七年目の愛情 同期の桜とは言うものの、入社から七年も経てば色々と事情が変わってきて当然だ。 皆それぞれ三十歳を目前にしている。転勤した者。退職した者。結婚をして、子供がいる者……。 プライベートが充実してくるに従い、間柄は疎遠になっていく。 家庭を持てば必然的にアフターファイブの付き合いは減り、部署が違えば社内で顔を見かける程度。特に転勤、退職組とは、年賀状か、たまに送られてくる近況報告メールがせいぜいだ。 だから……五年前にアメリカ支社へ転勤した同期社員、結城典泰(ゆうき のりやす)からの電話を受けた玖美(くみ)は、少なからず驚いた。しかも夕飯がてら飲もうと言う。 特に断る理由のない玖美は、二つ返事で了承したが、狐に摘まれたような心持ちで待ち合わせ場所へと向かった。 五年ぶりに会った結城は、昔に比べ仕立ての良いスーツを着ているくらいで、それほど変わっていなかった。 玖美を見つけ、明るい笑顔で手を振っている。さっぱりとした朗らかな性格も、昔のままらしい。 「久しぶり。急にどうしたの。休暇?」 挨拶もそこそこに結城が日本にいる理由を尋ねると、彼は人の良さそうな笑みをたたえ、ゆっくりと首を横に振った。 「いや違うよ。再来週から本社に戻るんだ」 「えっ。随分、急なのね……全然知らなかった」 今は転勤の時期ではないうえ、辞令も公表されていない。絶対にないとは言わないが、かなり珍しいことだ。 「内示も急だったしな。本当は今日も休みだったんだけど、本社に呼び出されてさ。で、そのまま帰るのも癪だし、同期を誘って飯でもって思ったら、佐崎(ささき)さんしか捕まらなかったってわけ」 「あ……そうなの」 懐かしい名で呼ばれ、玖美は身を固くする。会っていなかった数年のうちに苗字が変わってしまったことを、彼には伝えていなかった。 「それにしても、今って仕事が忙しい時期だったかな?」 結城は玖美以外の同期が来ないのを不思議に思っているらしい。首をひねる彼に苦笑した。 「しかたないわ。大山(おおやま)くんとか、最近、結婚したばかりだし。育休とか産休をとってる人もいるしね」 独身時代に一番の宴会好きだった社員の名を挙げる。顎に手を当て、わかったようなわからないような顔をした結城は、口の中で「ふうん」と呟いた。 最近できた創作和食の店に結城を案内した玖美は、目の前の彼をこっそりと眺めた。 待ち合わせた時に思ったとおり、イメージが変わったというほどの変化はない。しかし歳相応に精悍さをそなえた顔つきは、以前には見られなかったものだ。 やはり時を経たのだと、今さらながらに思った。 見られていることに気づいたらしい結城が、照れたように肩をすくめる。 「どこか変かな?」 「あ、ごめんなさい。久しぶりだから懐かしくて……」 「ああ、そうだな。佐崎さんが前にも増して綺麗になっていたから驚いたよ」 陰りのない笑顔でさらりと言われた褒め言葉に目をまたたかせた。ただの社交辞令とわかっていても、頬がほてる。 「結城くん、変わったわねえ。昔はそんなお世辞なんて言ったことがなかったのに」 照れ隠しに茶化すと、結城は意外そうな顔をした。 「お世辞じゃないさ。でも向こうに行ったおかげで、思ったことを素直に言えるようにはなったかな」 完璧な切り返しに舌を巻く。 玖美の知っている結城は、優しそうな外見どおりの、どちらかというとシャイな男だったはずだ。アメリカでの五年間は、彼を見た目以上に変えたらしい。 運ばれてきた冷酒で、形ばかりの乾杯をする。仲間が集まった時のようにビールでわいわいするのもいいが、二人きりなら静かに飲みたい。 上品な味の料理と、良い香りの酒に舌鼓を打ちながら、しばらく仕事の話をした。 結城のいなかった間の本社の様子や、景気の動向。アメリカでの仕事内容。それから……同期の現況。 ほとんどが所帯持ちだという事実に、結城は少し驚いたようだった。 「皆、早いんだなあ」 まるで他人事のような物言いに、玖美は違和感を覚える。 「あら、結城くんはまだなの? 付き合っていた彼女、一緒にアメリカへ連れて行ったんでしょう?」 結城には、就職して間もなく付き合い始めたという恋人がいたはずだ。直接、聞いたわけではないものの、結婚して一緒に連れて行く予定だと、当時噂されていた。 「え……ああ、一緒には行ってない。その……別れたんだよ、あの時」 予想外の話に目を瞠る。てっきり転勤と同時に籍を入れたものと思っていた。 妙に歯切れの悪い彼の様子に、玖美は聞いていい話ではないと判断し、わざと話題をそらした。 