昭和27年11月16日、上野の東京芸術大学奏楽堂において、わが国としては戦後初めてのコンク-ルが開催されました。
何はともあれ出場しようとの意気込みで参加しました。
課題曲はなく、マ-チ一曲と自由曲一曲を演奏することと決められてい
ました。
われわれも「出て見べ-よ」と、今は亡き水鳥川さん
の指揮の下「長高マ-チ」と「新緑の武蔵野」を演奏しました。
優勝はポ-ルヨ-ダ-の「ガラスの靴」を演奏した40名編成の湘南
高校、第2位は35名編成の静岡商業高校でした。
当時は入賞は2校のみで、「われわれは多分3位なんだよ」と勝手に
決めて帰ってきました。ちなみに水島先生が指揮した東京の代々木中
学は、「美中の美」を演奏し、15名の小編成ながら見事優勝しました。
このとき吹奏楽は人数ではないと実感しました。
これは後に米国の小編成の海軍軍楽隊の演奏を聴いたときにも感じ
たことです。
この後に学校吹奏楽のレベルは急速に発展し、中学では西の今津中
学、東では東京の豊島十中が、高校で天理高校が毎年優勝を飾ってお
りました。
当時を振り返ると、現在の「長高のバンド」が出場していたならば、必
ず優勝していたと信じます。それほど現在のバンド全体の水準は高いと
思います。
(月岡一郎 S29卒)
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昭和20年~
■音楽部の発足 平野和彌 S26卒
旧制中学から無試験で新制高校に編入した年代は6年間同じ仲間で過ごしたわけだが、高校になって間もなく音楽同好者で正式に音楽部を旗揚げし、活動を始めた。
当時はまだ生徒会もなく、部長は学校が任命した先生が担当した。初代の音楽部長は化学の山田恒男先生(あだ名はジ-プ、後に木更津工専に転任)であった。
音楽部の活動はブラスバンドが主だったが、先輩達の記述にある戦時中のそれとは比べようもないほどお粗末であった。
楽器は戦時中から2、3年間放置されたまま
で、数も減っていたし、毀れて使えないものが戸棚に転がっていた。部品が無くて自分で代用品を工作して使うなど、演奏ができる状態ではな
かった。楽譜も逸散して何ほども見つからなかった。それでも何とか音を出したい一心で夢中で練習したのを思い出す。
参考までに復活当時の編成を記しておこう。
クラリネット2
アルトサキソフォン1
コルネット2
トランペット1
アルト1
トロンボ-ン2
バリトン1
小バス1
Sドラム1
シンバル1 計13
このうち、クラリネットはアルバ-ト式のB♭、トロンボ-ンはバルヴ式であった。
その頃の演奏曲目で記憶にあるのが、行進曲の「双頭の鷲のもとに」と「軍隊行進曲」それに部員が編曲した「波涛を越えて」とルンバ「タブ-」など数曲に過ぎない。
平成4年6月14日「ブラウン氏を囲む会」茂原市五月園にて
高校になって半年後の昭和23年9月、音楽部にとって 衝撃的な事件が起こった。
それまで再々長生高に視察に見えていたGHQ千葉軍政部のヴァ-ノン・ブラウン氏が、わざわざブラスバンドの指導のために来校したのであ
る。
米国の陸軍軍属であったブラウン氏は、昭和21年に来日後はじめは関東軍政局に属して横浜に勤務され、22年5月千葉軍政部の教育部
長として赴任した。以来GHQの教育専門官の立場から、戦後の千葉県の教育改革に大きな指導力を発揮した人である。
出身地のカ リフォルニア州では音楽教師を勤めた経験があり、社会教育やボランティアなど地域のコミュ ニティ活動の推進にも熱心に指導
されていたという。占領下の日本ではスク-ルバンドが少 ない中で
