羊と狼一族の新年会
前編
乾杯の音頭に合わせて祝杯を少し舐め、仕出しの膳を並べた二間続きの和室をぐるりと見回した。
上座には、既に出来上がっているのかと思うほど上機嫌で酒を交わす親父と伯父。それから祖父に祖母、大叔父。中ほどでは母と伯母が楽しげにしゃべっている中に、大叔母と妹が混じっていた。
下座に座った俺は、隣で膳を突付く麻乃を見やる。成人式の時に仕立てたという桜色の振袖を着た彼女は、凛とした清楚な雰囲気を纏っていた。
見つめた視線に気付いたらしい麻乃は、僅かに頬を染め、所在無さそうに顔を逸らした。
年明け一週目の日曜日。新年会と称して、祖父母の家を訪れ宴を催すのが、後藤(ごとう)家一族の恒例行事となっていた。
一族と言っても集まるのは直系の近しい親族である大叔父夫婦と親父の兄弟、その家族だけだ。元々は、新年の挨拶に出向くのが面倒だから一箇所に集まってしまおう、という合理的な理由から始まった事らしい。
会場が祖父母の家というのも、表向きは「最年長者の二人が移動しなくても良いように」なんて言っているが、実のところ祖父母の家ならば互いに気兼ねしなくても済むし、仕出しだけ頼んでおけば手間も掛からない上、それが手抜きだとも言われないからだ。
大雑把で面倒くさがりな反面、打算的なところのある一族らしい会だった。
杯に残った酒を一気に煽ると、振り向いた麻乃がこちらを伺う。上目遣いな表情に、少しだけ見惚れた。
「どうかした?」
「あ……お酒、もっといる?」
麻乃は空になった杯を指差した。
「んー……じゃあ、もう少しだけ貰おうかな」
どちらかと言えば飲みたい気分じゃない。でも酌をしてくれるというなら別だった。
杯を持ち上げると、振袖の袂を押さえた麻乃が銚子を傾ける。零さないよう必要以上に前かがみになったせいで、彼女の項が間近に見えた。
髪を結い上げ、あらわになっている白い首筋に口付けて、思うままに味わいたい。クリスマスにかこつけ、なし崩しに彼女を俺のものにしてから約半月。何度この手に抱いても、足りないと思えた。
ふいに和室の奥から、わっと笑い声が上がる。出所が親父と伯父だというのは声で判った。
「今年は随分と盛り上がってるね」
目的はどうあれ新年のめでたい集まりだから、毎年明るい雰囲気で会は進む。が、最初からこんなに盛り上がる事はかつて無かった。
俺の言葉を耳に入れた麻乃は、頬を染めたまま拗ねたように顔をしかめた。
「馨介と……私、の事がばれたからでしょ」
「ああ、なるほど」
今気付いたかのように、わざとのんびり答える。
……最後まで気付かなかったのは、麻乃の方だけどね。
口に含んだ酒と共に、憎悪にも似た愛おしさが、じわりと身の内に広がった。
覚えている限り最古の記憶は、4歳の頃のものだ。
真夜中、妹を身篭っていた母が産気づいたというので、俺は麻乃の家に預けられた。一人置いていかれた寂しさに泣きじゃくる俺を、麻乃は抱き締めていてくれた。
「大丈夫だよ、馨介。麻乃がずーっと一緒にいてあげる」
後から考えれば、単に年上ぶった他意の無い言葉だったんだろう。だが、その言葉は俺の一番深いところにしっかりと刻まれてしまった。雀百まで、とは良く言ったもので、その瞬間から彼女は俺の中で「特別」になった。
小学3年までは幸せだった。家が近所で校区も同じだったから、毎朝一緒に登校して放課後は麻乃の家に行く。伯父と伯母も、もう一人子供ができたようで嬉しいと可愛がってくれて、そのまま泊まってしまう事もざらだった。
少しずつ変わりだしたのが、翌年。中学に入り部活に塾と忙しくなった麻乃とはなかなか会えず、共に登校する事もできなくなった。
その頃からクラスの女子がやたらと色めきだした。麻乃以外どうでもいい俺には関係の無い話だったが、俺たちも恋を知る年齢になっていたのだと気付かされた。
時同じく思春期を迎えていた麻乃に対して、異性としての生々しい興味を抱いたのも、この頃だった。
3歳という年齢差は酷くもどかしい。同じ年に中学へ入った俺と、高校に進学した麻乃。越えられない時間が悔しくて仕方なかった。
それでも、相変わらずの親戚付き合いは続いていたし、麻乃との仲も悪くなかった。
彼女が俺を男として見ていない事はとうに気付いていたが、恋愛事に全く興味の無い素振りに、望みの薄さと関係を壊す事への恐れを感じ、行動を起こせずにいた。
……この時の躊躇を、後から死ぬほど後悔する事になる。
