萱島寛(かやしま・ひろし)プロフィール

1953年(昭和28)萱島フサ子の次男として下関市で出生。

1978年(昭和53)朝日新聞社に入社。熊本、筑豊の支局や社会部、福岡本部の企画部長

2013年(平成25)4月に定年退職。現在は嘱託社員として西部本社(北九州市)に勤務。

    定年の際、「母の意志を継いでいこう」と萱島きもの研究会の会長に就任した。

      
      

平成26年5月2日 赤間神宮神殿参拝

「勤務先のデザイナーに描いてもらった似顔絵。右は妻の智子」

朝日新聞11月24日付け朝刊 暮らし面「ひととき」

出番来た着物

 「海外に出てからの方が、それまでの人生より長いのでは」。人にそう言われると、感慨深い。

 古武道の修行をするドイツ人の夫は、息子と一緒に毎週末、道着と袴(はかま)を着用する。
稽古の後、風に当て正座しきちんと畳む。風呂敷にきっちり包む。その所作をとても懐かしく感じる。
夫も息子も手慣れた様子で袴をつけるが、日本人の私ひとりが着られない。
 この秋の里帰りで、思い切って30年ぶりに着付けを習った。祖母の愛用した紬(つむぎ)、母の若い頃の振り袖、
私のためにあつらえてくれたのに一度も袖を通さずにお蔵入りになった訪問着。このままではただの古着となり、
私の後は誰にも顧みられないだろうと思うと切なさが募ったからだ。
 心に決めた通り、帰宅以来毎日着る。静かに折り目正しく畳紙(たとうがみ)の中で待っていた着物たち。
帯締めをきゅっと締めるところまで、丁寧に着る。大事なおなかや腰を保温し、姿勢を正すという利点に気付くだけでなく、
優れた収納性にも感心する。立ち居振る舞いまで変わってくる。
 まだ着物で家事をこなすまでには至らないが、次代に日本のよき物と心を伝えていきたい。

 (ドイツ・ミュンヘン 榊原ブラウン敦子 主婦 56歳)


  

 「着流し」                 萱島寛

 もう50年近く前、中学生だった頃、ヤクザ映画に夢中になりました。仁義だとか任侠だとかは二の次で、主演男優、特に高倉健さんの着流し姿が子ども心にとても格好良く見えました。
  理不尽な仕打ちに我慢に我慢を重ね、最後に「死んでもらいます」とだけ言って敵を討つ「着流しの健さん」。そんな日本の風情、人情を切り取ったような映像美を大型スクリーンで見て、映画館を出る際の自分自身の動作がすっかり健さんになりきっていたのを、今でもとても懐かしく、夢でみることすらあります。
 「着流し」を広辞苑で引くと、「袴や羽織を着けない男性の略装」とあります。同じ健さんでも、暴れん坊将軍の松平健さんは羽織、袴姿でないと絵にならないし、高倉健さんの羽織、袴姿は想像するだけ無駄です。
   さらに、「緋牡丹のお竜」こと藤純子さん(現・富司純子)。女性だから着流しとはいきませんが、着物の裾が少しだけ開(はだ)けての立ち回りに、子どもながら物凄い色気を感じました。1972年(昭和47年)、NHKの大河ドラマ「源義経」で共演した歌舞伎俳優の四代目尾上菊之助(現・七代目尾上菊五郎)と結婚。その時、小生は大学受験の浪人生。自分の将来像が全く描けず、成績不振で自暴自棄になりかけていた中で、お竜さんの最後の出演作「関東緋桜一家」は映画館に二回足を運びました。
 また、共演女優にすぐに手を出していた梅宮辰男、山城新伍らが藤純子さんと共演してもナンパできず、後に「東映の女優で手を出せないのは彼女だけだった」と語っていたのを聞いて、「そりゃそうだ」と大いに納得しました。
 着物に関してはこんな思い出しかありませんが、60歳の還暦を過ぎた今、かつての健さんのような着流しスタイルに思いを馳せ、自分流のお洒落を楽しめたらいいなと思っています。
 最後にもう一言。若い時は不良娘といったイメージが強かった女優の風吹ジュンさん。私より1歳上の昭和27年生まれ。最近は和服がとても似合い、上品な雰囲気を醸し出しています。「和服は着る人の身も心も落ち着かせる」。今では富司純子さんと並んで最も気になる女優さんです。


