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 「はじめてのお泊まり」

 

「お嬢ちゃんたち夕飯だよ」

「あっ、おとうさん。リナちゃん」

「リナです。祝詞すてきですね。ときどき杜で聞いていました」

「いらっしゃい。香詩宮で時々お見かけしますね」

「このカタログ。リナちゃんのおとうさんなんだって」

「荻野閏さんの娘さん?」

「はい。香詩宮には父もよく散歩に来ます」

「閏さんにこんな可愛いお嬢さんがいたなんて知りませんでした」

「リナちゃんとは小学校から同じクラスだったの」

「じゃあ、いがいと近くにお住まいなのですね」

「はい、香詩宮の杜を抜けてつつじ町の住宅街です」

「アトリエもそこですか」

「はい」

「閏さんの浮遊する糸は不思議な動きをしますね。何処か霊的な感じがして、もし霊が見えたらあんな感じなのかな。閏さんはお元気ですか?」

「はい。おかげさまで元気です」

「制作の方は?展覧会のご予定とかあります?」

「あれが制作なのかな?変なことばかりしていますけど」

「やはり芸術家さんは変わってるんですかね」

「はい。変態さんですね」

「リナちゃん、変態さんって?」

「変態さんは変態さんですよ。こないだなんかね。風船に水を入れて朝日に向かって飛ばしてるの。『リナちゃん、お水がお日様の光で宝石のようにきれいだよ。いっしょにやらない?』って誘われたから、『うん、やってみる』って言ってやったの。でも一時間もやれば飽きるでしょ。パパは違うの。日が沈んでも今度は星や月に向かってやってるの。来る日も来る日も何日もだよ。これを変態さんといわず、何と言ったらいいの?ねえマホちゃん」

「変わってるね。やっぱり」

「きっと次の表現の何かになるんだろうね。さあ、夕飯にしよう」

「もうすぐ夏休みだね。リナちゃんち、今度遊びに行っていい?閏さんのアトリエ見たいんだけれど」

「ちょうどお休みだし、明日でもかまわないよ。内のパパは変態さんでも人が大好きなの。マホちゃんだっら大歓迎だよ」

廊下は煮物の匂いで食卓へと誘っていた。

 

「リナちゃん。ここに座って」

椅子を引きながら沙織が目配せした。

「アレルギーとか大丈夫?食べられないものあったら言ってね」

― うっかりしてた。電話した時、お母さんから聞いておくべきだったのに。

「エヘヘ。リナは好き嫌いないの。マホちゃんは?アレルギーとかあるの?」

「何食べても大丈夫」

香詩宮家の食卓は命を頂くという気持ちにさせた。鮎の塩焼きにしても、舞茸や獅子唐の天ぷらにしても、ゆでたアスパラやインゲン、枝豆にしても、海老のマリネにしても、グリーンサラダのミニトマトやブロッコリーにしても、酒のつまみなのか、葉ショウガやエシャレットにしても生きていた時のかたちをそのまま留めている。野菜中心ではあるが、赤、白、黄色に緑と色味がよかった。爽やかな印象を与えるのは、作った沙織の夏用の感性なのだろう。

「リナちゃん、おそう麺の薬味ね。こっちがネギで、そっちがミョウガよ」

リナは食べることがとても好きだった。でも、人前で食べることには、何故か恥じらいを感じていた。何処かうしろめたいような気分になった。

世界には貧しくて碌に食べられず、飢えた人々が大勢いることをそれとなく察してしまうせいなのだろうか?いやもっと直接的な他者を殺して食べるといったことが無意識に働いていたのかも知れない。

命を奪わなければ命ながらえることができない私たちに、味覚は快楽で応えてきた。この感覚はとても恐ろしい。美味しいという喜びの中に、口に入れたものたちを殺したという事実が含まれているのだ。味覚は奥底に殺す喜びを潜めていることになるのだから。

