MEMORY         昭和40年(1965)~


                                           

                      ポンコツ楽器と音楽会

                                                                                    昭和41年3月梨葉第7号




                                   (編注昭和40年)四月に新入部員を十五名ほど加え総部員三十名となり昨年同

                                  様のバンド編成でスタートした。

                                  中学ですでに楽器を手にしていたものはともかくとして、初めて楽器を手にした者が

                                  初めに出す音ときたら、近くで聞いているとまったく吐き気をモヨオスようなものすご

                                  い音である。

                                  それでも、二ヶ月の練習の後にはどうにか楽器をこなせるようになり、全体の合同

                                  練習にも加わることができるようになった。


                                  七月に入ってから茂原工業高校、茂原農業高校、長生高校による合同演奏会が

                                  本校の体育館で開かれた。これは初めての試みだけに観客の数もそうとうなもの

                                  となりプログラムの数が足りなくなるのではないかと思われるほどであった。


                                  また七月後半から八月にかけて勝浦で合宿を行った。一日八時間以上という練習

                                  のため、そうとうに肥えた男子も女子(?)も合宿が終わったら見違えるほどスマート

                                  になった。それでも激しい練習の合い間にはみんなで海などへ行き大いに楽しんだ。

                                  合宿最後の成果発表会も無事に終え、いよいよコンクールに向って夏休み後半は、

                                  精一杯練習にうちこんだ。


                                  九月十二日、吹奏楽コンクールが開かれた。我が校は、十二校中第二位という結果

                                  に終ったが、それでも、日頃の練習成果を十二分に発揮できた。

                                  今まで悩みの種となってしたコーチについても、今年N響から迎えることができた。

                                  部員もそのつもりで今まで以上に練習を重ねて来年のコンクールこそ、一位となり、

                                  関東大会に出場したいと毎日練習に励んでいる。

                                  現在のところ、部員が三十五名、小規模編成だが、楽器もわずかしがないので、

                                  やや大編成のクラブができたらと思う。
                                              



                             
 第1回 定期演奏会 昭和41年(1966)6月 長高体育館 

                                                 フィンランディア 他 部員26名 


 


                            
      

                                          昭和41年(1966)9月10日 第15回関東吹奏楽コンクール千葉県予選 県体育館




                           楽器         宇田川 芳雄  昭和42年卒

               
   
                                   ある日の練習室で

                                    指揮者   「はいそこもうー度」

                                    プレーヤー 「プー ジュルル~???」
   
                                    指揮者   「どうしたの、もう一度」

                                    プレーヤー 「ジュルル~…”?ン?」

                                     隣のプレーヤー「すいません、ツバ抜きにつめてあったガムがとれて

                                               音が出ません」

                                    指揮者    「又か、しようがないな~後で新しいガムつめておいて」 
     

                                  「よくもま~」と思う程のボロ楽器だらけ。ビニールテープを巻いたのや、輪ゴムが付いたものetc

                                  (ビニールテープは管の継ぎ目がはずれて息がもれるのを防ぐ。輪ゴムはバネの代用)

                                  在学中、小生はメロ・ホルンの担当、フレンチホルンが吹きたくて吹きたくて。当時フレンチホルン

                                  を一本でも持っている学校は県内でも1~2校しかなかっただろう。

                                  現在仲間数人でホルンアンサンブルをやっているが、同世代の友人(関西出身)は、
                         
                                  「その当時の思いがあって今まで、ホルン吹いて来たんだよね…」 まったく同感。
 
                                  「さて、今日は何をさらおうか」 

                           


                                                        

                                              昭和42年(1967) 文化祭                      昭和44年(1969) 体育祭


                                             

                                           昭和44年8月1日 高校総体開会式 長高・茂工・茂農・一商の合同バンド  茂原市民会館


                                                

                                           昭和44年(1969) 旧校舎音楽室での練習      昭和45年(1970) 千葉県連合音楽祭 県文化会館






                                           

                                                 






                          我が青春 昭和40年代の思い出       植草 進 昭和45年卒

                  
            
                                                          
                  
                                 
                                                    
昭和42年(1967) 春の遠足 太東岬

                                最初に、
歓迎ハイキングで迎えてくれました。行き先は、大東岬

                                の方面であったと記憶しています。楽しい思い出の歓迎ハイクとなっています。

                                また、校内では「ソフトボール大会」をよく催してくれました。「よく遊びよく学べ!」を実践で

                                教えてくれました。

                                定期演奏会(第2回)は校内の体育館(当時は千葉県1位を誇る大きさ)てした。

                                記憶に残る曲は、「ウィーンの森の物語」(河野先輩のクラリネットソロー音色にしびれました)

                                そして「闘牛士のマンボ](同期の今関(我らの部長)氏は、入部間もない頃から才覚を発揮、

                                アルトサックスのソロをやってのけました。ブラボーの連発です)


