まれてきたミュリエルは訴える事をせず、諍いを回避するために耐え続けた。
やがて、父から受け継いだ伯爵家の証である紋章まで取り上げられ、用済みとばかりに別荘のあったこの村へ、僅かな使用人と共に追いやられてしまった。
辛く忘れられない過去を思い返しながら、ミュリエルは重い足取りで、村外れの丘へ続く道を歩いていく。すぐ隣を、教会で会った自称魔法使いが上機嫌でついてきていた。
ほとんど人の出入りが無いとはいえ、村の中の教会で込み入った話をするのは得策でない。ミュリエルは、仕方なく彼を屋敷に招待する事にした。
村の大通りの切れた先から、丘の上に建つ屋敷までは、農道兼用の道を歩かなければならない。麦秋の近いこの季節は、両側の畑にあおい穂が実り、風の吹く度に清々しい音を奏でていた。
「見事だな……」
「え?」
ぽつりと漏れ出た言葉に横を見ると、彼は風に揺れる麦畑を見渡していた。
「この景色ですよ。まるで緑の海だ。そしてその中に浮かぶ小島と白亜の屋敷」
すっと指差した先には、小さな丘とミュリエルの住む屋敷が見える。こぢんまりした邸宅だが、ジラメネス家の別荘の中でも一、二を争うほど美しい建物だった。
「……放逐するにしても、行く先に美しい場所を選んだのは、お継母上のせめてもの温情か……もしくは王都から一番遠い別荘だからか……どちらでしょうね?」
放逐という言葉にぎょっとしたミュリエルは、立ち止まり男を見上げた。
「貴方は、どこまでご存知なの……?」
無意識に声が震える。家名に傷をつけたくない一心で隠し通してきた事情が、この男には筒抜けらしい。
彼は軽蔑混じりのミュリエルの視線に憤慨する事も、臆する事も無く、少し首を傾けて自分の顎を撫でた。
「ふむ……『貴方』という呼び方も親しくて好きですが、私はギュンターというのですよ。レディ・ミュリエル」
「ギュンター……様」
「もちろん本名ではありません。しかし魔法使いはギルドの規定で本名が明かせないので、お許し下さい。それから、どこまで知っているかという質問には、全てを、とお答えします。私には貴女想いの心優しい精霊がついているのでね」
未だに彼が魔法使いだという事には半信半疑だったが、ジラメネス家の内情を知っている事には違いない。自分が口をつぐみ続ければ誤魔化せると思っていた家の恥が、世に露見するかも知れないと考えたミュリエルは密かに項垂れた。
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