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歴史

 

圓福殿辧財天の歴史

 

ここでは、当店の目印であり浅草橋シティハイツの入口にある、

小さな祠『圓福殿弁財天(弁天様)』について掲載します。

なお、下記は人づてに語られてきた内容のため、信ぴょう性、正確性は保証できません。

 

圓福殿辧財天 戦前、町には小さな池とお不動様があった。
弁天堂はそのお不動様の脇にあり、弁天様の縁日が行われていた。
ところが、弁天堂は空襲で燃えてなくなってしまった。

 戦後、古老がどこからか弁天様を運んできた。
テントで簡易的に弁天様を祀り、縁日も復活した。
しかし、今度は道路交通法により弁天様の行き場がなくなってしまった。

 弁天様が先にあり、そのことが由来となって当店の名が弁天湯になったのか、弁天湯が既にあり、水に関係のある弁天様を引き取ったかは定かではないが、弁天湯店主(二代目)は銭湯の入口に設置場を設け、行き場のない弁天様を祀った。この頃、縁日は月に3回行われていた。

 昭和後期には、縁日が(すた)れてきたため、町の人々で弁天講(*)を作り、当番で弁天様の面倒をみることとなった。お盆の7月15日には年に一度のお祭りが開かれた。
お祭りでは、婦人警官による交通安全指導、花火の取り扱いについての紙芝居や手品などが行われた。
お土産には金魚、モナカアイス、お菓子などが子供たちに配られた。

 現在は弁天講も(すた)れ、7月15日にお坊さんがお経を上げるだけとなっている。圓福殿辧財天

(*)弁天講
   宮元
   三丁目
   新福
   西浅
   福栄会 の寄付によって行われていた。