橋本國彦(明治37年1904~昭和24年1949) 


 橋本國彦は、明治37年9月14日(1904)東京都本郷弓町にてサラリーマンだった橋本源次郎の次男として生まれた。すぐに父の転勤により大阪へ移住。尋常高等小学校では鼓笛隊で西洋音楽に親しみ、14歳の時にヴァイオリンを辻吉之助(辻久子の父)に師事。 大坂府立北野中学校(現・北野高等学校 旧校歌は橋本の作曲 36期卒)に進んだ頃から、作曲にも興味を示し、18才の時には歌曲『山のあなた』を作曲し山田耕筰(1886~ 1965)に送っている。

■東京音楽学校入学

 大正12年(1923)19才で東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)予科に入学。
翌年、本科器楽科に進み、安藤幸にヴァイオリンを師事し、シャルル・.ラウトルップ(招聘教授。指揮者としても多くの曲を日本初演した)に指揮法を学ぶ。
 当時同校には作曲科がなかったため、時折、※信時潔の指導を受けるほかは、作曲はほとんど独学。始めは当時楽界の主流であったドイツ・ロマン派の技巧から出発したが、すぐにドヴュッシー、ラヴェル等フランス印象派の音楽に強くひかれるようになる。
 昭和2年(1927)本科卒業、研究科(ヴァイオリン)進学、翌昭和3年修了。

*信時潔 作曲家 ドイツの古典派・ロマン派に基づく簡素で重厚な作風を貫いた。              『海ゆかば』が有名。お孫さんの一人は長高OBで信時潔の研究等でご活躍中。https://nobutoki.com/

■歌曲

 在校中から作品を発表し始めたが、まず注目されたのは歌曲であった。

 18歳年上の山田耕作の強い影響下から出発した橋本は、すぐに独自の世界を構築していく。西洋の技法を完全に消化し(初めて「レチタティーボ唱法」を取り入れた)、題材に日本民謡を取り入れたり、シャンソン風の曲を作ったりしながら評価を高め、ついに『黴』『斑猫』で全く新しいスタイルを打ち出し、『舞』で作曲家としての名声を不動のものにする。わずか四年間のことであった。

 昭和4年(1929)指揮を勉強するため研究科に再入学した橋本は、ヴァイオリン演奏や指揮活動をすると同時に、同校嘱託から講師となった。

 一方、芸術的歌曲からは次第に遠ざかり、研究科修了の昭和5年(1930)、日本ビクターと専属契約。当時生まれた「大衆」のための音楽(歌謡曲、映画主題歌、CM曲)も手がけるようになる。


■管弦楽曲

 歌曲で、日本的な要素をモダニズムの手法で表現した橋本は、特にバレエのための音楽で、日本伝統の旋律に西洋のハーモニーを組み合わせる、民謡調の拍子を取り入れる、など果敢な挑戦をし始めた。これらの曲は、同じようにモダニズムの洗礼を受けた急進的な舞踏家たちの求めに応じて作曲された。

■留学

 昭和9年(1934)31歳で東京音楽学校助教授に就任。
昭和9年(1934)から昭和12年(1937)まで文部省留学生として欧州に留学、特にウィーンに長く滞在し、、フェリックス・ディック、チャールス・ラウルトップ、エゴン・ヴェレス(シェーンベルクの弟子。橋本との議論の中では「無調には結局聴衆が付いてこない」との立場を示した)等に師事。

 アルバン・ベルクの歌劇『ヴォツェック』上演に接して衝撃を受けたり、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(リハーサルにももぐりこんで聴いたらしい)やブルーノ・ワルターの演奏を聞く。帰国途中に寄ったロサンゼルスではアーノルド・シェーンベルクに師事するなど、積極的に新しい音楽を学んだ。

■戦争

 帰国した1937年(昭和12年)は支那事変が起こった年だが、これ以降、戦時体制が強化され、文化の領域にも国家政策の影響が直接表れることとなり、レコード検閲の強化、国民の教化動員目的の「国民歌」の発表(同年に公募され12月に発表された「愛国行進曲」の審査員の一人であった。ちなみに一等当選は瀬戸口藤吉)が相次ぐこととなった。 橋本自身も、戦争をモチーフにする作品、戦意高揚を目的とする歌を、次々と発表していく。