自身の親、兄弟、子どもたちが怪物か何かに食べられているところを目撃すれば、そやつのことを憎らしく思うに違いない。同じ事を自分らもしてるわけだから、罪の意識が生まれないはずはない。食べられた側の恐怖や悲しみをどんなに背負っていても、他者を殺して食べるという罪の意識は美味しいという喜びに変わってしまう。私たちは完全に命の味を覚えてしまったのだ。

このもって行き場のない気分を、口に入れたものたちを神として祭り、祝福し、感謝することで、腑に落としてきたのかも知れない。いや、身勝手に折り合いを付けたとでも言うべきか。

水とミネラルと二酸化炭素、そしてお日様の光によって有機物を作り、自立している植物のように、人は食べることから解放されるのだろうか?私たちが光合成機能を持つ日が何時か来るのだろうか?

たとえそうなったとしても一度覚えた命の味をそう簡単に手放すとは思えないのだが・・
「いただきます」

示し合わせていたかのように目を伏せて自然に合掌の姿勢になるから不思議である。この「いのり」の仕草にこそ、命を戴くことへの祖先から脈々と受け継がれてきた感謝と鎮魂の思いが無意識に込められているのだろう。

「リナちゃん。たくさん召し上がれ」

満面の笑みをうかべてリナは頷いた。

「ありがとう」

リナはミニトマトが大好きだった。瞳を閉じて口に含むと命の痛みが光に変わっていく。噛むと光の香りが口いっぱいに広がって満たされた。甘酸っぱい喜びが身体の芯から灯っていく。命と一つになっていく明るさはすぐに笑顔になって現れた。

「おいしい」

マホには一瞬、リナの顔がトマトになったように見えた。

リナトマト。ウ

「鮎ね。お隣のマー君から頂いたの。思川の上流で釣ってきたんですって。雨で川が増水したら、急に入れがかりになったそうよ」

「大漁だったんだ」

「それでお裾分け。いっぱい貰っちゃったの」

「この時期の鮎は美味しいから嬉しいね」

「さっきまで生きてたそうよ。鮎って、焼く前はね。西瓜の香りがするのよ」

「西瓜の香りがするの?」

「そうよ。骨まで軟らかいから丸ごと食べられるの。リナちゃん、鮎、食べたことある?」

「ないの。川魚、あまり食卓にのぼらないの」

「リナちゃん、わたしね。お魚の中で鮎が一番好きなの」

「リナはマグロかな」

「食べてみて」

鮎をどうやって持ったらよいのか?上手く箸を使いこなす自信がなかったリナは、指先で摘まんで食べることにした。頭からガブリと頬張ると、癖のないほのかな土の苦味が身の旨味と共に広がっていく。命に蓄えられた別の命たちの言葉が弾ける。その声を味として感じているのだろうか?川の中に溢れていた光がリナの胸に流れてくる。

― ああ、川の味がする。

「リナも鮎、大好き」

「ね」

マホの笑顔を見て、海の魚たちが急に遠いところのよそ者に感じられたリナは、何となく自分のいる場所が何処なのか分かったような気がして、その育んでくれた世界につま先を立てた。

― ここがいい。ウフフ・・

氷の転がる涼しげな音がした。大きなガラスの器に小分けに丸められているそう麺をマホが掬い取ったのである。ネギとミョウガとショウガを少しずつ入れたつゆにつけて、何気にちらっとリナを見た。鮎を食べ終えたばかりのリナが摘まんでいた親指と人差し指を交互にしゃぶっている。

「リナちゃん、おしぼり、これ使って」

「ありがとう」

マホが口をつぼめて麺をすすると、余分なつゆは器の方へと戻されていく。だしのきいたそう麺は喉を潤し胸を冷やした。おなかに行ってしまったそう麺を追いかけるみたいに後から薬味が効いてきた。口の中にその清涼感が残った。

