もう一つの砂利線
福生駅から「福生河原支線」の他に「もう一つの砂利線」が敷かれました。
大正9年(1920年)に明治神宮造営のために敷設されたトロッコ軌道です。
「福生河原支線」と混同されることも多く、存在自体があまり知られていませんでした。
下記、「鉄道廃線跡を歩く V」を読んだことが調べるきっかけになりました。
<以下、「鉄道廃線跡を歩く V」 宮脇俊三著 p.54〜55(JTBキャンブックス)から引用>
「なお、大正9年(1920)には福生駅から玉川上水手前までトロッコ線が敷かれたとの記録もある。
ただし、大正10年測量の地図には掲載されておらず、その正確な位置は確認できなかった(G)。」
「福生市史」を見ると下記のような記載があることがわかりました。
<以下、「福生市史」 第5節 福生と熊川に敷設された鉄路 p.179 から引用>
「大正 九年 明治神宮造営用の砂、砂利、玉石運搬のため、福生駅砂利置場から
加美一一八五番地先まで、延長約一四〇〇メートルの間にトロッコ軌道が敷設される」
「福生市郷土資料室 年報17」 p.21 「図2.昭和初期の福生村・熊川村」
には、福生駅から玉川上水の宮本橋付近まで、「トロッコ道」が描かれていることを
発見しました。
ブログ 古い記憶の中の駅を探して
の中で、この「もう一つの砂利線」について、情報提供を依頼しました。やまいも様、明笛様、
H.Kuma様、他の皆さまから情報をいただきました。ありがとうございました。
やまいも様から下記のような貴重な情報をいただきました。
福生市本町の歴史について書かれた「福生不動尊由来記」には、
<以下、「福生不動尊由来記ー福生市本町の歴史」橋本孝蔵著(宗教法人:福生不動尊刊)
(昭和63.6.25)内の年表からの引用>
「大正9年4月、明治神宮造営のためのトロッコ線敷設の権利を、村尾春吉氏が取得。
路線は、福生駅から小学校裏を通り、長沢を経て、宮本橋から、かに坂下の河原までの
区間(小型手押しトロッコ線)。」
昭和初期の福生を舞台とした小説「福生村堂川端物語」には、
<以下、「福生村堂川端物語」から引用>
「神明社前から堂川沿いの道を歩いて ちょうどヨリ屋の前のトロ道を東へ向かった。
幅六尺ほどのこの道は、大正の末頃まで多摩川の砂利を福生駅近くまで運ぶトロッコ線用道
であった。左側に竹やぶと桑畑、右側に樫巨木の立ちならぶトロ道を吾朗は、はしっていた」
「多摩川物語 上中流七十年史」には、明治神宮造営の際に
<以下、「多摩川物語 上中流七十年史」根本律男著、1984.11.22)から引用>
「福生では、業者として筆頭格の村尾春吉さんの音頭とりで、神宮へ神宮へとピストン輸送を続け、
それを送る貨車毎に「明治神宮造営資材」と墨書した札を立て、人夫一同で「万歳三唱」
して送ったとのことである」
「福生第一小学校開校90年記念誌」(1964年)には、
「もうひとつの砂利線」を通学路として利用されていた方の短い記述があります。
運行されていた時から通称でトロ道と呼ばれていたそうです。
「庚申塔 造立二五〇年」記念誌(福生加美 千佛地蔵講、2007年9月)掲載の周辺略図(昭和初年頃)には、
砂利運搬トロッコ線と表記された軌道印がありました。これでは福生駅西側を起点としており、福生一小と隣接せず、
やや西側を通過していた様子です。その先は、宮本橋付近まで、ほぼ最短ルートで記載されています。
宮本橋から河原(鉱区)にかけては、他の表記斜線と混合しており不鮮明ゆえ、終点部を確認できませんでした。
拡大してみましたところ、不鮮明だった部分(宮本橋付近)の確認ができ、略図上では「砂利運搬用トロッコ線」
と表記されている記号(実線)が、宮本橋より、やや下流で玉川上水と交差しています。
そして、市史記載の終点地に該当する地点まで続いていました。この場合、諸説の「宮本橋を渡っていない」
という点において合致すると思う、とのことでした。
「福生市史 資料編 民俗(下)」付録の地図資料(福生村熊川村全図、1928年発行に加筆したもの)
には、
トロッコ道が軌道印で記載されています。これは、上記の「福生市郷土資料室 年報17」の
「図2.昭和初期の福生村・熊川村」の元になったものと思われます。これによれば福生駅西側の旧荷物取扱ホーム付近が
起点となっていた様子です。一方の河原(鉱区)方面は、宮本橋付近までです。
「福生ひろい話」には、
<以下、「福生ひろい話」(森田潤三著、福生町文化財調査会報、1969年頃の発行)から引用>
「砂利といえば、これが河原よりの搬出には、砂利線と呼ばれるものがあって、
一つは駅から第一小学校の裏を通って宮本橋を経て河原に至るもので、
トロを馬で曳かせたとのことであって、明治神宮工事造営に際し砂利を納入するため
にできたものであると(村尾春吉氏敷設)いわれ、以下略」
やまいも様ありがとうございました。
これらの情報をもとにもう一つの砂利線の地図を作製してみました。(手書きにつき縮尺等は、
正確ではありません)
終点につきましては、玉川上水手前までとういう説、玉川上水を渡り、かに坂公園まで
敷設されたという説の2つの説があり、定かではありません。
明笛様からの貴重な情報があり、玉川上水を渡っていないという話を
トロッコ線を歩いて福生一小まで通ったという地元の方から伺ったとのことです。
地図はこちらから
もう一つの砂利線の線路跡を歩いてみました。