■行進曲『若人よ!』(1937年)    創立70周年記念演奏会

 昭和12年11月神宮外苑の競技場で開催された「第5回報国音楽週間」の「連合女子音楽体育大会」に際して、「5万人の大合唱」のために作詞作曲した女声合唱付きの行進曲。
 競技場に集まった学校数は70を超え、5万人の女子学生が陸海軍軍楽隊の合同演奏と共演した


  

                共益ボーカル楽譜(昭和13年7月19日発行)



■東京音楽学校主任教授

 帰国後、昭和15年(1940)母校東京音楽学校教授に就任。教師としても優れた実績を上げており、作曲門下から吉田隆子、矢代秋雄、芥川也寸志、團伊玖磨、黛敏郎、ヴァイオリン門下から朝比奈隆を輩出した。

 教壇に立つ橋本は、その端正な風貌もあり、女子学生の憧れの的であり、男子学生たちは、授業の合間に脱線して語られる「パリの女たち」の話を、いつも楽しみにしていたという。

 バリトン歌手で評論家の畑中良輔は次のように回想している。

「 私は一貫して作曲を橋本教授に学んだが、まさに博覧強記、あらゆる時代の作品をとり上げ、分析し、それを即座に自身でピアノを演奏し、ボードに譜面を見ることもなく音符を次々に書きつけていくその才能の豊かさ、深さには常に驚かされ続けた。昭和15年のこの時代にして、われわれはハーパ(Haba)の四分音音楽まで譜例を示して教えてくれたものである。」(「レコード芸術」'99年10月号)

 「今考えると本当に凄い先生だった。卒業の日までたった一度、病気の時の一ヶ月休んだだけで、あとは一回の休講もなく講義された。」

 和声の授業では「様々な例をすぐ黒板にノート一つ見るでなくすらすら書き、ピアノで弾き、理論と感覚を常に平行させた講義を進めた。しかもこの初歩の技法習得の傍ら、“この機能和声が爛熟の結果崩壊してしまうのだが、それはワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の和音からだ”と、これも黒板に例のトリスタン和音を記し、ピアノで聞かせてくれた。」

 「自分で書きたい音は大切だが、作曲すると言うことは感覚だけで書けるものではない。いいかね、制約の中で約束事を完璧に守ることは、感覚より頭脳の問題だ。これは作曲する上で大切なこととなる。ドビュッシーたちが反則を冒して平行五度や八度を書いているのは、そこを乗り越えた結果だ。」(「音楽青年誕生物語」)

■『交響曲第1番ニ長調』     

  建国祭本部の委嘱により作曲された。委嘱の時期は不明だが、昭和13年(1938)には着手し、2年で完成したと思われる。自筆スコア最終頁には「皇紀二千六百年二月十一日(1940)」と記されている。
 初演は昭和15年(1940)6月11日、日比谷公会堂で東京音楽学校管弦楽団の演奏、作曲者自身の指揮によってされた。
 楽曲構成オーケストラは三管編成を基本とした編成をとる。演奏時間は約40分。

第1楽章 マエストーソ・モデラート

 雅楽を思わせるゆっくりとしたカノンで開始される。ヴァイオリンによる第1主題(3楽章で用いられた「紀元節」からのレ・ミ・ラによる)、オーボエとフルートによる第2主題(都節音階に基づく)がそれぞれ提示される。さらに勇壮な行進曲、金官による強奏で祝祭を繰り広げた後、後半は第1、第2主題が再現され、最後はチェレスタとともに静かに終わる。

第2楽章 アレグレット・スケルツアンド・アレグレット     創立70周年記念演奏会

 ABA’の三部形式。Aは鄙びた琉球音階の旋律が「ボレロ」のように繰り返される。Bは日本古来の祭り歌や宴会歌を思わせる陽気で滑稽なもので、A’では再び琉球音階の旋律が繰り返され、最後は日本太鼓が加わり祝祭的な熱狂で終わる。
 なお、琉球音階をオーケストラに用いた最初の例といわれ、橋本はこの主題を後に自著『豊富な楽譜と和声学の講義を含めた旋律の作曲法』(全音楽譜出版社、1948年)の中で琉球音階の使用例として挙げている。
 