「おいしい」

笑みを浮かべたマホに倣って、リナもそう麺に箸を伸ばした。

テーブルは味覚の魔法陣なのだろうか。目線が人と食べ物、そして人と人の間を行ったり来たりして至福のかたちを描いていく。味覚の魔法が求めた無邪気な笑顔が何故か命の味を際立たせているように思われた。

「ごちそうさまでした」

マホとリナがあとかたづけをした。

マホはスポンジに洗剤を数滴垂らし、二、三回揉んで泡立てると、リナに笑いかけながら手際よく食器を洗い始めた。リズミカルに腰を振ってノリノリでそれを受け取ったリナは、水で濯いで籠に立てていく。その様子が信じられないくらい楽しそうなのである。

「まるで姉妹のようだね」

「もうひとり産んでおけばよかったかしら?」

夫婦はお茶を飲みながら二人の仕草を見ていた。

「いいもんだね」

「可愛いわね」

リナが水滴のついた食器を拭き取ってマホに渡すと、それを元あった棚へと戻していく。あっという間にかたづいてしまった。

部屋に戻るとマホは押し入れから下着を取り出した。

「リナちゃん。わたしお風呂入ってくるから、好きなの見ててね」

「ありがとう」

そう言って着替えをもって行ってしまった部屋でひとり、リナはマホの好みが知りたくて、一通りCDに目を通した。勉強机の代わりなのか? 由緒がありそうなちゃぶ台に並べてみると、どうやら好みのミュージシャンがいるわけではなく、ジャケットの斬新なデザインで選んでいるらしい。しいて言えば、そういうデザインを使うミュージシャンが好みなのだろう。どんな曲なのかは出たとこ勝負といったところなのか。現代美術やシュール、SFやファンタジー、抽象や表現主義と、気に入ればマホはジャンルに拘らなかった。現代音楽も何枚か雑じっていた。残念なことにリナの知っているものは一枚もなかった。

― どんな本を読んでるのかしら?

CDを元あった処に戻しながら、本棚を見た。

人差し指で本の背を滑らせていく。波打つ指先を目で追いながら気になる物を探しているような仕草を段ごとに繰り返した。リナの指が止まることはなかった。

リナは襖で仕切られた畳の部屋の中でポツンとただ一つの位置を占めているちゃぶ台に目線を移して、そこで本を読むマホの姿を思い浮かべた。ほのかに白い残像が香った。

「ウフフ。マホちゃん」

古い和風建築のせいなのか。柱や襖が重すぎて女の子の部屋とはとても思えなかった。生活するための衣類や蒲団などは全て押し入れに収納されていたから、凡そ壁面の棚に棲む物たちだけがマホの一面を露わにするガイドだった。

本棚の隣には光に照らしだされ、自ら発光しているような水槽があった。その光の中をたくさんの紅い金魚が泳いでいる。

― ワー、大きな水槽。きれい。フフ。こんにちは。アッ、こんばんはかな? みんな元気だね。

この金魚たちがマホのことを最も象徴的に語っていたのだが、その時のリナには知るよしもなかった。

― あれー、何だろう。文字が書いてある。祝詞かな?

それが大祓の祝詞であることをリナは知らなかったし、黒い文字の向こうで泳ぐ者たちに

「何か伝えたいのかしら?」

 と、微笑みを浮かべるだけで読むこともなかった。ただぼんやりと何時までも金魚を見ていた。

 

風呂から上がるとマホはドライヤーで髪を梳かした。指通りがよくなると冷風に変えた。

 

