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言水へリオさんの印に言葉の一音を最小限の形で表そうとしたものがあります。集中しなければ決して作れない小ささゆえに念が籠っているのが分かります。空間が最少で思いが無限大というのであればアインシュタインさんなら特異点を連想するのかも知れません。この重力の内に現れる光こそ言葉なのではないのか?印がそう言っているように思われてなりません。

言水へリオさんが現した印は、まるでそこに小さな光があるような輝きを抱かせるのです。宝石を手に入れた時のような嬉しさが、その押された印の指先から明るく広がっていくのは何故でしょうか。

そういえば、水上旬さんから印について教えて戴いたことがありました。

「印が木や石に彫られるからといって、それに向かっているわけではない。光の柱をイメージし、その光に向かって正字になるように鑿(のみ)を入れる。すると光が影となって姿を現す。印はその跡を留める行為、印によって生まれる文字は、光の姿、光の跡なのだ」

 言い回しは少し違っていたかも知れませんが、こんな内容だったと思います。

「その光に向かって正字になるように鑿(のみ)を入れる」印が正字になるのは、私たちの世界ですから、水上旬さんにとってこの世界は、光の柱としてイメージされていたのでしょう。そこと関わることで生まれた私たちの言葉こそ、光の姿、光の跡なのだと言いたかったのではないでしょうか。

こんな思いに包まれると言葉が光として物質化することを考えざるをえなくなってしまいます。とはいっても私たちの意識では、たった一滴の水ですら物質化することができません。もしそんな働きが私たちに備わったとしたら、食べる必要はなくなりますし、身体を変えることもできるでしょう。何よりも永遠の命を持ってしまいます。物質化とは世界を創造した根源的な働きなのですから、新陳代謝の物質を生むことなど他愛もないことなのです。

表現を意識の物質化と位置づけた場合、視覚表現は、私たちが物質化できないことから、仕方なく外にある物を使って表そうとします。具体的にいえば絵具や粘土などを使うわけです。

既にある物の属性に頼るこの方法では、何もないところから精神性の伴う物質を生み出すという意識の物質化の本質に迫ることができません。物質化は無理だとしても、それに近い働きを感じたいのなら、物の属性に頼らない表現を考えなければならないのです。

身体表現がそれにあたるかと思いますが、直接身体を動かすダンスやパフォーマンスなどは、意識が物質化するという視点から考えると、意に即しているとは思えません。歌や話し言葉ならば、心の内から外へと音を発声しているわけですから、意識の物質化に近いといってもいいのではないでしょうか。

歌や話し言葉は連続する音で成り立っています。このことから物の属性に頼らない表現の根源は音が生まれる水際にあると思われます。

驚きのあまり思わず発声してしまった響きから音が生まれてきたのではないでしょうか。音はその瞬間の心の化身なのでしょう。意識を物質化しているのは心の働きなのではないかと考えているのです。

では心に時空はあるのでしょうか。例えば、命は身体だけを指すわけではありません。命から物理的な身体を除いたら何が残るのでしょう。

私たちの身体は三ヶ月位で新陳代謝するといわれています。物質が手を繋いだり離したり、身体をひとつにするときに働く何かの力、この働きによって物質たちには、心を通わせたという確かな記憶が遺るのかも知れません。意識できないけれど新陳代謝を司る何かが働いているのは間違いありません。この何かが、一体化した分子の内に潜む他者の命、たぶん気のようなものを吸って自身のエネルギー源にしているのではないかと思っているのですが、この無意識界の出来事を司る何かに時空があるとは思えません。働きだけがあるのではないでしょうか。

命から時空をひいても残っているものは、おそらく心、自意識、そして無意識界の出来事を司る何か、思いつくのはこれくらいです。

物質化を問うことは、時空がなく働きだけがある世界を意識することに繋がっていくのですね。

歌や話し言葉も体を持っているわけではありません。働きだけの世界に属するのです。このことは未だ時空のない物質化以前の世界でも歌や話し言葉のようなものが存在している可能性を示唆します。いやむしろその程度のことではなく言葉の叡智にあふれていたと考えた方がいいのかも知れません。

世界を見渡すことができる辺境の何処かに時空が生まれた処があるはずです。

この世界が心のような働きによってもたらされたのだとしたら、物質化に向かう意味をどんな風に考えたらいいのでしょう。

私たちの世界は分化が進行し、多様性に満ちています。これらを内包していた時空のない世界は、意識と物質が融合した混沌としたものだったと推測します。意識が霊感として働き、感受性が臨界を超え易い状況にあったのかも知れません。その働きが向かった先が多様性に満ちた現実の世界です。この方向性から考えると僅かな違いも見逃したくないという視点に立っていることが分かります。無限分の一を尊く思う眼差しに貫かれているのです。私たちが目撃する多様性は、おそらく時空のない混沌とした世界が理想的な調和を求めていたことの証なのでしょう。あらゆるものとの絆を夢みていたのではないでしょうか。

感受性が臨界を超え、気づいたら声を上げていた。いや、叫んでいたといった方がよいのでしょう。そんな衝撃的な感動を与えてくれた私たちを取り巻く世界の内に棲むものたちも、私たちのような声を持たなかっただけで、同じように感動の音を発していたのではないでしょうか。それが私たちに聞き取れる音であるかどうかは別として、この世界が始まったその時から、全ては驚くほど新鮮で、感動するものたちの響きで満ち溢れているのだとしたら、存在の内には音を生み出す心があるのでしょう。それは私たちのような心ではないかも知れません。だが、何かを捉え驚きを内包し響き返す働きに満ちていたと思われます。つまり響きに包まれているということは、あらゆるものから発せられた心に醸されているということに他ならないのです。この揺り籠の中で心を通わすために音を編むことに気づいたのが私たちの祖先だったのではないのでしょうか。

 

 

言水へリオさんの印

言水へリオさんの印「イヌ」

 

 

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