月の影











【草の者は人にあらざる道具である】

ずっとずっと教え込まれたそれだけが本当。
紛れもない真実。

だから武士のように名乗りを上げず、背後から首をかき切ることも出来る。
だから雇い主の望むまま、その欲情を満たす為に体を差し出すことも出来る。

心が痛むことも、怒りや悲しさを感じることもない。
そもそも忍に心など在りはしないのだから。
どれだけ血に塗れようと、精液まみれにされようと、何も感じる必要はない。

だというのに、この手を、体を見る度に思う。

(俺は汚い…)

どうしようもなく、きたないんだ。



真っ暗な森の中でぼんやりと空を見上げる。
風が通り抜ける度にカサカサと木の葉が鳴る音が聞こえる。
大きな満月が明るく照らす光も、
鬱蒼と生い茂った森の中へは届かない。

「……小太郎」

呼ぶ声に答える代わりに姿を見せれば、三成は微かな笑みを浮かべた。
そのまま二人で並び真っ暗なけもの道を歩く。

『…三成、少し痩せた』

「必要な分は食っている」

一緒にいるうちに三成は唇を読むことが上手くなった。
今では手と唇の動きだけで、声のない俺の言葉を分かってくれる。

初めて出会ったのもこんな風に月の綺麗な夜だったと思い出す。

俺が風魔小太郎になるずっと前。
三成がまだ佐吉と名乗っていた頃だ。

初めての難しい任務で傷を負った俺を佐吉が助けた。
手当てと呼ぶのもおこがましいようなそれでも、
真っ直ぐな瞳で、泣き出しそうな声で、大丈夫かと問う声が、
布を巻く震える手の温かさが、俺が初めて触れた生きている人間だった。

助けたのだから死ぬことは許さない、傷が癒えたらまたここに来い。

そう、去り際に言われた言葉がひどく温かかったのを覚えている。
その温かさの名前は知らないけれど、
その時初めて俺にも感情のようなものがあることを知った。

ひと月後にまたその場所へ行ってみれば、佐吉が一人で木刀を振っていた。
たまに辺りを見回し眉をしかめてため息をこぼす。
こんな夜更けに鍛錬をする必要もないだろうと思いながらその背後に降り立てば、
たいそう驚いた顔をして、それでも嬉しそうに無事だったかと笑った。
助けられた上に武家の人間ということもあり敬称を付けて呼べば、
敬語も敬称もいらん、次に言ったら切り刻むぞと吐き捨てるように言った。

そうして去り際に、またここへ来いと言うのだった。

三成が今も俺に会おうとする理由を知らない。
それでも俺の名を呼ぶ声が、微かに笑うその顔が、
穏やかに、柔らかくゆるむのならそれでいいと思った。

「どうした小太郎、何を考えている?」

『…初めて会った時のことを思いだしていた』

「……貴様は随分と傷だらけだった」

懐かしむように目を閉じ、微笑を浮かべる横顔を改めて美しいと感じる。
三成は俺が今まで見た中で、一番美しい人だ。

どこが、と問われると返答に困る。
全部、としか答えようがないからだ。

三成を形作る全て、その体に詰まった血や臓物の全てまで。
造形だけで言えば何ものにも染まらぬ白銀の髪や、金緑色の鋭い瞳、
白すぎて不健康に青白い肌も、必要最低限の肉しか付いていない体も、
真っ直ぐに伸びた背筋や、引き結ばれた薄い唇などなど時間さえあれば限りなく上げられよう。
が、こと内面や精神面に関して言えばよく分からない。
なんせ三成としか人とまともに接していないので比較対象がいないからだ。
北条氏政もよく接する人ではあるが、あくまで主という部分でしか見ていないのであしからず。
それでも三成は心も含め一番に美しいと断言する。
こんなに優しい人が他にいるのだろうか。いいや、いない。
もう三成は人ではなく菩薩か釈迦ではないかとたまに思う。

(俺は、三成以上に優しくて、温かい人を知らない…)

武士と忍──本来ならば口をきくことすらあり得ない間柄だと自覚はしている。
あってもせいぜい雇い主と雇われの忍でしかないだろう。

(俺と北条氏政のように)

それも金で買える程度の主従関係だ。
本当の意味での信頼関係などありえない。

(……武田の忍や上杉の忍が変わっているだけだ)

木々の隙間からある程度広さのある池が見える。
水面に大きな月が映り込みキラキラと輝いていた。
そのすぐ側の小屋へと互いに荷物を置き、
入れ替わりでそこに置き去りにしている着流しに着替えた。

三成が着替えている間に草履を脱ぎ、そっと池に足を差し入れる。
夜になり冷たさを増した水に触れ、ぶるりと身震いした。

「小太郎、何をしている」

『……水遊び?』

「……冷たいだろう」

呆れたような顔をする三成に頷けばその顔は苦笑に変わった。
無言で差し出された手拭いを受け取り、それでも足は水に浸けたままだ。
今はこの冷たさが何だか心地よかった。
三成が隣に座り、同じように足を水に浸ける。
思ったより冷たかったのか三成は一瞬眉をしかめた。

