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長尾喜和子様

 お元気ですか。お電話を戴いたタカユキオバナです。

 私が模索している表現についてご興味を持って戴いたこと嬉しく思いました。

 お電話のお話から推測すると、たぶん、喜和子様のお手元にあるのは2013年のアート体験「ことのは」のDMだと思います。

 アート体験「ことのは」は言葉が生まれる水際を体験するために佐野市の三床山山麓で開催されました。

三床山写真01アート体験「ことのは」

 

 始めから言葉があったわけではありません。言葉は何時いかなることで生まれてきたのでしょう。実際に言葉を創る体験を通してその秘密に迫りたかったのです。

 それは巷に溢れている光や響き、気の流れを肌で感じることによって、未だならざるものに名を与える行為と言っても差し支えありません。ささやかな夢が叶えられますようにと、その名を胸に包んで瞳をとじれば心との絆が生まれます。言葉の働きを響き合う音の広がりの中に感じることができるのです。

 三床山の地形は樹木との調和がすばらしく、こういうことを体感するにはとてもよい空間だと思いました。

三床山写真03アート体験「ことのは」

 

 音の触手が未だならざるものを求めて呼び合っています。耳を澄ましインスピレーションを働かせながら森の中の音を感じて歩きます。光や響きに、風の匂いや草花の香りに音を尋ねます。

 森に満ちているこうした気を象徴的な四十八音の氷の球体として空間に配置しました。こうすることで溶けだした水を音として採取できる状態にしたのです。

三床山写真04アート体験「ことのは」

 森をさまよい、そこに満ち溢れていた光や響きが溶けている音を、あちこちからスポイトで汲み、小瓶に一雫、また一雫と落として言葉を創りました。

三床山写真02アート体験「ことのは」

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 DM写真の背景の山が三床山なのですが、この写真の中央に記されている「くうひりつすんるあむかにゆともふまけわねなのろてはせへれえよしみめさいほをこおらちぬそたやき」この響きの連帯は、館林市から町田市までのおよそ百キロを超える距離を歩いて創りました。気になるところに音を結び、私たちの使い方なら言葉に向かうはずの音を鈴に記し、自然の中に配置したのです。音がお日様の光に輝き、風にそよぎ、雨にうたれます。四十六ヶ所の音を背骨として精霊が息づきます。そのオーロラのような気の流れがはっきりと意識できるのです。

アート体験「ことのは」

 

 一連の行為を音の円環として結び、その場所を記した地図と共に、篠原誠司さんが主宰していた百葉箱のギャラリーの中に展示しました。「わそよみひ」Gallery ART SPACE(町田市)二〇〇六年八月一日から九月二十七日。

 この記録は、篠原誠司さんが企画した「いのちの法則」展に出品しました。足利市立美術館(足利市)二〇〇八年六月七日から七月十三日。

 音の使い方は言葉だけではありません。大いなる意識とふれあい、霊性の絆として生まれた音の働きには、どんなものとも響きあえる無限の可能性が秘められているのです。界を開くもよし、神仏精霊を召喚するもよし、死者を弔うもよし、音には私たちが知っている言葉以外の使い方があったのです。それは真言や呪文によって模索されていたことでもお分かりになるでしょう。ですが、現在、一般的に使われていないことから考えると、肝心の使い方を修得できたのは、今私たちが使っているこの言葉だけだったのだと思います。

 言葉が働きだすとその構成要素である音の霊性を意識することは、しだいに薄れていくのかも知れません。自意識が心の中心におかれ、神仏を見失ってしまうのでしょう。音が持っていた本来の働きを使うことなく、霊性の絆を忘れてしまうのはとても残念なことです。今に至っては、もはや一音によせる関心など殆んど失われてしまいました。

 未だ私たちが言葉を持たなかった頃、感動のあまり胸を割っていでた声が、捉えた世界をたった一音にしてしまったことから、音が世界を内包し、抑えきれぬ感動を響き返す心の化身であることを知りました。この感動の一音こそ、発声した瞬間の心そのものに他ならなかったのです。

 言葉はその感動と感動の連続体、心の絆なのです。

 心の絆とは何でしょうか。私ならこんな風に答えます。

 指先に刺さった小さな棘の痛みを身体全体が癒そうと働きます。たった一つの細胞が傷ついただけなのですが、その一つの細胞の働きが如何に尊いのかを全ての細胞が知っているのです。だからどんな辺境で発せられた痛みもすぐに我がものとして捉え癒そうとするのです。絆とはそういうことではないでしょうか。みんなで作っている社会なのですから、私たちもそうあるのが自然なのにあまりにも自意識の欲望に傾きすぎてしまいました。

 

 

 

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