「もうすぐ夏休みだね。リナちゃん、予定あるの?」

「ウフッ、傘を買いに行きたい。マホちゃんとお揃いのがいい」

「じゃあ、初日に行こうか?」

「近いの?」

「うんん、近くないよ」

「電車でいくの?」

「専門店にいかなくちゃないの。あの傘」

「そうだよね」

― 今年の夏休みはマホちゃんといっぱい過ごせたらいいのにな。

マホちゃんの予定は?」

「美術館に行ってみたい。観たい展覧会があるの。リナちゃん一緒に行ってくれる?」

「もちろん」

「ここにお蒲団敷くからね。リナちゃんも手伝って」

「うん」

「ちゃぶ台の足、折っちゃおうか?そっちたたんでくれる?」

「これでいい?」

「じゃあ、端に寄せるね」

「よいしょ」

「リナちゃんのお蒲団、取りに行こう。一緒に来て。」

広間の押し入れの中にあったお客様用の蒲団を沙織が気をきかせて隅に出してくれていた。

「上掛けはリナちゃんが持って行ってね。わたし、敷蒲団を運ぶから」

「うん」

「お蒲団、ちょうど部屋の真ん中に二つ並ぶように敷こうね」

「分かった。マホちゃん、頭をどっちにする?」

押し入れからマホの蒲団を出して、それをリナの蒲団の隣に敷くと、ぱっと咲いた桜の花びらが畳に淡い乙女心を通わせる。やっと女の子の部屋らしくなった。

「マホちゃん何時もこのお蒲団で寝てるの?」

「そうよ。可愛いい?薄いピンク色が好きなの」

「リナもパステルカラーが好き。でも傘は真っ紅がいいね」

「夏祭りにまたお泊まりに来て?おうちのひとに今から言っとけば大丈夫でしょう?」

「嬉しい」

「寝ようか?」

「マホちゃん、そっちに行ってもいい?」

「一つのお布団でねむる?」

「少しの間、こうしていたいの。だめ?」

リナは何も言わずただじっとしてマホの胸に顔を埋めていたかった。柔らかな膨らみの向こうから体温の僅かな温度差を伝えてくる。マホの鼓動に包まれたリナは、耳の中へと血液が流れていくような息づかいに変わっていく自分が少し恥ずかしく思われた。

― えっ。何かしら? この感じ。

リナの身体に沿って透明な淡い光が内側をなぞるように入ってきた。冷たく感じられたので体温よりも微妙に低いのだろう。人型の器に灌がれる水のようにリナの身体を満たしていくのが分かった。リナは自分が何か霊的なものを収めておくための器であることを思わざるを得なかった。

それがマホの霊体なのだとリナは直感で分かっていた。

― リナの中に今まであったものもマホちゃんの方へと流れていくのかしら?

一方的に入られているようには思えなかったのである。

「あのね、マホちゃん。変なこと聞くようだけど、リナ、マホちゃんの中に入って行ってない?」

「ウフフ、来てるよ。青白く発光する透明なリナちゃんが冷んやりとして気持ちいい。こうでもしないと汗ばんでしまうでしょう」

― こんなこと、どうやってやるのかしら?

香詩宮の杜で幼いころから見えない者たちと遊んできたマホは、霊体が体温を下げる働きを持っていることに慣れ親しんでいた。かの者の中に入った時のその痺れるような寒気が好きだった。逆に入られた時は命が震え神秘的な痺れに包まれた。リナの霊体はそれらとは明らかに違っていた。

「夏だもの。抱きあっていたら熱いでしょう。でもね。こうすれば冷んやりして気持ちよくない?」

「マホちゃんて不思議」

マホの言う通り触れ合った肌も冷たく感じられ、汗ばむことはなかった。

リナは素早く顔を上げマホにキスをして自分の床に帰ろうとしたのだが、マホに手を握られ、抱き戻されてしまった。

「リナちゃん。ありがとう。このままでいよう」

体温がひとまわり大きな体に包まれ、接しているところほど冷たく感じられた。

 

 

 

 「りんごのはなし」

 

 

何も飾らないリナの首筋が明るく輝いて見える。朝の弾むような木漏れ日が髪に降れると、わけもなく嬉しくて、向かい風に笑いかけたリナは、スキップしながらくるりとスカートを翻した。

