八年目の誓い 休日の朝。いつもならまだベッドの中でまどろんでいる時間に、玖美は忙しく立ち歩き、身支度を整えていた。 新しい余所行きのワンピースに袖を通し、お気に入りのアクセサリーを身に着ける。髪は乱れていないか、メイクは濃すぎないか、ストッキングに靴にと何度も確認をした。 結城はそんな玖美をリビングのソファから眺め、ふっと苦笑した。 「凄く気合いが入っているようだけど、そこまでかしこまらなくても大丈夫だよ」 どことなくからかいを含んだ結城の物言いに、玖美はキッと顔を上げた。 今日という日を迎えるにあたり、自分がどれだけ悩み抜いたのかを察してくれない彼に苛立ちを覚える。 「そりゃあ、結城くんは自分の家族に会うだけだもの、気を遣う必要なんかないでしょう」 「まあね。でも俺の家は玖美が思っているほど立派ではないし、お袋もさばさばしているからなあ」 結城の口から出た母親の話に、一層、緊張感が増す。 彼の帰国を機に二人が付き合い出して、もうすぐ一年。結婚を強く望む結城に押し切られ、玖美は彼の実家へ挨拶に行くことになっていた。 結城の実家は、隣県の山間に建つ一軒家だった。昭和の中期に建てられたという純和風の家屋は、彼の言うとおりこぢんまりとしていたが、古き良き時代の風情を残している。 二人を待ちわびていた結城の母、夏恵(なつえ)は、柔和な笑みを浮かべ玖美を迎えてくれた。結城と顔はあまり似ていないが、彼の穏やかなところは母譲りのようだ。 奥の座敷に通され、緊張しながらそれぞれ自己紹介を終えたところで、夏恵が溜息をついた。 「まったく、この子には心配ばかりかけられていてねえ。いつまでも大学を卒業しないで親の脛をかじり続けるし、やっと就職したと思ったらアメリカに行くと言うし。戻ってきたら、もういい歳でしょう。天国のお父さんに申し訳なくって」 「いきなり何を言っているんだよ」 夏恵の話に結城が苦い表情を浮かべる。高学歴で将来有望な彼も、母親からすればただの親不孝者らしい。 「いいじゃないの、ちょっとくらい愚痴を言ったって。独り暮らしで会話に飢えているのよ」 「毎日、ダンス教室だ、コーラスサークルだと出歩いているくせに、よく言う」 打てば響くようにぽんぽんと会話が続く。こんな冗談を言えるほど気安い親子関係に、玖美は微笑んだ。 夏恵は玖美に目を合わせ、嬉しそうに顔をほころばせた。 「それにしても、典泰がこんなに素敵なお嬢さんを連れてくるとはねえ。もう一生結婚できないんじゃないかと思っていたけど、ほっとしたわ」 「いえ、そんな……」 玖美は思わずうつむいた。お世辞とわかっていても「素敵なお嬢さん」なんて言われるのは心苦しい。 実際の自分はもう若くなく、離婚歴もある。結城の母に喜んでもらえるような女ではなかった。 きっと結城は、玖美の事情を夏恵に話していないのだろう。もしかすると、結婚に反対されるのを恐れて、隠しているのかもしれない。 玖美だって本音を言えば、何もなかったことにしてしまいたい。しかし、それではダメだ。結婚が当人同士だけの問題でないことは、経験から知っていた。それに、愛する人の家族を騙すわけにはいかなかった。 どんなに悪く受け取られたとしても、正直に全てを話して、認めてもらえるように努力しなければいけない。自分を愛してくれている結城のためにも。 玖美は幸せそうに笑う夏恵を見て、そっと唇を噛んだ。動揺させるとわかっているからこそ、どう話を切り出していいのか戸惑ってしまう。 「あら、大変」 夏恵が急に声を上げ、ぱちんと手を合わせる。 「お寿司を頼んでおいたんだけど、取りに行くのを忘れていたわ。典泰、ちょっと駅前のお寿司屋さんまで行ってきてよ」 「ええ?」 嫌そうに返事をした結城を無視して、夏恵は上着のポケットから出した紙切れを座卓の上に乗せた。 「はい、これ引換券ね。一緒に吸い物を頼んであるから、お店の人に言ってちょうだい」 有無を言わせない夏恵に、結城が肩をすくめる。 二人を見比べた玖美は、結城が時々ちょっと強引になるところも、夏恵に似ているんだと気がついた。 結城ははじめ玖美を置いていくことをしぶっていたが、結局、夏恵に根負けして出かけて行った。 玄関先まで彼を見送った玖美の隣で、夏恵が呆れた表情を浮かべ、腕組みした。 「うっとうしいくらい心配性ねえ。あれはお父さんに似たのよ、きっと。