(写真0)福生駅

(写真1)福生不動尊
上記、引用文献にある福生不動尊である。

(写真2)福生駅の砂利置場
起点である砂利置場は東口側にあったそうである。「福生不動尊由来記」 p.56、p.68 に記載されている。
明笛様より情報をいただきました。
「庚申塔 造立二五〇年」記念誌 掲載の周辺略図では、福生駅西側が起点
「福生市史 資料編 民俗(下)」付録の地図資料(福生村熊川村全図)では、
福生駅西側の旧荷物取扱ホーム付近が起点

(写真3)福生駅から福生一小方面に至る小道
(トロッコ線の跡の可能性は少ない)福生一小と隣接せず、やや西側を通過していた様子。

(写真4)新奥多摩街道を渡る地点
この先下り坂となっている

(写真5)坂の下付近。

(写真6)反対側(福生駅側)を望む

(写真7)道はこの先カーブがあるが、トロッコ線は、まっすぐ行っていたようだ

(写真8)少し行ってから反対側(福生駅側)を望む

(写真9)奥多摩街道と玉川上水手前
(「鉄道廃線跡を歩くV」と、明笛様からの情報、
「福生市史 資料編 民俗(下)」付録の地図資料(福生村熊川村全図)による終点付近。)

(写真10)このトロッコ線の最初の権利取得者と同じ名前の会社の本社
(現在は青梅市末広町に移転している)
明笛様からの情報によるとトロッコ線と大いに関係があるそうである。

(写真11)宮本橋

(写真12)玉川上水に沿ってかに坂公園に至る道

(写真13)福生かに坂公園の駐車場付近

(写真14)この先、下り道で「かに坂公園」に至る

(写真15)福生かに坂公園
砂利採取地と思われる
「福生市史」、「福生不動尊由来記」、「福生ひろい話」、「庚申塔 造立二五〇年記念誌」による終点付近
2010年4月
参考文献
・「鉄道廃線跡を歩く V」 宮脇俊三著 p.54〜55 (JTBキャンブックス)
・「福生市史」 p.179
・「福生市史 資料編 民俗(下)」付録 地図資料(福生村熊川村全図、1928年発行に加筆)
・「福生不動尊由来記ー福生市本町の歴史」 橋本孝蔵著 年表、p.56、p.68(宗教法人:福生不動尊刊)(1988.6.25)
・「福生市郷土資料室 年報17」 p.21
・「福生村堂川端物語」 森田七郎著 (けやき出版)(1992.5)
・「多摩川物語 上中流七十年史」 根本律男著 (日本随筆家協会)(1984.11.22)
・「福生第一小学校開校90年記念誌(1964)
・「庚申塔 造立二五〇年」記念誌(福生加美 千佛地蔵講)(2007.9)
・「福生ひろい話」 森田潤三著(福生町文化財調査会報)(1969年頃の発行)
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