「おはよう」

太陽と手を繋いでいるような輝きの中を振り返えったらマホが笑って伸びをしていた。めいっぱい吸い込んだ大気が手のひらを夏の空へと開かせる。

蝉しぐれが熱中症の警報を発しているというのに、風のそよぎも小鳥たちのさえずりも全部のみ込んで、青く澄んだ快晴の空は樹と樹の向こうで気高くも清ましていた。

「じゃあ、今からうちに来る? マホちゃん」

「行く」

ひとまず玄関に戻ったマホは、戸を開けるなり家の隅々まで届くような明るい声を上げた。

「おかあさん、リナちゃんちに行ってくるね」

「マホ、待ちなさい。お帽子」

ピンクのリボンのついた麦わら帽子を掲げて、沙織が慌てているではないか。

「ありがとう。おかあさん。じゃあ、行ってくるね」

「気をつけてね。行ってらっしゃい」

 

 

玄関には見慣れないが掛けられていた。

「閏さんの?」

「パパのじゃないの」

誰かを待っていたかのように左側のドアが開いた。

「あっ、パパ。マホちゃん」

「ちょうどよかった。いい時に来たね。お嬢ちゃんたち」

閏が絵画教室を始めるところだった。

「マホです。アトリエを見せてもらいに来ました」

「どうぞ、こちらに」

スケッチブックを持った人たちがモチーフ台を取り囲むように座っていた。何故か?空席が二つ。

「マホちゃん、そこに座って。リナちゃん、描くもの貸してあげなさい」

「・・ここ?」

― どうしょう。

「マホちゃん、これを使って」

「今日はリンゴの話をしようと思います。一つ持ってきました。これから皆さんで描いてもらいます。早速始めましょう」

「リンゴを描くことになっちゃったね。マホちゃん」

「・・みたいね」

モチーフ台に白いハンカチを敷くとその上にリンゴが置かれた。

 

 

リンゴを観つめていたマホの指が動いた。画用紙の上を鉛筆が走る。その音が小刻みに繰り返されると、リンゴのアウトラインが徐々に浮かびあがって形を成していく。誰かに手ほどきを受けたわけではなかったから、感覚的に自己流でやっているのだろう。写実的に描こうとか、そういう指針のようなものはなく、ただただ気の赴くままに鉛筆を走らせていた。

形が整うと鉛筆から赤いクレヨンに持ち替えたマホは、はらで円を描くように軽く滑らせた。ざらっとした紙の凹凸がリンゴの真ん中で赤く発色し丸みをおびてくる。

リナが貸してくれた画材は、どれも閏がリナのために与えたものだったから質が良かった。

― 何て描きやすいんだろう・・いいな。

その滑らかな描き心地のよさがマホの背中を押した。

「リナちゃん、水汲んでくるね」

「あそこ」

「うん」

絵に一瞥を送るとバケツを取り、水を汲みに席を立った。

リナが指を差した北側の壁は、窓に沿って腰の高さの棚になっていた。その中央が細長いステンレスの流し台になっている。水を汲んだり、筆やパレットを洗ったりするための水道の蛇口が三口、60㎝ぐらいの間隔で並んでいた。

真ん中にバケツを置くと三分の一ぐらいで水を止め、ゆっくりとバケツを回転させながら濯いだ。

― これくらいでいいかな。

「リナちゃん、一緒に使おう。ここに置くね」

「ありがとう。マホちゃん」

何色にするのか? なんてことよりもお尻のところに小さな角ができるのが嬉しくて、次々と絵の具が紙パレットに搾り出されていく。

「可愛いい。リナちゃん見て」

「色虫の運動会だね」

「でしょ」

「マホちゃん。角、作るのうまいね」

「こうやってやるの」

「ほー」

マホは中ぐらいの平筆を選んだ。それに水を含ませると、赤い色虫を捕らえパレットの中央で円を描くように混ぜた。白い毛先が真っ赤に染まっていく。たっぷりと馴染んだ絵の具をリンゴへひと塗り、クレヨンの油に弾かれ絵の具だけが沈んでゆく。クレヨンの赤の背後に絵の具の赤が周り込む。マホはこういう色味のコントラストが好きだった。