「寸胴」                 

 寸胴と書いて「ずんどう」と読みます。広辞苑には「腹から腰にかけて同じように太くて、ぶかっこうなこと」と記してあります。  しかし、この格好悪い体形が和服を着る際には、格好良い着こなしへの絶対条件だということを肌身で痛感しました。
   ◇  5月2日の金曜日、赤間神宮で「安徳帝正装参拝」を行いました。母のフサ子(85)が12年前に始め、今では年間を通じて萱島きもの研究会の最大のメーン行事となっています。  昨春、母の後継者となった小生は、今回初めて参拝の先導役を務め、「天橋」を渡りました。楽屋で妻に羽織袴を着せてもらう時、肩や腹にタオルなどを巻きました。身長173a、胸囲と腹回りは90a〜1b。典型的な中年太りの寸胴ですが、それでも「恰幅良く見せるため」にタオルを巻いたという次第です。  着付けの最中はやや違和感があったものの、最後に袴の帯をギューと力一杯締めてもらうと、猫背の背筋がピンと伸びました。「寸胴の俺でも、さらに寸胴にすればいいのか」と妙に納得しました。
   ◇  この4月から始まったNHK朝の連続小説「花子とアン」。英米児童文学の翻訳を手掛けた村岡花子の半生を描いたドラマです。主人公の花子が通う女学校の、厳しいブラックバーン校長を演じているニュージーランド出身の女優さんの演技が際だっています。新聞記事によると、彼女は自分自身が役柄のイメージよりスリムなため、洋服の下にタオルを巻くなどして、衣裳でふくよかに見せているそうです。世間には男も女も「痩せたい」という願望が渦巻いていますが、和服、洋服を問わず、「恰幅良く着こなして貫禄を見せる」ことは同じだなと感じ入ってしまいました。
   ◇  個人的な体験ですが、ある中年女性とお酒を飲んだ時、「あなたは寸胴だから着物が似合いますよ」と言いました。小生は褒め言葉のつもりだったのですが、女性の機嫌がみるみる悪くなったので、さっと話題を変えました。1時間後、別れ際の最後に彼女が言いました。「どうせ私は寸胴ですから」。その後、一人で立ち飲み屋に行き、寂しく飲み直しました。



 

「女着物一代」を引き継ぐ              

「襟を正す」「折り目正しく」「袖振り合うも多生の縁」「袖の下」「袖を濡らす」「裾を掻く」「袂を分かつ」「帯に短し、襷に長し」 ネットで検索すると、「着物から生まれた言葉」がずらりと出てきます。日常の生活に根ざした着物にまつわる諺が大好きです。
   昨春、還暦を迎えました。子供の頃、母や近所のおばちゃんたちが、お正月や冠婚葬祭の時に、たん笥の中からワイワイ言いながら和服を出して着ていたのを、幼心ながらはっきりと覚えています。
19歳で東京の大学に進学。その辺りから、実家では母の着物・着付け稼業が本格化したようです。夏休みなどに帰省すると、着物姿の女性が頻繁に出入りしていました。母が「先生、先生」と呼ばれていることに、びっくりするというか、かなりの違和感を覚えました。「マナーも教えている」と聞いた時は腰が抜けそうになりました。 そんな母もすでに85歳。若い時は社宅の4軒棟割り長屋に住む井戸端会議の司令官のようなおばさんでしたが、35歳で始めた着付けで「女着物一代」の人生を切り拓いてきたと思います。
   還暦の誕生日に勤務先の新聞社を定年退職。翌日、シニアスタッフとして再雇用され、引き続き同じ職場で働いています。時間的に余裕がでてきたので、健康があまり思わしくない母に代わって、着付けのお弟子さんたちのお世話をさせて頂くことなりました。
 以来、家でもなるべく和服を着るようにしています。でも、マンションでは袖がドアのノブに引っ掛かり、クローゼットにはきちんと収納できません。  しかし、着物に関する諺の含蓄に「日本人の大衆伝統文化」の一端を強く感じます。矛盾する、筋道がよくないといった時に使う「つじつまが合わない」も、もとは裁縫用語で、ツジは縫い目が十文字に合うところを指し、ツマは着物の「褄」からきていることも初めて知りました。
    会社勤務の時は九州や東京を14回ほど転勤しました。今、博多の自宅から頻繁に下関市の実家に行くようになり、まさに「故郷に錦を飾る」といった気分です。
お弟子さんたちの活動を支援する十分な資金があるわけでもなく、「無い袖は振れません」が、これからも「胸襟を開いて」一人ひとりのお弟子さんと向き合いたいと考えています。

   
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