                                また、夏の高校野球大会には、たしかベスト8をかけての習志野高校との対戦(ブラバン応援)

                                このとき借しくもコールド負け!でした。だって強豪の習志野高校との対戦でした。

                                習志野高校はあの石井投手を要し、そのまま全国制覇してしまいました。

                                誰もが記録に残る快挙でした。


                                夏の合宿は、校内の
梨葉館でした。私たちの代の前に柔道部の事故があった関孫

                                から、校外での合宿が禁止となってしまったわけです。
 
                                           

                                     梨葉館一階(定時制食堂)マンドリン部の練習場所           梨葉館二階


                                先輩たちからは前々から「御宿合宿」の思い出(とっても楽しかったそうです。)を良く聞かされてお

                                りました。合宿の打ち上げに催される地元演奏会、町の皆さんや海水浴客も大勢会場(小学校)に

                                聞きに来てくれたこと、演奏会の打ち上げにダンスパーティまであったことなど伝え聞いていて、うら

                                やましいの一言でした。

                                そして「秋の体育祭」。(これを最後に3年生は退く)には、3年生の先輩連が、

                               
オリジナルのモール(色鮮やかですばらしかったです)を手作りで作ってくれました。

                               それを全員肩にかけての行進、すばらしい行進でひときわ拍手が大きかったことを記憶しています。

          

                                                 
                           
                                                    昭和42年(1967) 体育祭

 
                                 私どもの3年生の時の定期演奏会は、音楽部が3つ(吹奏楽部・マンドリン部・コーラス部)
                                 に分かれてから第4回となり、場所を体育館から茂原市民会館(初めて)に移し

                                 てやること(音響等を考慮して)となりました。
   
              

                                            


                
                           昭和44年(1969) 第4回定期演奏会 新設の茂原市民会館


                                 先輩から受け継いだ定期演奏会、特に、初めての茂原市民会館での演奏会。部員はもとより

                                マンドリン部及びコーラス部の皆さん加えて照明や受付等一致団結して協力してくれました。
                      
                                これは長生高校のよき伝統です。

                                さらに、1学期の終わり頃には、双葉電子(株)からの依頼で「社歌と茂原七夕祭り」のレコーディング

                                (かっこいい)をしたことが記憶に残っております。

                                                 
 




                                         
 
                
                                            昭和45年(1970) 予選会での演奏(長高体育館)







 
                                   
                                         

                                   昭和45年(1970) 春の遠足 太東岬        昭和45年(1970) コンクール

                                             

                                  昭和46年(1971) 秋の遠足 マザー牧場  未詳 旧校舎取り壊しのため階段教室で練習      


                                             
                        
昭和47年(1972) 春の遠足        昭和48年(1973) レク
  
      






                          
吹奏楽部とともに    元顧問  藤平 近義 昭和51年卒


                                   私が長生高校に入学したのは昭和48年。
 
                                   その当時は、この地域での吹奏楽部は今のように盛んでなく、音楽系の部活動が充実して

                                   いる学校も少なかったので、ただただ音楽が好きだった私は迷わず長高に来てしまいました。

                                   中学時代に定期演奏会をみたことがきっかけで、ぜひ長生高校で吹奏楽をやりたいと思っていました。
 
                                   そのころは吹奏楽部よりも
マンドリン部の方が部員数が多く

                                   横目でうらやましく思いながらもあこがれの吹奏楽部に入部し、勉強そっちのけで練習に励みました。

                                   楽器は中学時代にクラリネットとフルートを少しだけやっていたことかあり、高校でもフルートを

                                   希望したところ、すんなりパートの希望を通してもらえました。 
 
                                    しかしほとんど初心者同然だったので、「音楽祭のプレリュード」や「木星」、そしてメインの

                                   交響詩「前奏曲」など、定期演奏会の曲の楽譜をいきなり渡されて初見で練習に参加しても、

                                   何もできずにただ見ていた記億があります。

                                   我々の学年は途中で退部した同級生が多く、最終的に3年の定期演奏会に残ったのは4入だけ

                                   という、人数的にとてもつらかった時期でした。その代わりにというのも変ですが後輩の皆さんは

                                   先輩に頼れないという思いからか、みな大変上手になり、その後のCBCを盛り上げてくれたようです。
 

                                                   
                
                                                
昭和49年(1974)9月 千葉県吹奏楽コンクール


                                    ちなみに我々が2年生のときに出場したコンクールでは、17~18校しか出場しない中で、

                                   13位くらいだった(はっきりとは覚えていません)のですが、翌年は3位(4位?いいかげんで

                                   すみません)で、あと一歩で関東大会という成績だったようです。

                                   あらためて「自分達はヘタだったなあ、それにひきかえ後輩達になんてウマいんだろう」と思った

                                   ものでした。

                                                
                    
                                                  
昭和49年(1974) 音楽室で









                                                    
                                                     


                                           撮影年不明  茂原駅 表口               茂原駅 裏口


                          











                                                       
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