― 余白に淡く滲んで消えていく色、何にしようかしら? アッ、そうだ。

クレヨンの白とピンクを交互に使い分け、こんがらがった糸の溜まりをリンゴの背景に走らせる。筆を洗い、これを浮かび上がらそうと次に捕まえた色虫はエメラルドグリーンだった。

― リンゴもうちょっと描かないとだめかな?

マホは小筆を取った。アウトラインに沿って内と外に色を重ねたり拭き取ったりした。

― こんなもんかな・・

最後に背景に淡い雫を数滴おとして、そのぽたぽた、ぽつぽつという絵の具を弾く音が円く滲んでいくのを見て納得したらしかった。

 

「一時間経ちましたのでそろそろいいでしょうか。ここに並べて観てみましょう」

イーゼルが西側の壁面に沿って並べられた。この奥のもう一つの部屋が閏のアトリエなのだが、そのドアは閉まっていた。

「お嬢ちゃんたち。ちょっと、手伝っていただけますか?」

「何をしたらいいの?」

「こちらに来てください。絵を並べ替えます。そこの絵を一番右に。三番目を一番左に。それを隣の絵と入れ替えます。その絵はもうひとつ右です。そう、そうです。こんな感じかな。ありがとう。席に戻って。さて、岡平さん。この並べ方は何だと思いますか?」

「右から上手い順、だったりして・・えへっへ」

「松井さんはどう思います?」

「右側に置かれた絵の方が正確に描けてるかな。左端なんか、形、変だし」

「提箸さんはどうです?」

「う~ん。先生の意地悪。私の一番左端だから。でも、いいの。可愛いから」

「誰か、もっと意見はありませんか」

「あのう、こちらの双子の可愛こちゃんたちは先生のお嬢さんなんですか?」

「ワッハハハ」

「今はリンゴの絵の話なのですが・・気になります? リナちゃん、吉田さんが自己紹介してほしいそうです」

「娘のリナです。こちらはお友だちのマホちゃん」

「マホです。今日は閏さんのアトリエを見学に来ました」

「よろしくね。吉田さん、皆さんも話しを戻しますけど・・いいですか?」

「あっ、はい」

「ちょうど十人で十色のリンゴの絵ができあがりました。でもリンゴは一つです。どうしてこんなことになるのでしょうか?吉田さん、先輩からお嬢ちゃんたちに教えてあげてください」

「僕ですか? さあ、どうしてなのかな? 個性がそれぞれだから、ですかね」

「いきなり正解です」

「ワッハハハ」

「ではそれぞれの個性は何をしていたのでしょう? 創造力のとても大切な三つの要点が見えてくるのですが・・鈴木さん」

「リンゴをよく見て、感じたことを描きました」

「そう、その三点ですね。初めによく見て捉えます。そこで何かを感じたということは、自身の内なる世界と関係を結んだということになりますね。そしてそれを描き表したわけです。捉えること、結ぶこと、表すことの三点ですね。まず捉えることから話を進めますが、一つのリンゴを十人で描けば、ご覧のように十色のリンゴの絵ができあがりました。一つのリンゴにたいし、十人十色の捉え方があることになりますね。このことは百人でも千人でも同じことが言えます。捉え方は無限にあるのだということに気づきます。私が捉えているリンゴは無限に捉えることができるその一つです。あなたが捉えたリンゴと私が捉えたリンゴは明らかに違いますがどちらが良くてどちらが悪いというようなことはありません。いいですか?左端の提箸さん?」

