「涙の中の燃える火」 タカユキオバナ
カナカナカナカナ
カナカナカナカナ カナカナカナカナ・・
思春期の熱で悩みの森を抉じ開けてしまったかのようにヒグラシが鳴き始めた。夏は何処かせつない思春期の痛みに似ている。
地鳴りのような祭りの熱がこの手の鬱を地の果てへと追いやって行く。
笛や太鼓が雑踏を連れ勢いに乗って流れているではないか。頭が浮いたり沈んだり、この騒がしい川は人々をどんどん呑み込んでそこやかしこに溢れだす。
―
太陽を背負い神様を担いで、一日じゅう街を練り歩いてきたのに、何て大きなかけ声なの。疲れを知らないのかしら・・
膨れ上った祭りのリズムで、お日様を見送ると、何時も通夜のようだったあの街がはち切れそうな勢いである。
遠雷からの風は亡霊のような熱を連れて、この喧騒を足早に抜ける。鳥居を潜り、燕のように参道を抜ける。両手を広げた香詩宮を抜け、杜の御神木たちの枝を揺らして、わけもなく燥いでいる。
神代からのぼんやりとした、それでいてどこか懐かしい記憶を呼び戻すと、胸の奥の方がもどかしくて、街の灯りも幻想的にたそがれるものらしい。
鳴きをひそめたヒグラシの余韻も、薄い闇に包まれてさすらうのか。
いよいよ胸が高鳴れば、山の端は優しく光って月の在処を教えているではないか。
リーン リーン リーン・・
熱の残っている夜空に、風鈴の響きが融ける。
― この音、さっきから月の出を誘っているのにね。
そんな宵待ちの響きをたっぷりと含んだちょいと重い空気の流れが、微かに聞こえる杜の奥にも、祭りの気配は届いていた。それは身体を持たぬものたちの内緒ばなしのように草葉の陰を揺らしていた。
― 今宵は恥ずかしいくらい賑やかになるね。
商店街から香詩宮まで、まっすぐに続いている提灯ロードを目指して、何処からともなく絶倫の輩が集まってくる。
狐の嫁入りのようにそこだけがぼーっと明るい。この怪しげな光で、参道脇を埋め尽くした露店が月よりも一足先に黄色く華やいでいた。
醤油やソースの匂いをこもらせ、限りなく陽気な匂いが溢れだしている。
この中に風鈴を商う店があることを確かめるかのように、時おり遠雷からの風が気まぐれに吹いてくるのだ。その一陣の涼しさがこの熱を心地よいものに変えた。
「リナちゃん、金魚すくいやろう」
「うん」
生け簀を取り囲むぽっかりと空いた空間の底地に、マホとリナはちょこんとしゃがんで金魚を見ていた。
「いーい、すくう前にね、お気に入りを一匹だけ選ぶの。そしたらね。その金魚に願いをかけて祈るの。他の金魚に浮気しちゃだめだよ」
「わかった。浮気しないよ。マホちゃん。でも何で祈るの?」
「ウフフ。それはあとでね」
ウインクしたマホの髪の毛が風鈴の響きを感じてる。
「いい風だね」
「うん」
リナは白地に鬼灯(ほおずき)柄の浴衣を栞に着せてもらって、緑色の帯を締めていた。金魚すくいは初めての経験である。
― 金魚に祈るなんて。やっぱりマホちゃんって何処か変わってるね。
足の指先にはエナメルの爪。下駄の色に合わせて朱色のマニキュアで化粧している。鼻緒の緑が浴衣の茎へと伸びて、幾つもの鬼灯に明かりを灯していた。
― 金魚すくいって言っても、マホちゃんのはこっちの救いなのかも?
何故だか、募金箱の代わりに金魚鉢を胸に抱えて、路上に立っているマホの姿が浮かんだ。
― 募金魚。ウフッフフ。案外、当たってるのかも。
「リナちゃん、どの金魚にするか決まった?同じ金魚だったら困るから、指さしてね。どれ?」
リナは黒い出目金が気にいっていた。
「じゃ、それに願いをかけていてね」
― 願いごと? どうしようかな?