忘れもしない、中3の春。麻乃に恋人ができた。
同じ高校のクラスメートだという、そいつとの馴れ初めを聞きながら、本気で殺意を覚えた。
その男に……あるいは、麻乃に。
俺は自分の良心や倫理感が、こんなにも軽い事に愕然とした。麻乃を繋ぎ留める為ならどこまで堕ちても構わないと思う自分が恐ろしくて、それからの数年は、忙しい事を理由に彼女を避け続けた。
麻乃の方も恋人との付き合いが最優先で、俺の事など気にしなかったのだろう。それまでの親密さが嘘のように、まるで違和感無く俺たちは疎遠になった。
決定的な失恋をした俺は、無謀にも麻乃を忘れようとした。直後に告白されたからというだけで、よく知らない女子と付き合ってみたりもした。他人に合わせるのに疲れ別れてからは、後腐れの無いその場限りの付き合いを繰り返すようになった。
大学に入る少し前、場当たりな関係を持った人に心惹かれた。いつもなら一度きりで連絡を取らないのだが、暇を見つけては彼女と逢うようになった。麻乃を忘れられるかも知れない、別の人を愛せるかも知れない……そんな期待を持って交際を申し込んだ俺は、彼女を通して「誰か」を見ていると指摘された。
どことなく雰囲気が、笑った時の目元が、俺の名を呼ぶ時の音程が、似ている。麻乃に。
そして俺は、忘れようと足掻く事を止めた。どうしたって逃れられないのなら、想い続けるしかない。大学へ進学し受験が終わった事を建前にして、以前と変わりなく麻乃の家へ出入りするようになった。
諦めないと決めたのと同時に、想いを隠すことも止めた。麻乃は例の恋人と続いていたが、構わずに告白をした。結果、清々しいほどあっさりと受け流されたが、それでも良かった。意識していないのなら無理にでもさせてやる、一生を賭けてでも……心はもう決まっていた。
周囲を顧みず、麻乃の近くをうろちょろする俺を、恋人である男がどう感じたのかは知らない。が、麻乃と男の間に諍いが増えた。
俺を優しく懐の広い人間だと思い込んでいる彼女は、何かある度に愚痴と相談を持ってくる。俺は聞き役に回り、ますますこじれるようにアドバイスをした。やり口が汚いなんて、承知の上だ。後でどんなに非難されたとしても、あらゆる手を使わなければ勝ち目は無いと知っていた。
一度悪化した関係は修復される事無く、男の心変わりを決定打に終わった。
予感があったとはいえ、傷つき泣く麻乃を俺は慰め、傷心に付け込んで想いを告げた。だが、何度言葉にしても信じては貰えない。
愛しさと苛立ちは混ざり合い、汚泥のように厚く積もっていく。やがて届かぬ想いに疲れてきた俺は、麻乃が逃げられないように閉じ込めてしまう事を思いついた。
子供が一人しかできなかった伯父と伯母は、当然、麻乃をとても大切に思っている。彼女を一人の大人として尊重していても、本音ではいつまでも傍にいて欲しいはずだ。だから俺は麻乃よりも先に、伯父と伯母に話を通した。
一時の荒れた女遊びがばれていないおかげで、俺には品行方正で優しく大らかだというイメージができあがっていた。それを利用し、麻乃を本気で愛している事と、将来的には婿入りして同居しても良いと持ち出した。
二人は俺の想いに驚いたようだったが、無理強いをせず麻乃の意志を優先するという条件付きで了承してくれた。
もちろん、自分の両親にも話した。おかげで俺の片想いはあっという間に親戚中に広まったが、むしろ皆が知る事は麻乃を追い詰めるのに好都合だった。
就職した麻乃は、やたら結婚と子供にこだわるようになった。幼い時から俺と姉弟同然で育ってきたのだが、麻乃なりに一人っ子の寂しさを感じていたらしい。
「できるだけ早く結婚して、子沢山の家庭を作るの」
折に触れ、何度も話題に上る彼女の夢を聞かされる度に、麻乃と子供の隣に立つ自分を空想した。
しかし、ここで俺の計画は行き詰る。麻乃の夢を叶えるには、大学生という立場が問題だ。事実、彼女が口にする理想の男性像は「健康で、性格が良くて、将来性のある仕事に就いている男」だった。まだ学生の俺は候補にすら挙げられない。
日本に飛び級制度が無い事を恨んだが、この不況下では大学を中退して優良企業に就職できるはずも無い。俺は計画を先延ばしし、できうる限りの手で麻乃の出逢いを邪魔しつつ、就職活動に専念した。
努力の甲斐があって、一流とは言えずともそこそこの企業への就職が内定し迎えたクリスマス。もう何年も仲の進展しない娘と甥を心配し、わざと家を空けてくれた伯父夫婦に後押しされるように、想いを遂げた。