長生高校のブラスバンドの存在に注目していたのである。
ブラウン氏の熱意に学校も驚いたようだが、部員にとっては言葉に表せない喜びと感動に胸を踊らせた。
当日音楽室に足を運んだブラウン氏は、個々の楽器を手にしながら熱心に指 導したり、
自らの指揮で合奏の練習をした。
さらに初歩者のための器楽合奏の楽譜や指導書 の寄贈を受けるなど、まさに物心両面にわたる励ましと支援をいただいた。
それまで演奏する 曲目の譜面はすべて手書きで写していたので、それらは宝物のように有り難く感じたものである。
そうしたブラウン氏との出会いがあったおかげで、部員達の練習にも一段と熱が入り、演奏活動 も次第に活発になり、裾野を広げて行った。
昭和25年10月体育祭 初の女子部員(写真は平野和彌氏蔵)
高校生活も最終学年の頃、部活動は一段と充実に向けて成長した。長高のブラスバンドが飛躍的に実力を高めるきっかけとなったのは、外
部から一流講師を招いて特訓を受けたことである。それが長高ブラスバンドの本格的な活動をひろめる基盤となり、さらなる発展をもたらす導
火線となった。
その講師としてご指導くださったのが水島数雄先生である。戦時中陸軍戸山学校の幹部として軍楽隊の隊長を勤められた。軍隊で長年指導されてきただけに、先生の指揮ぶりは実に厳格であり、鋭い眼光の奥には吹奏楽に対する真剣さが漲っていたよ
うに感じた。先生が長高に見える日は、部員一同ピリピリして大層緊張したものである。
水島数雄先生
1年足らずと思うが、水島先生の熱心なご指導のおかげで、生気溢れるブラスの響きが音楽室から流れるようになった。部員にとって大きな
自信を植え付けられたことは言うまでもない。校内のみならず、周辺地域でもその実力が注目される存在となった。それにともない「長高ブラス
バンド」として運動会の盛り上げや文化祭、部活の応援など機会あるごとに演奏に出掛けた。 (平野和彌 S26卒)
■「長高マーチ」の誕生 ~校歌がマ-チになった~ 平野和彌 S26卒
橋本國彦先生(長高校歌作曲者)
新制高校が発足した年度の3学期には、かねて作詞と作曲をそれぞれ委嘱していた新しい校歌が完成した。「ゆたけき大地広やかに、潮の
音遠きよきところ…」と大らかに歌いあげる新曲が新制高校第一回の卒業式で初めて発表された。その時には、式場で生徒全員が校歌をうた
ったのだろうが、まったく記憶にない。
その後、水島先生に新しい校歌をブラスバンドで演奏する行進曲に編曲してもらうようお願いして、先生も快諾された。
数か月が過ぎていつもの練習の日に、先生が真新しい大判の五線紙の総譜(スコア)を持参してこられた。仕上がったばかりの指揮者用の手
書きの総譜を見て、部員は歓声をあげて喜んだ。
一体どんな音が鳴るのか、担当のパ-トを目で追いながら早速楽器で吹いてみたかった。
しかし、まずは各楽器のパ-ト譜を書き写す必要があったので、手分けをして譜面を作る作業にかかった。
先生の譜面は細かくて、略式の筆跡に時には判別しにくい箇所もあったが、ともかく各自が自分のパ-トを手書きで写譜をした。先生の筆跡を
真似して点のように音符を書く者、印刷のように丁寧にオタマジャクシを写す者など、思い思いのパ-ト譜ができて練習にそなえた。
楽譜の準備が揃い、いよいよ音を出して練習に入ると、編曲者自身である水島先生の指揮は普段より一層厳しい。歌詞で歌う校歌のメロディ
-はすでに聞き覚えて頭に入っているが、行進曲としての溌剌とした旋律の流れは、初めのうちはなかなかのみこめない。
だが、新しい校歌の行進曲を自分達が初演するのだという喜びと意気込みに胸が膨らんだ。