笑い声に乗った人々のそぞろ歩きが、露店を気にしながらも穏やかな川のように流れている。その気配を背中で感じていたリナは、小猫のような眼差しで出目金を見ていた。
― 改めて考えることでもないよね。何時も思ってることでいいんだものね。
ぼーっとしていただけの頭の中が熱く膨らむのを覚えた時から、そこに時より言葉が走るようになって以来、リナはずーっと自分を探していたのだ。
「今わたしがやって見せるからね。よーく見ていてね」
リナにそう笑いかけると一際紅い和金に目をつけた。
マホは金魚すくいには自信があった。
「おじさん、いくら?」
「三百円だよ」
ゆらゆらと泳ぐ和金を睨むと一呼吸してゆっくりと目を閉じた。
― ひふみ様・・ リナちゃんとリナちゃんの家族、わたしの家族とわたしを取り巻く世界、みんなが身も心も健康で幸せに過ごせますように。
狙った和金の傍らに、捕獲した金魚を入れるための青い容器を滑らせていく。水面と平行に素速くポイを入れると、白い円の上をゆらゆらと紅い和金が泳いでいる。少しずつ水面へと追いつめられていく。ポイを腹にあてられ浮いた背鰭が光った。次の瞬間、もうその和金は捕獲容器の中にいた。何事もなかったかのように青い舟の真ん中で腰を振っている。確かに手本を見せると言っただけのことはある。
「ね、必ず水面と平行にポイを滑らせるのよ。すくい上げるとすぐに破けちゃうからね」
― マホちゃん、はりきってるな〜。
マホの浴衣は水の流れを表していた。肩から溢れた清流を浅黄色の帯で受け止めると、渦を巻きながら漆黒の下駄へと流れ落ちて行く。紅い鼻緒を指で挟んだマホの白い足がいっそう白く際立って見える。
生け簀は参道の中程にあった。風鈴とお面を商う露店に挟まれている。
色とりどりの風鈴は見ているだけでも涼しさを呼ぶ。流行りのヒーローたちをずらりと並べたキッチュなお面とは対照的に、気まぐれな風を何処か寂しげに受け止めている。
このぽっかりとした穴を埋めるかのように集まってきた子供連れに囲まれ、生け簀は人だかりになりかけていた。
「リナもやってみる」
畳一畳にも満たない生け簀では二人もしゃがみこめば満員なのだと、リナもマホもそう思っていた。子供たちはそんなことにはお構いなしに次から次へと生け簀の周りにしゃがみこんでくる。あっという間に身動きがとれなくなった。
―出目金ちゃん、いえ、出目金さま。誰もが自身の働きに気づいて、それをプレゼントしあえますように。そうなったらいいよねぇ。
ちらっと隣の男の子に目配せをして、リナは金魚に祈るなんて何か変だと思いながらも、祈ってみた。
二、三百はいるかも知れない金魚は暢気でのろまそうな奴ばかりである。殆どは紅い和金なのだが他の種類も幾らか混じっていた。その中にリナが選んだ真っ黒な出目金さまが腰を浮かして泳いでいる。ひょうきんに黒のタキシードを着て紳士を気取っているではないか。
― いくら初心者のリナちゃんでも楽勝だね。
名人のマホがそう思う間もなく
「えい」
― おいおいおい、嘘でしょう・・
「にっこり笑ってそんなポイの破れからこっちを覗かないでよね」
お姉さん風を吹かせていたマホはこの時のリナの仕草が可愛いくてたまらなかった。
「おじさん、全くだめでも、一匹はもらえるの?」