『三成は綺麗だ』

「……なんだ、突然」

俺の言葉に驚いたのか目を見開き、頬はほのかに紅い。
それをまた、綺麗だと思った。

『ずっと思っていた。三成より綺麗で優しい人を俺は知らない』

ニィと笑って三成を見れば、耳まで紅く染め水面を睨み付けていた。

豊臣は強い。北条は弱い。
勢力を拡大している豊臣に、次に飲み込まれるのは北条だろう。
北条は敗れるだろう。
それでも、主の望むままに戦い命を散らすのが俺の役目だ。

『三成に会えてよかった』

もしかしたら会うのはこれで最後かもしれない。
そう思うと、どうにも落ち着かない気分になるのだった。
きっと、だからこんなことを口走ってしまうのだとぼんやりと思った。

「…わっ、私も小太郎に出会えて、よかった、と思う」

尻すぼみに小さくなる声で三成が呟く。
うつむいた横顔も、紅く染まった顔も、綺麗で綺麗で胸が苦しい。

(この感情は何という名前だろう……)

温かさと、苦しいのがない交ぜになったこの感情の名前を俺は知らない。
こんなにも三成に触れたいと思うこの激情の名前も、俺は知らないのだ。

俺は三成を好ましいと思っているのだろう。
こうして会うことをやめないということは、そういうことなのだと思っている。
それはきっと”好意”だ。

(俺はたぶん三成が好きだ。とてもとても、好きだと思う)

だが、その”好き”がどんな好きなのかが分からない。
武田の忍が主を想うように?
上杉の忍が主を想うように?

(俺は、三成を汚したくない)

手に、髪に、唇に、肢体に、触れたいと思う。
きっと触れた端から俺の”きたない”が移ってしまう。
そう思えば、いつだって今だって、触れることは出来なかった。

「………小太郎、秀吉様は次は北条を落とすとおっしゃられた」

三成がそんなことを言うのは初めてだった。
今までこの奇妙な関係を続ける間に、お互いに所属する軍の機密など言うことはなかった。

『知ってる』

「私は、小太郎を……ッ………」

何かを堪えるように握りしめられた拳が、
寄せられた眉が、噛みしめられた唇が、
それでも真っ直ぐに俺を見る三成が、美しかった。

『……俺は三成を殺したくないよ』

「…私は逃げん。秀吉様の天下の為、この命を使うと決めている」

射抜かれた瞳を逸らすことも出来ないまま、曖昧に頷く。

三成がいかに豊臣秀吉を、竹中半兵衛を想っているか知っている。
どれほど真摯に、不器用に、豊臣に尽くしているかを知っている。

『三成、戦場で俺に会ったら殺していいよ』

「……ッ!」

笑ってそう言えば、三成はひどく苦しそうな顔をした。
その顔が見ていられなくて目を伏せて言葉を紡ぐ。

『俺は、……命令されてもたぶん三成を殺せないから』

「……北条が、豊臣に立ち塞がるというのなら私は豊臣の為に殺す。
………たとえそれが、小太郎でも」

『うん、いいよ』

三成は真っ直ぐに鍛え上げられた刃のようだ。
曲がることも、歪むこともなく、その命が終わる時は真っ直ぐに折れるだけなんだろう。

(ああ、三成はきれいだ……)

「それでも私はッ………」

そのまま、途切れた言葉が続くことはなかった。
手持ちぶさたに水面に手を差し入れれば、やはりその水は冷たい。
唇を噛みしめて、泣き出すのを堪えるような三成にパシャリと水をかけてやる。

「っ!?」

よほど驚いたのか肩を震わせ、目を見開いていた。
そんな三成にニィと笑ってまた水をかける。

昔、川辺で水を掛け合って笑い合っていた子供らがいた。
何が楽しいのかと思いながら見ていた。
でも、あの時の子供らはとてもとても楽しそうに、笑っていた。

(俺は三成が、笑っているのがいい)

ザバザバと池の中に入り、三成に水をかける。
凍えそうに冷たい水の中でも、不思議と心は穏やかだった。

「こっ、小太郎ッ!やめろ!」

初めは水を避けていた三成も水をかけ返してくる。
大の男が二人そろって池に入り、飽くことなく水をかけ合う。
強張っていた三成の表情も、
次第にこの他愛無い遊びに夢中になってほころび始めた。

「このっ、貴様アアアアアァァァッ!」

大声を上げて怒鳴りながら、三成が俺を池に沈めようととびかかってくる。
それを避けながら俺は笑っていた。

(きっと、あの子らもこんな気持ちだったんだろう)

俺が人の何を知っているのかと思うけれど、
きっと人は今の俺たちのように笑い合うのだろう。
あの子らが笑っていたのと同じように。

この場所は暗くて冷たいのに、こんなにも温かくて眩しい。
三成が小太郎と呼ぶ声が、楽しそうに笑う声が、俺はたぶん嬉しいんだ。

「避けるなッ!大人しく沈められろおおおおっ!」

(三成に沈められて死んでしまえば、本望だ……)

触れられないように避けながら、強くそう思った。
二人で笑いながら、バシャバシャと水をかけ合って、それだけでこんなにも心が弾む。

(俺は今、きっと幸せなんだろう)

三成の濡れた髪が、着流しが、肌に張り付いている。
それは俺も同じでとても動き辛いけれど、俺たちはずっとずっと笑っていた。








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