把手のボタンを押すとひとりでに傘は開いた。
紅い傘を透過した光が淡い影を創った。命を包み込んだその紅い影は、シールドのように雨を弾いて、リナの身体が濡れることはなかった。
― カプセルの中にいるみたい。
「マホちゃんとお揃いだね。ウフッ。嬉しい」
「行く?」
マホの目配せに促され二人は歩き始めた。
どのくらいさまよっただろうか。反射した光とあらゆるものを叩いた雨の飛沫を、杜の胸が響きごと静かに包み込んでいくような気がして、リナはあどけない足取りを止めた。
生い茂った葉が屋根となり大粒の雫がぽたぽたと落ちてくる。こういった薄暗い闇の中に、香りを放つような仕草で瞳を開くものがいる。
相似形になっているのだから共振したからといって何の不思議でもない。
初めて目が合ってしまったリナは、雨から抜け出してきたようなその気配に鳥肌が立った。
「何かいる」
「見えるの? リナちゃん」
「目が合っちゃった」
「怖がらないで・・大丈夫だから」
「マホちゃんも見えるの?」
「子供の頃からね。・・ひかないでね。リナちゃん」
「そ・そんなこといわれても・・?」
「怖がっちゃだめだよ。もっと心から感じてみて」
その定まった形を持たぬ姿が他の人には見えないことをマホは知っていたし、彼らが何かに影響を及ぼすほどの働きを持っていないことも分かっていた。
― ここでいいかな。
今までこの杜を独りさまよい、遊び相手を見つけては、名付けてきたことを、今日はリナとしようと心に決めていたマホだが、リナにも見えるということは予想外であった。
― リナちゃんも見える人だったなんて。
「名付けるためにね。思いついた音を、セ~ので一緒に言うよ。リナちゃん、い―い・・セ~の」
「あー」
「やー」
未だならざるものに向かって二人は声を揃えた。そしてかの者が頷く前に、確認するかのような仕草で「あ」「や」とお互いの顔を見合わせた。
「リナちゃんの方が少し早かったみたいだから名前は『あや』かな」
― お友だちになれないかしら?
かの者をじっと見据えて、ささやかな夢が叶えられますようにと、傘を回したリナは『あや』という名前を胸に包んでゆっくりと瞳を閉じた。
この時からマホとリナの間にだけで通じる小さな方言が生まれた。
始めから言葉があったわけではない。言葉は何時いかなることで生まれてきたのか?マホが展覧会を観て閃いたこれがその答えだった。
「リナちゃん、この鈴に『あ』を書いてね。隣にわたしが『や』を書くから。そしたら『あや』ちゃんをあの枝に吊るそう」
斜めにかけていた桃色のポシェットから鈴と油性ペンを取り出してリナに渡たした。
「分かった」
リナは傘を首で押さえると、赤いループがついた鈴を左手で摘まんで、油性ペンの黒いキャップを抜くと、金ぴかのお尻の半分に『あ』と書いた。
「これでいーい。マホちゃん」
同じような仕草で空いているところに『や』と書いたマホは油性ペンをポシェットに戻した。
鈴を吊るそうと限りなく透明に近い瞳を持つ者に近づいたマホが、そのあやふやな体に呑みこまれるように見えた。
「だめー」
思わずリナは叫んだ。
「大丈夫よ。リナちゃん。危害を与えるほどの働きを持っていないの。ほらね」
そう言ってマホは、定まることのない体の中で自由に傘を動かして見せる。
「大丈夫なの?」
「たまに左耳から身体に入られることがあるけどね」
「こんなに大きな者がどうやって身体に入るの?」
「渦を巻いてね。先端が細くなったところから耳が息を吸い込むように入ってくるの」
「入られた感じって、どんななの?」
「身体に入るとね。手を握ったぐらいの大きさで、丸い形をしてるの。高速で回転しながらあちこちを動き回って、尾骨あたりで一つになるって感じかな」
「一つになるって消えちゃうの?」
「感触はしばらく残ってるけどね」
「身体の中を動き回られるのって、気持ち悪くない?」
「んーうん、もっと不思議な感じかな」
「リナ怖がりだから」
「冷たくて痺れるような感じが残るけど・・子供のころから命を脅かすようなことは一度だってなかったもの・・だからね。リナちゃんも怖がらなくていいの」
「ここは神域だからかな?」
「きっと神様に守られてるのね。香詩宮の杜の中でなら心配するようなことは起こらないの」
「よそは危ないかもね?」
「たぶんね。街の人通りの少ない路地で目が合ったことがあったの。何故だか分からないけれど、無性にそっちの方へ行ってみたくなってね。自然と足が向かうの。そしたら突然横から車が飛び出してきたりして、ひやっとしたことが何度かあったの」
彼らの呪によって無意識に受け取ってしまう方位や時間、場所に関するものなどは、要注意であることをマホは経験から知った。そこで何度も事故に巻き込まれそうな危ない目にあっていたのだ。たいていそういう輩は色が黒ずんで見えた。
「怖いね」
「直接、危害を加えるような者はいないけれどね。無意識に呪を受け取ってるってことが怖いかな」
「呪って?」
「呪いのことだけどね。でも誤解しないで、リナちゃん。悪いことばかりじゃないの」
「いい呪いもあるってこと?」
「水面を見ていてキラキラ光るさざ波が信号になってね。呪にかかることがあるの。それまで落ち込んでいたのにね。沈んでいた気持ちが晴れてくるなんてこともあるのよ」
自然呪と思われたこの背後に、水面を揺らすために風を起こすものがいることをマホは知っていた。
「呪いって言うから嫌なイメージになっちゃうんだね。呪って言えばそれほどじゃないのにね」
「そうだね。ウㇷ」
マホはちょっと高めの枝にループを通して鈴を吊るすと、『あや』を喜ばそうとして、その鈴を鳴らしてみせた。
紅い傘ごとマホをのみ込んでいる淡い透明な体がゆったりとスウィングするのが分かった。
「あっ」
― 踊ってるのかな?