「それなら、金髪で青い目の彼女がいるとか?」 冗談めかして尋ねると、結城は困ったように苦笑いをする。 「いや、俺には無理。向こうの女性は自己主張が激しくて、ついていけないよ」 日本人というのは往々にして外国人が好きなのかと思っていたが、結城は違うらしい。少し意外に思いつつも、彼の隣には控えめで大人しい女性が似合いそうだと思った。 つまり……玖美とは真逆のタイプ。 「結城くんは我が社の幹部候補だもの、本社に戻れば、可愛い後輩たちにモテモテじゃない。そのうち良いご縁もあるわよ」 大学院卒で流通を学んだという結城は、玖美たちと同期入社とはいえ別格だった。入社後二年でアメリカ支社へ転勤を命じられたのも、幹部社員候補として経験を積めということに他ならない。 今回の本社への移動だって、急とはいえ課長クラスの役職に就くのだろう。 しかし当の本人は、玖美のフォローに渋い顔をした。 「なんだかそれって、俺自身がおまけみたいだな……」 「運命の出会いなんて、どこに転がっているかわからないもの。お見合いって手もあるし、気楽に構えておけばいいじゃない」 あまり乗り気ではないらしい結城に苦笑する。 恋愛に興味のなさそうだった過去の彼を思い出した。あれは決まった恋人がいるからだと思っていたが、どうやら元々、淡白な方らしい。 「……ところで、佐崎さんは」 「あ、ごめん。私のことは名前で呼んでもらえない?」 玖美はとっさに結城の言葉を遮った。 「えっ」 彼が玖美の現況を尋ねようとしたことはわかっている。結城の話を聞いてしまった以上、自分の話もするべきだと思うし、隠したところで彼が本社に戻ってくれば、どうせ知られてしまう……。 それでも何故か今は、苗字が変わったことを言いたくなかった。 「今の部署、私が女子社員の最古参でね。後輩の子たちが気を遣って、名前で呼んでくれるのよ。だから、苗字で呼ばれるのに慣れなくて……」 後輩たちが玖美を気遣ってくれるのには別の理由がある。だが、玖美はその事実を利用した。 「あ……ああ。そうなのか」 結城は、玖美の苦しまぎれの言い訳を、素直に受け止めてくれたらしい。 「私の名前、覚えてる?」 「……玖美さん、だろう」 ほんの少し恥ずかしそうに自分の名を呼ぶ結城を、失礼ながら可愛いと思ってしまった。過去のこととはいえ、好きだった男に名前を呼ばれるのは、くすぐったくて嬉しい。 「呼び捨てでもいいわよ」 「よしてくれよ。いくら社外でもまずいだろう。浮気だと思われたらどうするんだ」 どこまでも真面目な結城に、笑みがこぼれる。 五年前の結城に彼女がいたように、玖美にも相手がいた。学生時代から付き合っていた男のことは、同期なら誰でも知っていた。 「結城くんと浮気かあ。それもいいわね」 わざとらしくにやりと笑うと、結城はあからさまに顔をしかめた。 「俺は、略奪愛なんてごめんだ」 昔から真っ直ぐな結城は、目の前の女が恋人とは別の男に想いをつのらせていたなんて、考えたこともないのだろう。 「ごめんね、冗談よ」 思い出しそうになった気持ちも、胸の高鳴りも、全部なかったことにして、玖美は会話を終わらせた。 店を出たあと、地下鉄の駅へ向かって歩き出した結城に、玖美はついていく。 最寄りの公共交通機関は、近距離の路線バスか地下鉄だけだから、家の場所を聞かずとも駅へ向かうのは当然の流れだった。 すぐに着いてしまった駅の手前で玖美は立ち止まる。地下へ降りる階段に足をかけた結城が、不思議そうな顔をして振り返った。 「……帰らないのか?」 「帰るわ。でも、地下鉄には乗らないから……」 玖美の言葉に、結城は眉を寄せた。 「玖美さんの家は、地下鉄の沿線じゃなかったか?」 どうやら彼は、玖美が五年前と同じ家に住んでいると思っていたらしい。 しばらく日本を離れていたのだから何も知らなくて当たり前とはいえ、いつまでも玖美が変わらないと思い込んでいる彼の生真面目さに、胸が苦しくなった。 「引っ越したのよ。会社の近くに」 「え……。あそこは持ち家だっただろう?」 結城がアメリカへ転勤する数ヶ月前、玖美は三十五年ローンを組んで家を建てていた。もちろん……未来の家族と住むために。 会社からも、結城個人からも新築祝いをもらっているから、覚えていて当然だった。 「買い直したの。今はここから歩いて行けるマンションに住んでいるわ」 オフィス街と繁華街のあるこのあたりは、市内の中心部だ。店が近く便利な反面、公園などの緑地が少ないので子育てや家族世帯が住むには向かない。