2008年クラシックギター部創設40周年記念懇親会にご出席くださった
初代部長大村さんにお願いして、2009年に書いていただいたギター部の生い立ちです。

昨年(2008年)11月のギタークラブ40周年の会は、久し振りに会った懐かしい仲間やクラブをさらに発展させてくれた後輩の皆さんとの出会い、久し振りに訪れた六甲台のキャンパスといろいろな意味で楽しく、心弾む会でした。

会を企画・運営してくれた皆さんにあらためて御礼申し上げます。

 そんな楽しさの余韻も覚めやらぬ時、植田さんからメールをいただきました。ギタークラブ創立時の話をホームページに載せたいとの依頼です。生来なまけもので筆不精の私はウーンとうなったまま何ヶ月かほったらかしにしていたのですが、ちょうど節目の還暦も過ぎたところだし、ボケ防止も兼ねて棚卸しという意味での“回想録”(?)にチャレンジしてみてもいいか、と無理矢理自分を奮い立たせてみました。

 過日の40周年の会は第一回定期演奏会からの40年ということですが、クラブ設立の届け出をしたという意味での創部は1966年の秋です。当時はギターの弾き語りやグループサウンズの絶頂期でした。加山雄三の若大将シリーズで一番ヒットした“君といつまでも”やマイク真木の“バラが咲いた”等、高度成長期の象徴のような歌とともに、当時抜き差しならない状況に陥っていたベトナム戦争に対するジョーン・バエズの反戦歌などが流行っていた時代です。もう一つ忘れられないのがビートルズの初来日で、私と同じ法学部に入ってすぐに親しくなった友人が「とうとうコンサートのチケットを手に入れた」と狂喜して、開通後間もない新幹線で勇んで上京していった姿が目に浮かびます。武道館でのコンサートは熱狂的なファンの大騒ぎで歌がとぎれとぎれにしか聞こえなかったとか・・・。

そんな時代に田舎を出て神大生となった私は、ようやく“家族という桎梏”から逃れてこれからは自由に何でもできる、と意気盛んでした。クラブの勧誘も多く、応援団からグリークラブ、ESS等いろいろありましたが、高校時代に少しかじっていたギターを弾きたくてマンドリンクラブに入部しました。思っていた以上の大所帯で合奏も迫力満点、かなりハイレベルだったと思います。先輩達も皆明るくて親切ないい人ばかりでした。ただ何となく物足らなさがつきまとい違和感を覚えていました。その物足らなさの正体がわかったのが夏の合宿で、雑魚寝の布団の上でレスリングや枕投げに興じている先輩達を見た時です。これには伏線があります。大学に入ったら何にでも首を突っ込んでみよう(小田実のベストセラー“何でも見てやろう”の影響大)と思っていた私は自治会の仕事の小間使いのようなことをしていたのですが、そこで接点のできた諸先輩は、筋金入りのマルキストや金がないので毎日チキンラーメンをすすりながら反戦活動をしている人、国家論を喋ったらいつまでも止まらない人等々の個性派集団で、この人達は本当に自分と2〜3歳しか違わないのか、と羨ましさと戸惑いを感じていました。それに比べてマンドリンクラブの先輩達の圧倒的な無邪気さ、屈託のなさは何なのか!

自治会の猛者連もマンドリンクラブの先輩達も“人それぞれの生き方”をしているというだけのことなのですが、人生経験もなく田舎出で、何かしなければと気負いばかり先走っている18歳は割り切れない思いで一杯になってしまったのでしょう。        

夏休みのあけた9月にはマンドリンクラブを退部して、同じくギターが好きで自治会の手伝いをしていた同級生(結局彼はクラブには加わりませんでした)とギタークラブを立ち上げてもっと面白い組織運営をしようということになり、早速“部員大募集”の立看板をつくって活動を始めました。応募状況はほとんど記憶にありませんが、18回生が募集したので上級生は1名のみ、あとは1年生の男性ばかり7〜8名だったと思います。その応募者の一人が萩原正五郎君で、やたらに理屈っぽい私に辟易し通しだったと思いますがこれから先は面倒見の良い世話役タイプの彼がクラブ運営を取り仕切っていくことになります。技術面でリーダーシップをとれるメンバーもなく、それ故に演奏会の開催など遠い先の話という状態でしたが、それなりに楽しく春の合宿まで乗り切りました。

 新しい年度が始まって新入部員獲得の時がきました。講堂でのクラブ勧誘会で森田幹夫君が華麗なアルハンブラの思い出を演奏して応募者が殺到したという伝説の話はまだ先のことで、この時は演奏なし。活動をはじめたばかりの同好会ですから最後のほうに少しだけ時間をとって滑り込ませてもらいました。「ギターを弾いているだけではなくて、いろいろなことを議論したり語り合ったりしてお互いを高め合っていけるような活動をしたい。」というような極めて理屈っぽい、わかりにくいことを喋ったような記憶があります。

 結果は想像を絶する大量の新入部員が集まってきました。さすがにこの時は自分の勧誘の弁が良かったのだ、などとは思いませんでしたよ。“禁じられた遊び”を弾けるようになりたい、弾き語りをしてみたいという人が大半だったのでしょう。この後毎年同じようなパターンの繰り返しでしたが、集まってきた部員の1/3くらいが一学期中に退部、夏の合宿を経て秋までにまた1/3が退部、最後まで活動を共にするのは1/3というくらいの配分だったと思います。お互いに共感し合えるものがたくさんあるほど永続きするのだとしたら、このクラブ活動による交友関係は一人一人にとってすごく大切な財産です。

なかなか40年会のような機会をつくるのは大変ですが、いろいろな節目で集まって今までの“棚卸し”をしながら元気を分かち合おうではありませんか。