第3楽章 主題と変奏とフーガ・モデラート

 「紀元節」(伊沢修二作曲 ♪ 雲にそびゆる 高千穂の)を主題とする8つの変奏が行われる。
 主題提示の後、第1変奏はチェレスタとハープのユニゾンによる八分の五拍子。そこから力強いカノンが立ち上がり第2変奏となり、第3変奏はやわらかなピチカートにのった慰安的な曲。第4変奏は軽快な古典舞曲の中にフルートが舞い、第5変奏はクラリネットによる甘美な旋律。第6変奏は健康な舞曲が次第に陰影を深め、それを感傷的な第7変奏が受ける。第8変奏は弦楽の主題と、「紀元節」の主題と、第1楽章の主題とによる三重フーガを形成し、壮麗に終わる。




 初演当時音楽学校の学生で、小太鼓を受け持った畑中良輔(バリトン歌手 文化功労者)は次のように回想している。

 「D音を基調にした短調でも長調でもない雅楽旋法の荘重な第1楽章、続く沖縄旋法によるスケルツァンドな第2楽章は練習時から学内の誰もが口ずさんでいた。オーケストラの部分はラヴェルのボレロの影響そのものだったが、当時は(今もなお!)新鮮で刺激的だった。第3楽章の主題が例の「紀元節」で、これに続く八つの変奏曲とフーガからなる構成だが、この弦によって呈示されるテーマは「紀元節」というより「越天楽」に近く、「紀元節」という名のために今日まで演奏されてこなかったことは残念でならない。日本交響曲史上の秀作である。(中略)
 初演後橋本先生に“あの第1楽章のテーマは神秘的ですね。"と言ったことがある。橋本先生はニヤリと私を見て、“畑中君はわかっていないんだね。あのメロディーはクーモニソビユルだよ”(中略)まさかここに既に紀元節が隠れていようとは!絶句した私を満足そうに眺めた橋本先生の顔は、私の一生の宝である。」

 また評論家の小宮多美江は新交響楽団のHPで、安部幸明(昭8東京音楽学校卒業 作曲家)からの手紙の中の一節を紹介している。

 「橋本さんの交響曲、確か私は初演の時に奏いているはずです。あの人なかなかの才人で、当時のオケの力ではあの程度の事しか出来ませんでした。欠点を挙げると、紀元節の歌とか妙にこだわるところがあったのが、惜しまれるのでないですか。」 

 吉川和夫はHP「作曲家の栄光と悲惨~橋本國彦の音楽」で以下のように述べている。

 「昭和15年に書かれた交響曲第1番ニ調は、皇紀2600年奉祝曲であるという出自に惑わされることなく評価されるべきだろう。マーラーのように、それまでとはまったく違う曲調が突然カットインされたりする第1楽章、琉球音階による主題がボレロ風に積み重ねられていく第2楽章、そして第3楽章は唱歌「紀元節」(伊沢修二作曲)を主題とする8つの変奏とフーガだが、彼はどの楽想をも、交響曲を構築するひとつひとつの素材として冷静な視点で扱っていく。主題は自在に変形される、たまたま主題が「紀元節」という曲だっただけのハナシ・・・作曲者には主題を変形し展開させていくのが面白くて仕方がない。フーガまでくると、こんな主題だが料理の仕方によってはこんな音楽が作れるんだぞと言わんばかりの腕の振るいようである。あくまでも作曲家の目は、この主題をどう展開させると音楽的に豊かな楽章が出来あがるか、その一点にしか感心がないように思える。皇紀2600年におもねって筆をすべらせている感じがほとんどしないのだ。」