「えっ、はい」

「捉え方に優劣はないのです。ただ同じリンゴの別の側面を捉えたのです。何かを捉えるときの癖と言ってよいでしょう。第一歩はこの癖と向き合うところから始まります。自身の癖の範囲を見極めるのです。心から納得すればそれは自分が捉えきれる限界を知ることになります。そこでこの捉え方の他に別の捉え方はないものだろうかと思いめぐらすのですが、誰かになったつもりでもう一度リンゴを見てください。さあどうでしょうか?心の中に別のリンゴが浮かびましたか? 立花さん」

「そんなこと急に言われても無理です」

「ですよね。すぐには難しいかと思います。私たちが何かを捉えるときの癖というものはそう簡単に直せるというものではありませんね。でも創造力にとっては、自在に捉えることがとても重要なのです。それが気づく力を養い私たちの内側の生活と深くかかわっているからです。何かに気がついたときの喜びや悲しみを想像してみてください。捉えることは直接心の働きと結びついています。自在に捉えることができれば心の働きを自由にコントロールすることができるようになります。喜びや悲しみを自由に操れるようになるのです。ところで河村さん」

「はい。何でしょう?」

「ちょっとお尋ねしたいのですが、描きながらリンゴとは何の関係もないほかのことを考えていませんでしたか?」

「えっ、何でわかるんです?」

「差し支えなければどんなことを考えていたのか? 話してください」

「先生がリンゴを持ってきた時、ニュートンの万有引力の話でもするのかなって思ったの。それで物理の授業が浮かんできて、何の実験だか忘れてしまったのだけれど、わたし眉毛、燃やしちゃったことがあるの」

「プㇷ、キャハハハハ」

「で、その実験のことが気になって、リンゴを描きながら思い出そうとしてたの」

「眉毛?」

「それからそれがわたしの字名になっちゃったの」

「ワッハハハハ」

「河村さんに眉毛なんて可愛らしい字名があるとは知りませんでした。どうでしょう。河村さんのようにほかのことを考えていた方は?あっ、はい、小山さん」

「去年の夏におばあちゃんを亡くしたのだけれど、リンゴを見た時、よくおふくろが擂って食べさせていたことを思い出しました」

「介護大変だったでしょう。ご冥福を祈ります」

「ありがとうございます」

「描きながらリンゴとは何の関係もないほかのことを考えてしまうのは?私たちは白紙ではないのです。経験した自分だけしか知らない秘密をたくさん胸に秘めているのですね。この皆さんの記憶たちがリンゴとごく自然に結びつくのです。過去と今を結びつけたり、どこか遠いところとここを結びつけたり、一見何の関係のない事や物がきわめて自然に結びついてしまいます。リンゴを捉えようとすると、無意識に記憶の引出をあちこち刺激していることがわかりますね。リンゴは一つ、でもそれを描こうとした皆さんには捉えるための膨大な触手があるのです」

「先生」

「はい何でしょうか?」

「リンゴの色とか形とかに集中して描いたのですけれど」

「一番右端の岡平さんの絵を見てください。今ご本人言った通りの仕上がりですね。写実的によく描けてると思います。実は並べた位置にも関係しています。右に行くほど写実的に描かれています。先ほど絵に優劣はないと言いましたね。提箸さん」

「ええ」

「では、提箸さん。この中で最も抽象的な作品はどれでしょう?」

「私のですか?」

「そう思いませんか? 優劣を決めているのは写実的にとか、抽象的にとか、どんな物差しをあてるかによるのです。物差しによっては誰もが一番になれるということですね。それにはまず自分の物差しを自覚しなければなりませんね。絵はそのことをとても正直に伝えてくれます。自身の絵をもう一度見てください。その絵が一番になる視点がきっとある筈です。マホちゃん、見つかりましたか?」

