勤務校
「出世」やそのための「転勤」は希望せず「自宅通勤」を最優先しました。自宅外は最初の
「平田」と「発掘」の期間だけ。冬は発掘してきた「遺物」のまとめや「調査報告書」を作るため
「文化センター」まで郡山から通いました。38年の教員生活で自宅外は合計3年程度でした。
学生時代「障害児教育」は「特殊教育」と呼ばれていました。「盲・聾・精神薄弱」などという
差別的用語が当たり前のように使われておりました。実態を知るべく当時開講されていた講
座は少なかったですがすべて取りました。申請はしなかったですが「障害児教育」の免許を取
れる位の単位数だったと思います。だから「養護学校」への転勤は殊更希望したわけではあ
りませんでしたが違和感はありませんでした。「農業高校」も特にというほどではありませんが
希望しての移動です。きれいごとになりますが教科書的「生物」だけでなく、人間との関わりの
中で「生物」を見直そうという考えでした。「農業」「園芸」「畜産」「食品加工」に関する知識が多
少なりとも身に付いたと思います。郡山商業高校では「情報処理」に触れることができました。
一番の思い出は、サッカー部の部長(監督は「長谷川孝」)として昭和64年(1月2日)「第67
回全国高等学校サッカー選手大会」に出場できたことです。(試合は、残念ながら国立競技場
ではなく「駒沢オリンピック公園陸上競技場」で愛媛の「南宇和」に1ー3で敗れました)
遺跡の発掘調査は、当時バブル(1,986年12月~1,991年2月)の全盛期で「開発」の
ために「文化財保護法」上必要とされ、社会科教員だけでは足りず教科に関係なく、時には一
般の事務系県職員からさえも募集されておりました。好奇心から志願しました。1週間発掘現場
に出張すると手当が約5万円もらえ月20万円位給料以外にもらえました。まさにバブルを実感
しました。(宿泊代と酒代はかかりましたが旅館には「長期契約」で格安に泊まれました。また、
雨が降ると発掘できないため「ほぼ休み」になり研修と称してあちらこちらに出かけました。)
桐陽高校と郡山東は元女子高で生徒が素直でした。それまで生徒指導で苦労することがあ
りましたが、それがほとんどなく楽しく過ごすことができました。総じて恵まれた教員生活だった
と感じております。
(教員としてはさほどの実績も残せず二流、三流の存在だったと自覚しております。「安積」へ
の転勤希望は一度も出しませんでした。初恋の人のような距離感です。)
小野高校平田分校 | 昭和48年 ~ (1年) 4月のみ「非常勤講師」 |
郡山養護学校 | 昭和49年 ~ (3年) |
岩瀬農業高校 | 昭和52年 ~ (7年) |
郡山商業高校 | 昭和59年 ~ (7年) |
(財)福島県文化センター | 平成 3年 ~ (3年) 「文化課」からの出向 |
須賀川女子高校 須賀川桐陽高校(校名変更) |
平成 6年 ~ (1年) 平成 7年 ~ (8年) |
郡山東高校 | 平成15年 ~ 平成23年3月(8年) |
※「妻」も高校の家庭科教員でした。
勤務した学校は「只見高校」「郡山養護学校」「船引高校」「郡山女子高校」「田村高校」です。
生物教師の頃
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