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 2013年当時、春山さんはうつ病に苦しんでいました。「目の前の湯呑を右から左に動かすのも嫌なんだ」あんなにも整頓されていた彼の部屋は、本や衣類が散乱し足の踏み場もなくなってしまいました。何もしてあげられない無力感にさいなまれながらも、その生涯をかけて表現を模索してきた先輩の役に何とかして立ちたかったのです。何度も訪ね「対局」に誘いました。

 「この物語を一母音にするとしたらどんな色の母音になると思います?」そういって「香詩宮の杜 紅い傘の救世主 一」の原稿を春山さんに読んでいただきました。丁寧に目を通した後、おもむろに春山さんは言いました。「黄色のあ音だね」そこで私は、春山さんの箴言の中から「生命は神秘、生体は罪業」について「緑色のい音に変換します」と返礼しました。こんな風に「対局」は始まるのです。

 彩色は光を、母音は響きを表しています。同じ母音のある側面は光であり、また別の側面は響きであるといった光と響きを併せ持つ象徴的な形に変換したということです。こうすることで音の再変換と言葉としての再統一の可能性を模索するのです。

 それまで意味やイメージを発生させていた文章を、強引に彩色した一母音に変換するためには、直感を働かせる意外に手立てがありません。答えを導きだしたからといって、それが正しいとも間違っているともいえないのです。「何故その色の母音にしたのですか?」と尋ねられても「ただ何となく」としか答えようがありません。ですが、私たちには自然に圧倒されるたびに喚声を発してきた音の記憶がその感動と共に心の中に潜在化されています。春山さんもこの潜在化された働きを使ったのだと思います。直感を働かせることで感動の一音を呼び出すことが誰にでもできるのです

 春山さんに四つの箴言を書にするように頼みました。彼が用意したのは「究極根源を見詰める」「生命は神秘 生態は罪業」「死は至福」「座して死を待つ」でした。これを展示し、友人たちに彩色した一母音に変換してもらうのです。栃木美保さん、菅沼きく枝さん、山田稔さん、佐竹阿爾さん、加藤直子さん、安藤順健さん、川島健二さん、長 重之さんの八人にお願いしました。

 オセロゲームの石は白と黒の面で出来ています。先手のタカユキオバナは黒が表面、白が裏面となります。後手の春山さんは反対に白が表面、黒が裏面です。

 春山さんの箴言「究極根源を見詰める」を栃木美保さんが水色のUに変換しました。そこで、う段のいずれか一音をタカユキオバナは黒面に、春山さんは白面に記しました。石の裏面には、任意の音を記します。ゲームが始められるように石を配置しました。次に「座して死を待つ」を菅沼きく枝さんがピンク色のOに変換しました。そこで、お段のいずれか一音をタカユキオバナは黒面に、春山さんは白面に記しました。石の裏面には、任意の音を記します。ゲームが始められるように石を配置し、「対局」が開始されたのです。

対局

対局

対局

対局

 一手打つたびに相手の音が自分の音に組み込まれ、聞きなれない言葉に変わります。反転された世界にも同じことが同時に起こっています。手が進むに連れ、石の表と裏が何度も入れ替わります。表の界の音になったかと思うと、次の一手で裏の界に組み込まれたりするのです。縦、横、斜め、どこからでも読むことができる詩のような世界が生まれては、すぐさま別の読みに様変わりしました。音が輪廻するたびに世界もまた生まれ変わるのです。同じ音がそのたびに微妙に働きを変えました。音の多義性は世界を内包してきた証です。表に現れた世界の裏側にもう一つの世界が横たわっているという実感を一つひとつの音が体験していきました。この音たちは世界を創るときに個の働きが欠くことができない如何に尊いものなのかを示唆しています。

対局

 「対局」は勝負事なのに勝ち負けがありません。顕れた世界とその背後に潜むもう一つの世界を行きつ戻りつしながら、相手の言葉が自身の言葉に組変わり、イメージと意味が刻々と変化してゆきます。

 たった一音によって変換と再統一が繰り返し躍動するこの様子は、言葉や世界の成り立ちにおいて、個がいかに重要な働きを持っているのかを気づかせ、命に優劣をつけてしまうような格差社会ではない別の在り方を指し示しているのではないでしょうか。音と音の絆が言葉を生む様子は、私たち一人ひとりが尊く扱われるように、みんなで築く社会の在り方に、より一層の工夫を投げかけてくるのです。

 各界を代表する人たち、例えば、ノーベル賞を取るような、金メダルを取るような、そういう人たちに匹敵する別の働きが誰の中にも備わっているのに、気づけないのは、ひとえに感受性の貧しさにあるのです。物差しが大雑把すぎて目立った働きしか捉えられないからです。

 私が生まれた頃、水俣ではお身体の不自由な人たちが生まれていました。ご自身では食べることも衣類を着ることもできません。何の働きもないと思われるかも知れませんが、私はそうは思いません。六十数年を過ぎた今、チッソは有害な物質を排出することを極力抑えるようになり、多くの企業が環境に配慮するようになっています。また彼らを介護する福祉施設も当時とは比べようもないくらい充実してきています。これはあるがままの命そのものの働きを隣接した人たちが受けとめた証でしょう。この世に生まれたものは、それがどのようなものであっても、必ず何らかの働きを持って存在しているのではないでしょうか。

 音が言葉に変わろうとするとき、私たちに投げかけてくる世界観を「対局 言葉の予感」で感じていただけたでしょうか。

 

 

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