だが結局、かなり強引な手段に訴えるまで、麻乃が俺の気持ちに気付く事は無かった……。
「ねぇ、馨介? 酔ったの?」
少しの間、これまでの時間に思いを馳せていた俺は、こちらを覗き込む麻乃の顔に気付いてはっとした。
「ん……あ、ごめん。ちょっと考え事してた」
「いいけど。お婆ちゃんが、近くにおいでって」
「えっ」
言うなり、嬉しそうに祖母の元へ歩み寄る麻乃の後姿を見つめた俺は、無意識に強張った表情を誤魔化すために短く息を吐いた。
麻乃は……というより、一族の中でも僅かな人間しか知らない事実だが、祖母は穏やかな人柄を装う裏で、かなり食えない性格をしている。
下手を打って麻乃との仲を反対されでもしたら大事だ。俺は嫌な緊張を感じながら、重い腰をやっとの事で上げた。
傍に寄ると、祖母はいつものように柔らかく微笑み、麻乃と俺を交互に見つめた。
「今年も来てくれてありがとうね、馨介」
「……うん。明けましておめでとう婆ちゃん」
同じように、にこやかに応じる。素直な麻乃には判らないだろうが、笑顔の裏にそれぞれの思惑が見え隠れしていた。
「麻乃も、ありがとう。今年もこうして元気で会えて、本当に嬉しいよ」
「もう、お婆ちゃんたら。お礼なんて言わないでよ。いつでも会えるんだから」
苦笑した麻乃が、祖母の肩を撫でさする。いつもより背中を丸めて座っているせいで、やけに小さく見えた。
「でもねぇ、私ももう年だから、いつ何時どうなるか判らないし、こうして会えるだけで嬉しいんだよ」
「お婆ちゃん……」
俯きかげんで、ぼそぼそと囁く声は酷く弱々しい。急に縮んだように見える祖母の儚げな笑みに、麻乃は困惑し気遣しげな視線を投げかけた。
そんな二人を、少し後ろに座った俺は冷ややかに見つめる。
確かに祖父母はもう70も過ぎているし、突然の事態が絶対に無いとは言えない。しかし、特にこれといった持病も無く、認知症予防の為と称しては積極的に外出し、旅行だ観劇だと老後を謳歌している生活から見ても、いますぐどうこうなるとは考えにくかった。
「麻乃はいくつになったんだい?」
「えっと……もうすぐ25歳になっちゃうのよ。早いよねぇ、はは」
最近特に年齢を気にしだした麻乃が、乾いた笑い声を漏らす。
彼女の状況や考えなど見通しているだろう祖母は、徐に麻乃の手を取り、ゆっくりと撫でた。
「そう。ああ、死ぬまでには麻乃の子供が見てみたいねぇ」
「お婆ちゃん?」
唐突に飛び出した死という言葉にうろたえる麻乃からは見えない位置で、祖母が隣に座る祖父を突付いた。それまで置物よろしくじっとしていた祖父が、螺子でも巻かれたように振り返り、破顔する。
「曾孫か、いいな。俺も麻乃の子が早く見たいもんだ。なあ、婆さん」
「ええ。でも、この年だもの、間に合うといいけれどねぇ」
「全く、年は取りたくないなぁ……」
口々にしんみりと語られ、麻乃は口をつぐむ。家族思いの彼女が、どう感じているか手に取るように判った。
「あっ、忘れていたわ。馨介ちょっと近くにおいで」
「なに?」
わざとらしい手招きに警戒しながら近づくと、祖母はやけに厚みのある紅白のぽち袋を俺のジャケットの胸ポケットにねじ込んだ。
「最後のお年玉だよ。馨介も大学卒業だなんてねぇ」
「いや、もう就職するし、よかったのに……」
貰える事が嬉しくないと言えば嘘になるが、あと数ヶ月で社会人になる身でお年玉を受け取るのは気が引ける。遠慮しかけた俺は、年寄りとは思えない力で祖母の方にぐっと引かれた。
「タクシー代と、着物のクリーニング代も入ってるからね。他の連中はうちに泊める。後は判るね?」
麻乃に聞こえないよう低い声で素早く伝えられた言葉に面食らった。
何かを企んでいるんだろうとは思っていたが、そう来るとは……。どうやら祖母は、今すぐにでも、曾孫を作れと言いたいらしい。
俺は麻乃から見えない角度で、祖母に向けて口角を上げた。祖母の手の上に乗るのは正直面白くない。しかし据えられた膳はありがたく戴くに限る。
「ありがとう、婆ちゃん」
「うん。しっかりやんなさい」
いつも通りの優しい微笑み。麻乃にはただのお年玉のやりとりと、就職へ向けてのはなむけにしか見えないだろう。
大らかだが大雑把で細かい事を気にしない祖父と、優しいが計算高い祖母の血は、確実に子孫へと受け継がれていた。
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