あの人も大事なものを囲い込む癖があったから……」 結城の父親が亡くなった時、書斎の奥から生前大切にしていた、骨董品という名のガラクタが山ほど出てきて困ったという話を、夏恵はぶちぶちとこぼしている。 玖美はその微笑ましい話にあいづちを打ちながら、座敷へと戻った。 「良いお天気だから、窓を開けましょうか」 夏恵はそう言い、座敷と繋がる縁側の窓を開け放った。広くはないものの、よく手入れされた庭から、爽やかな風が吹き込む。 そのまま縁側に腰かけた夏恵は、玖美を振り返り、小さく手招きをした。 「気持ちがいいし、典泰が戻ってくるまで、ここで少しおしゃべりしていましょうよ」 「はい」 玖美はうなずいて、夏恵の隣に座る。やっと色づき始めた紅葉が、風に揺れさわさわと音を立てた。 少しの間、黙って庭を眺めていると、夏恵が前を向いたままふっと微笑んだ。 「玖美さんは、何か私に言いたいことがあるのじゃない? さっき思い詰めた顔をしていたでしょう」 「あ……」 鋭い夏恵の指摘に、玖美は身を強張らせる。思い悩んでいるのが顔に表れてしまっていたようだ。 振り向いて玖美の顔を覗き込んだ夏恵は、穏やかな表情で目を細めた。 「私の勘違いだったら、気にしないでちょうだいね」 つけ足された気遣いに、玖美は慌てて首を横に振った。 「いえ。……実は私、お母様にお話ししておかなければならないことがあるんです。多分、驚かれると思うんですけど……」 玖美は覚悟を決め、自身の過去を語り出した。 学生時代から交際していた元夫の存在。離婚の事実とその原因について。そして昨年、結城と再会してから今日に至るまでのことを。 優しい表情を崩すことなく最後まで話を聞いた夏恵は、静かにうなずいた。 「あなたが正直に話してくれて嬉しいわ。でも、ごめんなさい。前に別の方と家庭を持ってらしたことは、典泰から聞いて知っていたのよ」 「えっ」 予想外の話に目を見開く。玖美がここを訪れた時の歓待ぶりから、夏恵は何も聞かされていないものと思っていた。 驚く玖美の姿に、夏恵は慌てて両手をかざした。 「あっ、誤解しないで。あの子は玖美さんを傷つけたくないから、前もって教えてくれただけなの。私がおかしな偏見を持たないようにね」 どうやら夏恵は、玖美の動揺を、勝手に過去を明かされていたことに対して憤っているものと勘違いしたらしい。 玖美は大きく頭を振った。驚いた理由を伝えようとするが、心が揺れてうまく言葉がまとめられない。 「いいえ、違うんです。私てっきり、お母様が何もご存じでないとばかり。離婚歴があることを知っていたら、きっと反対されるだろうと思っていて……だから、こんなふうに認めてもらえるとは……」 身を縮めて必死で声を絞り出す玖美の背に、夏恵の手がそっと添えられた。 「安心して。そんなことで反対なんてしないから。人生には本当に色々とあるもの。何より大切なのは、これからでしょう」 「お母様……」 夏恵は玖美の背をぽんぽんと軽く叩き、にっこりと笑った。 「それに、私は典泰のことを信じているのよ。あちこち至らない子だけど人を見る目はあると思うし、間違ったことは絶対にしないわ。だから昔のことは気にしなくて大丈夫。典泰があなたを選んだんだもの。ね?」 力強い夏恵の言葉が、いまだ玖美の心に残る過去のしがらみを払ってくれた。 本当の意味で結城の手を取っていいのだと知った玖美は、自分の瞳が熱く潤むのを感じた。 ちょうど結城の運転する車が戻ってきた。家の前に車を停めた彼は、垣根の上からひょいと顔を出す。 「ただいま。なあ、ちょっと荷物を運ぶのを手伝ってくれよ。寿司屋の親父が祝い事なら持っていけって、色々とつけてくれたんだけど、凄い量で……」 「あ、うん。少し待って」 玖美は慌てて顔を伏せる。泣いているところを見られるのは、結城が相手でも恥ずかしい。まばたきをくり返して涙を止め、袖口で目元を押さえていると、突然横から抱き締められた。 驚いて顔を上げた玖美の目に、結城の姿が映る。玖美の様子がおかしいのを察して、飛んできてくれたらしい。 「ちょ、ちょっと、結城くん!?」 玖美は彼の腕から逃れるために身をよじり、手で押し返そうとした。いくら結婚を考えている相手でも、親の前でくっつかれるのは気まずい。 結城は玖美の戸惑いなど微塵も気づいていないようで、ますます腕の力を強くする。 