「マホちゃん。もう一回やってみて」
スウィングする『あや』の姿はマホの紅い傘から揺らゆらとオーラがでているようにも見える。
雨が枝を伝わりループへと流れ、鈴のお尻に溜まって雫が膨らみかけていた。
「リナちゃんも来て」
言われるままにリナが『あや』に入ると、貝を耳にあてた時のような潮騒の響きと共に、痺れるような寒気が走った。光にも密度差があって、それらが何故だかとてもせつなくて涙が溢れた。
―心が張り裂けてしまった後のような空気って、こんな感じなのかな?
「どうしたの? リナちゃん。泣いてるの?大丈夫?」
― あれー。どうしちゃったんだろう。涙が止まらなくなっちゃった。
「何だか胸がどきどきしてきちゃったの」
― マホちゃんはしてないのかな?
「リナちゃん緊張しすぎ」
「だって初めてだから」
「初めて? 何時もは見えてないの?」
「うん。気配は感じてたけど、リナ始めて見えたの」
リナの涙が感動由来のものであることが分かったのだが、物心ついた時から見えていたマホには、始めて見えた時の感じがどんなであったのか?思い出せなかった。
蒸し暑い香詩宮の夏を過ごすマホにとって、この痺れと寒気は何時も爽やかなここちよいものだった。
「リナちゃん、冷んやりとして気持ちよくない?」
「でも、とってもせつないの」
マホはリナを見つめてそっと手を繋いだ。優しいぬくもりがリナを落ち着かせていった。
― アッ。たぶん、あの時からだ。
リナは急に見えるようになった心あたりに気づいた。マホの胸に身体を埋めた時、マホの霊体がリナの身体に入ってきたあの夜のことを思い出した。
― そうか、マホちゃんの能力を貰ったみたい。
あの夜から自分の何処かがマホ化したのだとリナは思った。
「マホちゃん、ありがとう」
リナに笑顔が戻ってきた。
― ウフッ、もういいかな。
待っていたマホは繋いでいたリナの手を離して、ポシェットから小瓶を取り出した。
「リナちゃん。これを使って」
「あ~ん。可愛い。なにこれ?」
「香水を入れるものなの」
「小っちゃいね」
「『あや』ちゃんを戴いて帰るからね」
「この中に入れて?」
「そう、持ち帰るの」
金色の鈴に記された『あや』のお尻で成長する透明な雫を、手を伸ばした小瓶の中に一雫、また一雫とリナは落として、そこにある光を感じようとした。いっぱいになると軽く振って嬉しそうに蓋を閉めた。
マホの方にそれをかざして笑いかけてくる。
「ありがとう。マホちゃん」
リナはガーゼのようなハンカチで水分を拭き取った後、それに包んで、レモン色のワンピースのポケットにしまった。
「リナちゃん、ちょっと待っててね。わたしも『あや』ちゃん、戴くからね。」
『あや』から溢れだした気の流れが雨に融けて蜜のように鈴に集まってくる。
「くださいな」
マホはありったけの笑顔で『あや』の透明な瞳に向かって小瓶をかざした。
雨は止むことはなかった。鳥のさえずりが誰かを呼ぶように聞こえてくる。
時々鈴を鳴らしては三人でスウィングして過ごした。
二つの紅い傘が、『あや』の体に融けて蜃気楼のように揺らいでいた。
その夜、『あや』とラベルしてある小瓶がリナの机の上に置かれていた。
― この雫にどんな働きがあるのかしら?
リナは『あや』のことが気になってなかなか眠つけなかった。
― 雨の声が未だならざるものを求めて呼び合っているのかしら?
寝返りを打ちながらリナはマホのことを思った。身体には痺れと寒気が残っていた。
― マホちゃんは何で持ち帰ろうと思ったのかしら?
鈴にペン、小瓶にラベル。全ては用意周到に準備されていた。
翌日はよく晴れた。
リナは『あや』の許に向かった。
鈴は残っていたものの『あや』の姿は何処にもなかった。
リナが指先で鈴を鳴らすと
「ひた」
楠の葉の天の方にあった雫がリナの首筋に落ちた。反射的に空を見上げてリナは笑った。