それに地価もかなり高かった。 将来、家族が増えることを見越して、郊外に一戸建てを買った玖美が、こんな市街地の真ん中で暮らしているとは思っていなかったのだろう。結城はますますわからないという顔をした。 何かを感じたらしい彼は、無言で玖美の隣に立つ。 玖美が見上げると、結城は前を向いたまま「送って行く」と呟いた。 玖美の住むマンションのロビーまできた結城は、郵便受けの表札を見て表情を険しくした。 彼の瞳が「どういうことか説明しろ」と言っていたが、この場で話すのは他の住民の迷惑になる。何よりも部屋に入れば一目瞭然なのだからと、玖美は結城を自宅に招いた。 1LDKのマンション。それぞれの部屋が広いとはいえ、明らかに単身者用だった。 リビングのソファに座った結城は、テーブルを挟んだ反対側にいる玖美をじっと見つめた。 「……玖美さん、なぜ苗字が変わっているんだ? それに、どうして一人で暮らしている?」 「そんなの簡単だわ。私、離婚したのよ。二年前にね」 七年前、就職したばかりの玖美には、学生時代から付き合っている恋人がいた。しかし、職場で出会った結城に少しずつ惹かれていく。 自分を貞淑な女だと信じて疑わなかった玖美は、自身の心変わりが受け入れられず、また結城の恋人の存在もあって、逃げるように結婚をした。 旧姓の梶田(かじた)から、佐崎玖美へと名を変え、いつか産まれてくるであろう子供のために家まで買った。 ……もう揺らがない。大丈夫。 そう思えた頃、結城はアメリカへと旅立ち、それから平穏な日々が三年続いた。 「一体、何が……」 「夫の浮気……というより不倫かしら。彼が内緒で別の女性と付き合っていて、その人に子供ができたの」 ままある話。あとはお定まりどおりに「子供のために別れてくれ」となって、住んでいた家と夫を手放す代わりに、多額の慰謝料が振り込まれた。 玖美の姓は佐崎から梶田へと戻り、現在に至る。 「彼の実家が地元では名のある家でね。話を大きくしてほしくないからって、渡されたお金でここを買ったというわけ」 「……」 全てを聞き終えた結城は、うつむいて深く息を吐いた。玖美としてはもう過去のことだし、ふっきれているのだが、真面目な彼には重い話題だったかもしれない。 「そんなに深刻なことじゃないのよ? もう忘れて、飲み直しましょ。うちワインしかないんだけど……」 玖美はわざと明るい声を出して、立ち上がった。 ワインとグラスを持ってくるためにキッチンへ向かおうとした玖美は、後ろから伸びた手に腕を取られ、振り向いた。 「玖美さん、すまない。俺……君の不幸を、喜んでいる」 「え?」 言われた意味がわからずに目を瞠る。触れ合う結城の手がやけに熱く感じた。 「ずっと、こうなることを望んでいた。君とご主人が別れる日がくれば良いと願っていたんだ」 向けられる結城の視線に息を呑んだ。これまでに見たことがない強く光る瞳。射すくめられた玖美は、ぶるりと震えた。 「……もう。何を言っているのよ……」 彼の視線の意味がわからないほど子供じゃない。だが、結城の言葉が信じられない玖美は、とっさにはぐらかした。 まぶしいものを見るように目を細めた結城は、苦しげに眉を寄せる。急に男の色香をまとった彼の姿に、鼓動が激しくなった。 「君が、好きだ。……ずっと好きだった」 溜息と共に吐き出された言葉が胸をつく。 恋愛に興味のなさそうな結城が、こんな表情を隠していたことに驚いた。そして……想いを寄せてくれていたことにも。 じっと彼を見つめ返す。消し去ったはずの想いが蘇った。 何も考えずに心の赴くまま、その腕に飛び込んでしまいたい。しかし……。 「ありがとう嬉しい。でも、ごめんなさい」 「どうして。まだ愛しているのか?」 誰を? なんて聞かなくてもわかっている。元夫への愛情など、もう欠片ほども残っていない。 玖美は苦笑いを浮かべ、首を横に振った。 「まさか」 「……俺じゃ、無理ってことか?」 断られた理由を深読みして、結城が顔を曇らせる。玖美に問題があるとは少しも思っていないらしい。 彼の深い愛情を目の当たりにして、玖美は胸のうちが温かくなるのを感じた。 「違うわ。結城くんは本当に素敵な人だと思う。でもダメよ。だって私、バツイチだもの」 離婚歴のある人間に対する風当たりが厳しいという現実を、玖美は身をもって知っていた。 一度関係を結んでしまえば、同じ会社にいる以上、隠しとおせるとは思えない。将来を嘱望されている結城に、僅かでも傷を負わせるわけにはいかなかった。