「いいよ」
「リナちゃん、わたしのがまだ使えるから、もう一回、挑戦しなよ。こうやって水面と平行だよ。滑らすように」
「わかった。じゃあ、マホちゃんのでもう一回やってみる」
― 出目金ちゃん、観念なさい。もう逃がさないんだから・・
「すいー、すいー、すいーしょっと。やったニャン」
リナは出目金をすくい上げたこの瞬間、マホが口元辺りで小さく拍手しながら笑っているのを見た。スローモーションで見てるようなその仕草は、リナの記憶の底の方にしまわれていた何かを刺激したのか?何故か妙に懐かしく思え、前に一度、見たことがあるような気がした。
― これってデジャブ? なのかな・・
面白さに目覚めたのか?リナがもう少しやりたそうに金魚を狙っているのを目の動きでマホは察した。
「もって帰るのは祈った黒い出目金ちゃんだけだけれど、ポイが駄目になるまでやってみたら。ここからは祈らないでね。リナちゃん。もっと気楽に肩の力を抜いてね」
「嬉しいな。じゃあ、この紅い金ちゃん、すくっちゃお。えい」
すくうたびにマホの方を見て笑いかけてくる。
「ウフフ、こつ、掴んじゃった」
五匹目でポイが駄目になると、最初の仕草と同じようにその破れ目から覗き込んで言った。
「マホちゃんみっけ」
風鈴の尾がいっせいに翻えった。
けたたましく響きわたり、見えない何かが通り過ぎたかのように、その声にわって入った。
― 祭りの夜にかくれんぼする人この指とまれ・・
マホには深い記憶の闇から誰かがそう囁いたような気がした。
「おじさん、金魚、袋に入れてくれる」
「もういいのかい」
「うん。後の子が待ってるから。黒いの一匹でいいの。ほかは生け簀に戻して」
「わたしのも、お願い」
袋に入った金魚を提灯にかざしながら立ち上がると、品定めをするように互いの金魚を見せ合って笑った。
「マホちゃん、何で金魚に祈るの?」
「祈った命が水の中で燃えてるの。ほらね。わたしのは紅く、リナちゃんのは黒い炎だね」
「不完全燃焼なの」
口を尖らせたリナの戯けた仕草に思わずマホは吹き出した。
― リナちゃん、やり足らなかったんだ。
「ねえ、魔法少女みたいにさー。闇の炎って言ったらかっこいい?・・かな?」
リナに押されて覗きこむような出目金の視線がマホの目の前にあった。
「魔法少女リナちゃんに召喚された魔界の出目金大王様。ちっちゃいね」
マホは人差し指で小さく出目金をついた。二人は笑いこけてしまった。
「金魚に祈ったのはね。これからひふみ様に会いに行くからなの。祈りの炎をかざしてね。そこまでリナちゃんと歩きたかったの。ほらこんなふうに」
マホの仕草に倣ってリナが金魚をかざしてみると、泳ぐ鰭が水の中で燃え上がる炎のように祭りの光を屈折させる。虹を生み、形は歪み、大きくなったり小さくなったり、境界ははっきりしたかと思うと曖昧になり、世界が七変化する揺らぎのように思えた。
「不思議、燃えてるように見える」
「わたしね、涙の中で燃えてる炎をリナちゃんに見せたかったの」
「涙の中で?」
「そうよ」
「何となくわかる気がする。祈ることって何処か涙に似てるものね」
「涙はね。祈りの体(からだ)なの」
「祈りの体?」
「心に寄りそった眼差しから生まれるの」