小節ごとに細かな指示を噛み砕くように指導していただいたおかげで、ようやく行進曲らしい形がととのい、流れるごとく軽快なリズムにのって
鳴り響くようになった。
こうして、長生高校として発足早々に、校歌が行進曲として誕生し、歴史的第一歩を踏み出したのである。
以来、60年近くの歳月を経て、その響きはつねに堂々と、かつ親しみをもって後輩達に受け継がれている。今後も母校の長生高校が存続す
る限り永遠に輝かしく響きわたることであろう。
なお、行進曲の名称は、当時は学校名が「千葉県立長生第一高等学校」であったことで『長生一高行進曲』と呼んでいた。その後、『長高行進
曲』、『長高マ-チ』と呼ばれるようになり、今日に至っている。
■水島先生の思い出 月岡一郎 S29卒
「長高マ-チ」「行進曲、希望に燃えて」の作曲者で、またわれわれの演奏指導をお願いしていた水島数雄先生が、どのようなご縁で長高の吹
奏楽指導を引き受けて下さったかは筆者には不明でありますが、吹奏楽の分野ではまさに超一流の方であったことは承知しています。
先生は北海道のご出身で、終戦時は陸軍軍楽中尉。大正10年、陸軍戸山学校卒業時には首席優等生に贈られる「銀時計」を受賞されまし
た。ちなみに須磨洋朔、芥川也寸志の各氏も受賞しています。同校の終戦時の在校生には、斎藤高順、団伊玖磨らの名も見られます。(山口
常光著『陸軍軍楽隊史』)
水島先生の同期生に、後の警視庁音楽隊第2代隊長、岡田与祖治氏があり、水島先生はこのご縁で警視庁が所有する旧陸軍軍楽隊の楽
譜を写譜されて、これをわれわれに提供して下さった。
水島先生が月に1、2度、習志野から遠路電車と列車を乗り継いで来校されるときは、黒皮の大きなカバンに楽譜を詰め、トコトコ
歩いて学校までお見えになりましたが、そのお姿は今でも目に焼き付いております。
練習後の夕食はなんとジャムの付いたコッペパン2個とお茶だけ、当時の部費の窮乏さと時代の背景がお分かりいただけると思います。
後に病を得て、病院においての闘病生活を送られた後、日本で最初のプロ吹奏楽団である「佼成吹奏楽団」の指揮者として活躍されました。
このときの団員として、大久保翠先生が在席されていたことを後に知りました。
■長生総合文化祭音楽会
昭和25年11月5日 茂原町亀齢館にて 指揮:水島数雄先生
演奏曲:長生一高行進曲、士官候補生、子供の夢、輝く星、双頭の鷲の下に (編成:15名)
(写真は平野和彌氏蔵)
新制高校が発足して初めて、千葉県下の高等学校が参加した連合
音楽会が千葉市教育会館で催された。
これは千葉県教育委員会、千葉県高等学校音楽連盟が主催したも
ので、県内の音楽部をもつ18高校が参加し、合唱、独唱、ピアノ独奏
、ヴァイオリン独奏、弦楽合奏、ブラスバンドなどを競演した。
長生一高からは、ブラスバンド演奏のほか混声合唱(長生二高との
共演)、ピアノ独奏などの演奏で音楽活動の盛んなことをアピ-ルした。
中でもブラスバンドは、「長生一高行進曲」
「双頭の鷲のもとに」「序曲、ブライトスタ-」
を演奏し、その充実した演奏振りに満場の聴衆に感動を与え、反響が
大きかった。
他校の生徒からは「校歌に行進曲があって羨ましい」と感想を聞か
せてくれた。新制高校が発足したばかりの当時は、校歌の行進曲が
ある学校は長高以外にはなかったのである。
(平野和彌 S26卒)
昭和26年2月 千葉市教育会館
(写真は平野和彌氏蔵)
■第1回千葉県高等学校連合音楽会
■第1回関東吹奏楽コンクール 昭和27年11月16日 東京芸大奏楽堂
(写真は平野和彌氏蔵)