彼を想うがゆえに。 玖美を見つめる結城の視線に、不穏な色が混じる。 「そんなことで諦められるなら、七年も想い続けたりしない」 七年? 彼には五年前まで恋人がいたはずだ。玖美は疑問を口にするより早く引き寄せられ、ソファに押しつけられた。 「ちょっと、結城くん!?」 結城の細い身体のどこにこんな力があるのか、押し返そうとしてもびくともしない。先ほどまでの穏やかな態度からは想像できないほど、強引に口づけられ、唇を割られた。 少し冷たい彼の舌が、自分の物と絡み合う。脳に直接響く水音と艶かしい感触に背中がぞくぞくと震えた。 ひとしきり口づけを交わしたあと、結城が少し離れたのに気づいて、玖美は瞼を開けた。 目に映るのは、情欲に呑まれ濡れた彼の瞳。かすかに紅潮した頬と、今まで触れていた唇。そこから吐き出された熱い息に、玖美の内側がゆるりと蠢いた。 ヒリヒリするほど熱くなっている頬に、結城の手が優しく触れる。 「……嫌? でも、ごめん。もう止まれない」 余裕のない、結城のかすれ声。 いけないと頭でわかっていながら、こんなにも彼を惹きつけているのが自分だという事実に喜びが込み上げる。 もう長い間、忘れてしまっていた求められる幸せを、玖美は結城の腕の中で思い出した。 狭いベッドの上で身じろぎをすると、玖美を抱き締めたまま眠っていた結城がかすかに呻いた。 (起こしてしまったかしら……) 目を向けると、示し合わせたように彼の瞳が薄く開く。 「あ、ごめんね」 玖美は起こしてしまったことを詫びた。 気にしていないらしい結城は、まだぼんやりしながらも玖美に視線を合わせる。 「どうした?」 ベッドに至るまでのことを思い返した玖美は、少し頬を染め、おずおずと口を開いた。 「……リビングを、片づけてこようと思って」 「そんなの、朝でいいだろう」 「ダメよ。スーツが皺になってしまうわ」 結局、愛情に流された二人は、そのままリビングのソファで抱き合った。おかげでソファのまわりには、お互いの着ていたものが散乱しているはずだ。 「俺の服なら放っておいていい。玖美のは皺にならなくたって、クリーニングに出さなきゃ着られないよ」 どういう状況で求め合ったのかを言外にほのめかされ、玖美は赤面した。しれっと言ってのける彼が少し憎らしい。 「結城くんって、それが素なの?」 「何が?」 「……外で会う時と、今の性格が違うから」 ここへ来てからの結城は、ともすると強引なほど積極的で、情熱的な男になっていた。普段の穏やかで色気のない彼とは大違いだ。 だからといって幻滅したり、優劣をつけたりはしないが、少し騙されたような気持ちになった。 結城は難しい表情で考え込む。玖美の質問が意外だったらしい。 「まあ、少しは良い人を装っていた……かな」 「やっぱり」 別に悪いことではないのに、思わず非難めいた口調になってしまった。 結城は気を悪くすることなく、口の端を上げると、玖美の耳元に顔を寄せた。 「良い人でいれば、きみの傍にいられたからな」 「なっ!」 玖美は目を見開き、慌てて耳を押さえる。手に触れた耳たぶが熱を持ち、じくじくと震えていた。 「初めて会った時から、恋人がいることも、きみがひどく保守的なことにも気がついていたよ。少しでも男を匂わせると距離を置かれるから、彼女持ちの真面目な良い人っていうイメージでいたかったんだ」 そう言われれば、確かに同期の中でも結城の近くにいることが多かった。 入社直後には、落ち着いた人柄で、あまり異性を感じさせない結城を、付き合いやすい人だと思っていた。……そんな結城の紳士的な態度や、さっぱりしたところに惹かれるとは考えもせずに。 「それじゃあ、結城くんが付き合っていた彼女って……」 「嘘。情けないことに、七年間も玖美に片想いだ」 次々と明かされる真実に、言葉も出ない。 結城は僅かに表情を曇らせると、玖美の顔を覗き込んだ。 「怒るかい?」 不安げな彼の声に、玖美は笑みを浮かべて首を横に振った。 「こういうのも罠にはまったと言うのかしら?」 「え?」 不思議そうな結城に向けて、もう一度、頭を振る。 入社から一緒にいた僅かな間、玖美が同じように結城を見ていたことを告げたら、彼はどう言うのだろうか? かなりの遠まわりをした二人。 玖美は結城の首に腕を伸ばし、七年分の想いを込めて言葉を紡いだ。 End → 八年目の誓い |
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