「どうして泣いているんだ? お袋と何かあったのか?」 「違うわ。この涙は、その、嬉しくて出てしまったの。お母様が、昔のことは気にしなくていいって言ってくださったから、つい……」 だから心配はいらないと言いつのる。玖美は続けて離してほしいと求めたが、結城はまるで聞こえていないように長く息を吐いただけだった。 「あの、結城くん。本当に離して。お母様もいるんだし」 「もういないよ。台所に行ったから」 不自由ななかで首をまわしてみると、確かに夏恵の姿は見当たらなかった。二人を気遣って席を外してくれたのだろう。 さらに恥ずかしさが込み上げる。このあと、どういう顔をして夏恵に会えばいいのか……。 まだ離してくれそうにない結城の腕の中で、玖美は肩を落とし、小さく溜息をついた。 皆でお寿司をいただいたあと、夏恵はそのまま家に泊まっていくよう勧めてくれたが、結城はどうしても帰ると言い張った。 そのわりには車を一時間ほど運転したところで「疲れた」と音を上げ、結局、近場のシティホテルで一泊することになった。 結城がチェックインをしている間に、玖美はぼんやりと夏恵のことを考える。自分たちを見送ってくれた時の姿は、どこか寂しげだった。 部屋の鍵を受け取った結城が戻ってくる。 彼に誘われエレベーターに乗り込んだ玖美は、静かに息を吐いた。 「ねえ。今さらだけど、やっぱりお母様に甘えておけば良かったんじゃない?」 運転手である結城が疲れたと言っているのだから、今さら戻れないことはわかっている。だが遠ざかる夏恵の姿を思い出すたびに胸が痛み、言わずにはいられなかった。 結城は最上階のボタンを押すと、ごく自然に玖美の手を取り、指を絡めた。 普段あまり手を繋ぐことがないから、どぎまぎしてしまう。玖美は赤くなっている顔を見せまいとうつむいた。 「うん。お袋には悪いけど、今日はどうしてもあそこに泊まりたくなかったんだよ。というより、ここに来ると決めていた」 「え?」 不思議なことを言う結城に、玖美は目を瞠った。 ほどなく目的の階に到着する。エレベーターから連れ出された玖美は、無言で部屋へと向かう結城にただついていくしかなかった。 結城は一番奥の部屋のドアを開け、玖美に入るよう促した。 なんなのかわからないまま、玖美はおずおずと部屋に足を踏み入れる。入ってすぐ、エントランスがあることに違和感を覚えた。 「結城くん、なんだかここ凄く広くない?」 自宅の玄関よりも広々としたエントランスを抜けると、洗練された調度品の並ぶリビングルームに繋がっていた。唖然としつつ奥のドアを開ければ、そこにはさらに広くゆったりとしたベッドルームがあった。 「どういうこと?」 玖美が知っているホテルの造りとはまるで違う。クローゼットに荷物をしまっている結城を振り返ると、彼は微笑んで肩をすくめた。 「そりゃ広いさ。セミスイートだからね」 「なんで、そんな……」 驚きすぎて言葉が途切れてしまう。落ち着き払った結城の様子と、エレベーターでの言葉から考えて、あらかじめここを予約していたに違いない。 結城はぼんやりしている玖美の傍に寄り、優しく頬に口づけた。 「気に入らない?」 「ううん。凄く素敵だけど、どうしてかなって」 玖美が首を横に振るのを見た結城は「良かった」とささやき、ベッドの上に座る。吸い寄せられるように隣へ腰かけると、結城が腕を伸ばし、玖美の肩を優しく包み込んだ。 いつもと雰囲気が違うせいか、妙に胸が高鳴る。玖美がそっと寄りかかったのに合わせて、結城の唇が額に触れた。 「……今日ここに来たのには三つの理由があって、一つはきみと泊りがけで出かけたことがなかったからなんだ」 内心で首をひねる。玖美のマンションが職場に近いおかげで、今ではほとんど一緒に暮らしているような状態だから、気にしていなかった。 「そうだったかしら?」 「うん。俺が忙しいせいでデートにもほとんど行けていないから、今日くらいはこういうところに泊まりたかったんだよ」 確かに本社へ戻ったばかりの結城が忙しくしていたのもあって、出かけるよりは家でのんびりと休日を過ごすことが多かった気がする。 「結城くん……」 ロマンティックなものにあまり興味のない結城が、好んでセミスイートルームを選択するはずはない。きっと玖美を喜ばせるために予約してくれたのだろう。