 第3楽章で「紀元節」を主題としたことが、皇国賛美のプロパガンダ要素が強い、と戦後批判され、長らく演奏されなかった直接の要因だが、絵巻物のように霞の中から現れる循環主題の第1楽章、民謡調祝祭の第2楽章、技法を駆使した変奏と壮麗な終曲の第3楽章と、平明で親しみやすい作品であり、橋本のこの時点での集大成と言える作品である。
 2002年、ナクソス・レーベルの「日本作曲家選輯シリーズ」で沼尻竜典指揮、東京都交響楽団演奏のCDが発売され、その真価は再発見されたといえる。


 終戦翌年の1946年(昭和21年)、橋本は、同じ作曲科の井口基成、平井康三郎、細川碧と共に東京音楽学校を辞職した。戦時下の行動の責任を取った、戦争責任を追及された、との説が多いが、新校長となった小宮豊隆による校風刷新に伴い「純粋に戦争責任を問うものというより、体制の変化に伴う、あるいは小宮の学校運営に対する批判としての性格が濃いものだった。」(戸ノ下達也「音楽を動員せよ」)との見解もある。

■『朝はどこから』(1946年、詩:森まさる、NHKラジオ歌謡)   創立70周年記念演奏会

 昭和21年(1946)3月、敗戦直後の日本を励ますため朝日新聞が健康的なホームソングを全国に募集し10526通の応募の中から一等当選歌となったものが、森まさる(本名:森勝治)のホームソング「朝はどこから」と児童向きの曲「赤ちゃんのお耳」であった。
 「朝はどこから」はラジオ歌謡の第2弾にとりあげられ、安西愛子指導の東京放送合唱団の歌唱によって5月12日からラジオで流され、6月にコロムビアレコードから発売された。歌は岡本敦郎、安西愛子。
 戦後第1回のコロムビアレコードのオーディションでコロムビアに入った岡本敦郎のデビュー曲でもある。
 当時は<民主主義の息吹>がどこから来るかしら、それは<希望、働く、楽しい家庭>から来るんだよ、というような受け取り方をされたという。

公職を辞し、鎌倉に転居したのち 1949(昭和24年)癌のため44歳で鎌倉にて逝去した。



■長高校歌 昭和24年(1949)44才 千葉県立長生高等学校校歌(創立110周年記念CD)

 昭和23年(1448)橋本は胃癌に倒れた。『アカシヤの花』を作った後はどこからの作曲依頼も断り、鎌倉極楽寺の高台にあった自宅で闘病生活に入っていた。そこに、詩人の白鳥省吾の紹介状を持って、千葉から二人の来客があったのは11月中旬のことであった。

 本人は面会謝絶となっていたので橋本夫人が応対に出た。庭の芝生の上で話を聞くと、千葉県にある長生高校が、旧制中学から通算して創立六十周年を迎えるので、その記念に新制高校の校歌を依頼したいとのことであった。

 作曲依頼はすべて断っている、と夫人はいったんは断ったが、二人は「期限なしでお作り出釆たら」(「長高80周年記念誌」)と言って、白鳥省吾作の歌詞を置き帰って行った。

 「昭和24年の正月、大変気分がすぐれて来たという。吉川英治さんが何かよい注射の薬を送ってくれたので、その為かも知れなかったと、橋本先生の奥様の後日の話である。正月中気分よかったので、幸なるかな、長高の校歌は作曲されたのである。この作曲が先生の絶作と相成ってしまった。」(「長高80周年記念誌」)

 前述の『アカシヤの花』が遺作といわれるが、それよりも半年も後の、本当の絶筆である。

■ 昭和24年(1949)5月6日永眠。闘病中にキリスト教に帰依していたことから、葬儀は上智大学の聖イグナチオ教会で行われた。享年44才。
 
 絶筆となった長高校歌は六十周年記念式典には間に合わず、3月5日、新制高校第一回の卒業式に於て、初めて斉唱され、来賓父兄一同に披露された。

 なお、橋本に校歌を依頼しに行ったのは書道の板倉花巻先生と図画の石川宣淑先生だが、葬儀に参列した板倉先生は「葬式に参列したが始めて見るキリスト教の、その音楽的の儀式に、夢見る様な心地になった。」(「長高80周年記念誌」)と回想している。







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