「だから純粋で、きらきらしてる」
「希望の光」
「マホちゃんのそういうとこが好き」
― ウフッ。マホちゃんの金魚は希望の光だったんだ。涙の中で燃えてるのって、何かいい。
リナは思った。マホのこういった感受性が杜の逸話を育んできたのだと。マホに惹かれる一番の理由もそこにあった。
「リナちゃん。金魚が歌う希望の歌ってどんな歌だと思う?」
― マホちゃんの金魚は歌うのか。
「何だろう?よくわかんないけど聞いてみたいね」
「もしかしたら聞けるかも知れないよ。ひふみ様のところで」
「マホちゃん。ひふみ様って?」
「香詩宮の池に鎮座している弁財天様のことだけど。だいぶ前にね、ひふみ様って名前を付けたの。リナちゃん、これにはちょっと不思議なお話があるの」
「聞きたい。教えて」
「わたしね。金魚を飼ってるの。知ってた?」
「知ってたよ。マホちゃんちにお泊まりした時ね。マホちゃんがお風呂に入ってる間、ずーっと見てたの。金魚」
「何か気づかなかった?」
「いっぱいいたね。ここですくったの?」
「わたしね。幼稚園の頃から金魚すくいやってるから、一つのポイでね。二十匹以上はすくえるの」
「すごいね」
「春、夏、秋って年に三回もやってれば、誰だってうまくなるんだけどね。小学二年生の春祭りにね。二十七匹すくって今ある水槽を買ってもらったの。それまでの金魚鉢じゃ入りきれなくなったから」
「何か気づかなかった?って聞かれればね。そりゃああの水槽、変だなって思ったよ。ガラスにいっぱい文字が書いてあったから」
「あれは大祓えの祝詞なの。最近、透明ラベルにプリントして貼ったのだけれど。大祓えの祝詞はね。気がれを払うためのものなの」
「金魚が汚れてるの?」
「そうじゃなくて。池が汚れてるのを見てね。弁財天様が弱ってるなって思ったから」
香詩宮の池には島があり弁財天が祀られていた。
赤子の頃から沙織に連れられ遊びに来ていた弁天島にも、小学生になるとマホは一人で行くようになった。
あれは弁天橋の上から蓮の花を見ていたよく晴れた日の午後だった。怪しげに霞んでいる蓮沼の奥の方から気だるそうな風が吹いてきた。
― 変な匂いがする。
マホは何か嫌な感じがした。
高度経済成長と引き換えに環境は悪化の一途をたどっていた。蓮沼に通じていた弁天の池も例外ではなかった。生活排水が流れ込んで悪臭を放つようになっていた。
生まれて初めて不安でいっぱいになったマホは、水が汚れてきていることをはっきりと意識したのである。
幼かったマホは子供らしい感受性で弁財天が病気になったのだと思った。何とか元気になってもらおうと子供なりに案じて、おかしなことを思いついたのだった。
「大祓えの祝詞ね。毎日金魚に祈って聞かせてるの。気がれを払うお薬にするためにね。この化身を弁財天様にのんでもらって元気になったら、また池がきれいになるかなって」
「気がれを払うお薬?」
「そう、金魚はその化身なの」
水の汚れに気づいてからというもの、マホは香を焚き、すくった金魚たちに、父から教えてもらった大祓えの祝詞を、毎日祈って聞かせてきたのである。
そんなある日、ご神木が枯れた。幹周が優に六mはあったろうか?酸性の雨で弱った幹に虫がついたのである。
― いつまでこの杜がもつのかしら?