その心遣いに、胸のうちがぼうっと熱くなる。 肩にまわされた腕に右手を添えると、結城は空いている方の手で玖美の左手を優しく撫でた。 「もう一つの理由は……玖美に結婚を申し込もうと思ってね」 「え?」 意外な申し出に驚き、身を起こす。結城の顔を見つめた玖美は、真剣なまなざしを返され息を呑んだ。 「結婚を匂わせて強引に実家へ連れては行ったけど、まだきちんとプロポーズをしていないから……というより、きみが嫌がっているのに気づいていたから今まで言えなかった」 結城の指摘に、玖美はビクッと震えた。 「嫌がってはいないわ……」 「でも、結婚の話を極力避けていただろう?」 逃げ道を塞がれた玖美は、ぐっと押し黙る。今日まで結婚の話から逃げていたのは事実だった。 お互いの年齢を考えれば、彼が結婚を望む気持ちはわかる。玖美だって本当は結城の妻になりたい。しかし過去の失敗から、先に進むことができなかった。 何より夏恵に会うまで、結城の家族に結婚を反対されると思い込んでいた。 結城は腕を解いてベッドから下りると、玖美の正面に屈んだ。 「ごめん。責めているわけではないんだ。きみが何を考えていたのかはわかっているつもりだよ。でも、もう大丈夫だろう? お袋も結婚に賛成してくれたし、障害は全てなくなった。あとは俺たちの気持ちだけだ」 本当にそうなのだろうか。玖美はそわそわと視線をさまよわせる。 漠然とした不安が湧き上がるのと同時に、離婚した時の親族の反応や、職場での口さがない噂を思い出した。 結城は玖美の両手を掴み、ぐっと力を入れる。痛いほどの強さにハッとした玖美は、まっすぐに向けられる結城の視線を受け止めた。 「玖美、俺と結婚してほしい。絶対にきみを幸せにする。俺も幸せになる。だから一緒に生きていこう」 飾り気のない言葉が、玖美の胸を貫く。不安に揺れていた心は縫い止められ、彼の想い以外、何もわからなくなった。 玖美はまばたきも忘れ、じっと結城を見つめ返す。見開いた目から涙がこぼれ落ちた。 「わたし、も……私もあなたが好き。ずっと一緒にいたい……!」 「うん。これからずっと一緒だ。玖美が嫌だと言っても、もう離してやらない」 玖美はギュッと目をつぶり、何度も大きくうなずく。次々と溢れ出る涙が滴になって散った。 暗闇のなかで急に体がかしぐ。驚いた玖美が瞼を開けた時には、ベッドに身体を押しつけられ、結城が上に覆いかぶさっていた。 玖美の濡れた頬を、結城の手が労わるように優しく拭う。触れる温もりに、玖美はしばらくの間うっとりとした。 「さ、そろそろ泣き止んで。早くしないと最後の目的を教える前に夜が明けてしまう」 「……え?」 なんのことかわからずに、玖美は濡れた目を彼に向ける。冗談めかした言葉に合わせて、結城はにやりと口の端を上げた。 「ここに泊まる三つの理由の、最後の一つさ」 「あ……って、ちょっと?」 結城が何を言わんとしているのかを理解して、玖美は首を縦に振る。が、説明より先にワンピースの裾を捲られ、声を上げた。 露わになった玖美の太腿を、結城の手のひらが這う。寒気に似た震えが背筋に走り、玖美は肌を粟立たせた。 「やっ、何して……さ、最後の理由を教えてくれるんじゃなかったの?」 与えられる感覚に震えながら問いかけると、結城は楽しそうにすうっと目を細めた。 「だから、今していることが答えだよ。初めての外泊で、きみが結婚を承知してくれたら、絶対にしたくなるだろう。実家でこういうことはできないからね」 明らかにされた理由に唖然とする。さらにきわどい場所を触られた玖美は仰け反り、嬌声混じりの不満を漏らした。 「あっ、やだ。結城くん! もう、お風呂、まだなのに……」 「風呂なんてあとでいい。それよりもその『結城くん』をそろそろ止めないか? 結婚したら同じ苗字になるのにおかしいだろう」 今急にそんなことを言われても困る、と玖美は心の中で叫ぶ。本当は実際に言い返したかったが、口を開くたびに意味を成さない声に先を越され、言葉を発することができなかった。 段々と意識が曖昧になっていく。 結城の熱い腕に抱かれながら、玖美は八年目の誓いが永遠になるよう強く願った。 End 七年目の愛情 ← |
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