「エー?・・分かんない」

「無限の中からたった一つの自分に気づくのはそう簡単ではないのかも知れませんね。いっぱい絵を描くことで本当の自分を見つける旅にでることをお勧めします。さまざまな物差しと出会う旅の中で、無限分の一のご自身の物差しがそれだからこそ、何でもはかれるんだってことに気づけたらいいと思いませんか。大切なのは自在な物差しを最初から身に着けていたことに気づけるかどうかなのです。他とは代えることのできない唯一のとても尊いものだからこそそれができるのです」

「リナにもできるかな?」

「はい。リナちゃんにもできますよ。無限分の一ゆえに無限なんだって気づけばね。最初からそうなんですから。ところで岡平さん。何故、リンゴの色と形に拘ったのですか?」

「リンゴそのものに近づけたかったんだと思います」

「岡平さん、見えたとおり描くにはどんなことに注意を払っています?」

「何回も見比べます」

「微妙な違いに気づくにはそうするしかありませんものね。個性も同じですね。紙の上にリンゴを再現するということについて、もう一人に聞いてみようかな。鈴木さんはどんな考えをお持ちですか?」

「本質に迫ろうとしてもそれを正確に表す力がなければできません。技巧を修得する必要があるのではないでしょうか?」

「では写実的に描ける技巧があれば、そう表しましたか? 提箸さん」

「いいえ・・わたし、可愛い感じにしたかったから。妖精さんを描き足したいくらいなの」

「メルヘンを描くにはまた別の技巧が必要のようですね。妖精さん、描けばよかったのに、何でそうしなかったんです?」

「課題、リンゴを描くことじゃなかったの?」

「あれ、学校のお勉強みたいに考えちゃってるのかな? 皆さんも僕の絵画教室なんだから自由でいいんですよ。堅苦しいことなしね」

「じゃあ、何でリンゴを用意したの?」

「リンゴはね。禁断の実。蛇にそそのかされたイブがこれが終わったら食べるんじゃないかと思って」

「季節外れのって、美味しくないんじゃない?」

「ですよね。この話はこのくらいにして。立花さん、リンゴを表そうとした時に何が受けとめてくれたと思います?あなたを」

「何だろう?・・もしかしてスケッチブック? あっ、紙ですか?」

「自分を受けとめて貰った感じはどうです?」

「ごめんなさい。意識していませんでした」

「リンゴにばかり気を取られていましたね。何かを表現しようとする時、自分を受けとめてくれる相手のことを思いやることがとても大事なのは分かるでしょう」

「あっ、はい」

「それがここでは画用紙なんですね。未だ何も描かれていない紙と向き合った時、どんな技巧が役に立つと思います?リンゴはそのきっかけを与えるだけなんですね。もしリンゴがなかったら、岡平さん、白紙自体を写実的に描こうとしましたか?」

「どうなんだろう。考えたこともなかった」

「私たちが視覚表現をしようとするとき、受けとめてくれる存在のことを支持体といいます。ラスコーやアルタミラの洞窟壁画に見られるように、最初に私たちは地球を支持体として描いてきました。やがて、石やパピルスや竹や木片に描くようになり、紙やキャンバスへと変遷しました。マルセル・デュシャンがモナリザに髭を描いたことからも分かるように、支持体は絵画にも、つまり文化にも及んでいます。当初ギャラリーの展示空間を支持体として表現されていたインスタレーションは、日常空間へと展開し、そこで暮らす人たちとどう関わろうかといったことを模索するようになっています。自分を受けとめてくれる存在を考えることは、表現することにとって、とても大事な側面なのです。では立花さん、改めてお伺いします。あなたを受けとめてくれる最高の支持体は何でしょうか?」

「・・何かしら? あっ、先生かな?」

「キャー、ハハハハハ」

「ありがとう。最高の支持体はイブの心ですね。リンゴは君にあげることにします。思いのたけが自分を含めて誰かの心に届けばいいだけのことなんです。そのためにどんなことを心がけたらいいのか?技巧を含め、皆さんと模索する場がここなんですね」

 

 

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