少しずつ枯れていく杜を思うと、弁天の池に降る酸性の雨もみんなの涙のように思えてマホは悲しかった。
祈っているとその痛みが香の香りと共に身体の中に入ってきた。胸が苦しくて止めどなく涙が溢れた。全てがぼやける。するともはや目の前の金魚たちは形をとどめることができずに、水の中で燃えている火のようだと思った。
外は満開の桜を雨が散らしていた。
― 今から、弁財天様のところへ行こう。
ついにその時が来たのだと思った。祈り始めてから三年になろうとしていた。
マホは水槽から真っ赤な一匹の金魚を網ですくった。
― 弁財天様、どうぞ。気がれが祓われ健やかになられますように。
「初めて祈った金魚を放しに行った時にね。水面は一面の桜の花びらだったの。しっとりと淡くて何て白い涙の跡かしら。そう思うとね。とても静かな気持ちになっていったの。しゃがんだ眼差しからそっと触れてみたら、雪よりも暖かい。そこにね。祈りながらそっと放したの。とても小さな金魚だった。まるで幼い雫のようにぽちゃりと。真っ赤な希望の炎、祈りの雫。涙が止まらなかった。ずーっと泣いてたらね。急に風がひんやりと感じられて、身体の中を何かが通り過ぎたような気がしたの。気のせいかな。ひーって音が聞こえた気がして。空耳かしら?でもね。風が何かに吹き込んだ、そういう音じゃないの。んーうん、聞こえると言うよりはね。身体の中に音を置いていかれたような感じなの。何の音なのかまったく分からなかったけど、気持ちが澄んでいく。とても不思議な体験だったの。耳にのこるのじゃなくて身体にのこっちゃうの。何時までも気になって放れなかったけど、でもちっとも嫌じゃなかった。それからね。雨が降るたびに金魚を放しに行ったの。そしたらまたね。ふーって。あっ、あの時と同じ。身体の中に置いていかれた。ひんやりと身体の奥が痺れるようなこの感じ、何かしら?次の雨の時もね。みーって。あれ、まただ。これって数を数えてるのかな?
だとすると、次はよーのはず。そしてやっぱりそのとおりになったの。その次はいーってね。リナちゃん、ひふみって何処まで数えられる?」
指を折りながらゆっくりとリナは数えた。
「ひーふーみーよーいーむーなーやーこーと、までかな。マホちゃん、その後も知ってるの?」
「わたしもこのことがなければね。そこまでしか数えられなかったの。でも今はね。ひふみよいむなやこともちろらねしきるゆゐつわぬそをたはくめかうおゑにさりへてのますあせえほれけ。ひふみはね。リナちゃん。いろは歌と同じ、清音の並べ替えなの」
「よく覚えてるね」
「何しろ何年もかかって弁財天様から授かった言霊だからね」
マホがこの言霊を授かってから間もなく、蓮沼一帯は大規模な環境保全のためのどぶさらえが行われた。今では悪臭もなくなり、水質もだいぶ改善されてきている。
「それでひふみ様って名付けたのね」
「そう。杜で一番のなかよしなの。だからリナちゃんにも今日会わせたくて金魚に祈ったの」
「そうだったんだ。この出目金ちゃんは弁財天様に会うためのパスポートだったんだね」
二人は賑やかな参道を抜け、人だかりの神楽殿の東側にある朱の鳥居を潜って弁財天の島へと向かった。通称、弁天の池と呼ばれているこの池には、島へ渡るための朱の太鼓橋が架かっていた。ここまで来ると人気は少なくなったが、それでも祭りを取り巻いている気配が渦巻いて、何時もの杜とは違う人恋しさを漂わせていた。どことなく怪しげに香る夏の夜の空気が静かに流れていた。
島の中央には小さな祠があった。それを囲むように三方に桜の巨木。周囲は崩れないように石でしっかりと組まれていた。
水の中へと向かう石段が日の出の方向に伸びている。かつて神官たちはこれを降って禊ぎし、朝日を纏って神の御前に向かったのである。
この階段を隠してしまうほど池の水位は高く、縁にしゃがみこめば簡単に水面に触れることができた。街灯の明かりが池面に反射して桜の樹を映し出している。シルエットの闇は深く、そこに忘れ物を取りに行くには気が遠くなるような気がして、水の記憶に辿り着けそうもない。
― ひふみ様、おそばに参りました。今日はリナちゃんもいっしょです。
マホは祠の御前に歩みでると、金魚をかざして軽く会釈した。リナもこれに倣った。
― お賽銭の代わりに金魚なんて、すてき。
瞳を輝かせているリナに向かって
「金魚を何時もあそこに放すの」
そう言って指し示したのは禊ぎへの階段であった。
「マホちゃん、前から不思議だなって思ってたのだけれど、この階段、水の中へ沈み込んでるでしょう。何処へ通じてるの?」
「天架けの石段はね。池で禊ぎするために作られたと父から聞いてるけど、かなり古いものらしいの。池の水位も一定だし、祭祀のために池全体が上手く工夫されてるのね」
「天架けの石段っていうんだ」
「んーうん。それはわたしが名付けたの」
「どうしてその名前にしたの?マホちゃん」
― 名付けると言うことはどういうことなのかしら?
あらためてリナは考えてみた。
「神に祈る人たちはどんな思いでこの階段を作ったと思う?リナちゃん。その思いを感じてみて」
―
学校で習うように自然への虞と敬いなんて教科書みたいなことでは「天架ける」って言葉にはならないよね。
「どんな思いだったのかな?」
「それはね、ここにしゃがんで、池を覗き込んでみれば分かるよ」
「あっ、お月様、映ってるね。きれい」
「ね。リナちゃんも、桜の梢も、お月様も、星々も、みんな映ってるでしょう。思い描いてみて、そのずーっと先を」
「その先って?銀河が煌めく夜空のかなたってこと?」
「そう。幾つもの銀河団を越えてね。その遙かな最果てにこの世界が始まったところがあるの。この階段はそこへ行くためのものなの」
「それじゃあ宇宙が生まれたところに繋がってるってことなのね。この石段。それで天に架ける石段なのかー」
「そうなの。だから、リナちゃん。そこに向けて金魚を放すの」
「この世界を生んだのが神様だとしたら、そこには神様たちが住んでるのかな?ひふみ様もそこにいらっしゃるの?
マホちゃん」
「たぶんね。それにね。世界が始まったところって、この世界を全て呑み込んでいるわけだから、リナちゃんになるところも、私になるところも必ず含まれているの。水鏡を覗くのって、未だ何もなかった遙かかなたの漠然とした曖昧な世界にいる自分自身を感じることにもなるの」
「わかった。この階段のかなたには星々になるところに混ざってマホちゃんもリナもいるのね。こうやって見つめていると目と目が合うかしら?」
「ウフフ。もう合ってるよ。ほら」
― 水鏡に映ってるだけなのに合ったってことになっちゃうのかな?
マホちゃんの想像の世界ではきっとそうなんだろうな。
「出目金大王様にもよーく言って聞かせなくちゃね」
リナは出目金に顔を近づけ、飛び出している二つの目をまじまじと見つめ金魚目線になった。
―
出目金大王様。この階段を降っていけばね。世界が始まったところに行けるからね。そこでひふみ様に会ってリナの願いを届けてね。
リナには出目金が心なしか頷いたように思えた。
「でもマホちゃん。そこに行くのにね。光の速さで138億年ぐらいかかるのじゃなくって?学校で習ったよね」
「大丈夫なの。祈りの体は光よりもず〜っと早いから。今だってリナちゃんと行って来たじゃないの」
― 思い描ければ行ったってことになっちゃうんだ。マホちゃんの場合は。
「思いが届くかどうかだからね。意識をそこに向ければね。その時点でもうここにあった思いがそこに飛んでいったってことになるでしょう」
「そう? なんだ」
「だからね。意識のスピードは光よりも遙かに早いの」
「祈りの体となった金魚を意識の力で世界の始まりまで飛ばすってことなのかな?やっぱりマホちゃんの想像力ってすごいね」
「この世界が始まったところに向けてね。金魚を放すわよ。いーい、リナちゃん」
「うん」
天架けの石段の縁で、祈りを捧げる二人の前に、池の心底の闇が金魚を呑みこむだけにしてはあまりにも広い大口を開けている。
口を結んでいたピンクのビニール紐を緩め、袋を傾けるとマホが象徴的に言っていた涙が溢れだす。
燃えている祈りの雫はゆらゆらと闇を照らし、小さくなって天の底へと消えていった。