好きなもの








「師叔、少し休憩にしませんか?」


執務室に入ってきた楊ゼンの声に太公望は書簡から視線を上げると、彼の手にした盆を見て目を輝かせた。
「はい。おやつの桃です」
「おお! 気がきくではないか!」
太公望は早々に筆を置くと、手を頭上で組み、長時間同じ姿勢でいたために凝り固まってしまった体を解すように伸びをした。
その傍らで、楊ゼンは広い執務机を占領している書簡やらなにやらをざっと片づけ、持ってきた盆をその隙間に置いた。と同時にさっそく桃を取ろうとする太公望の手を、やんわりと制す。


「手袋は外して下さいね。ベタベタになると困るでしょう?」
不服そうな視線をものともせずにそう言うと、太公望は更に眉を寄せた。
「大丈夫だ。慣れておる」
「それは手袋をつけたまま食べることに慣れているんですか? それとも手袋がベタベタになることに?」
楊ゼンの台詞に、太公望は今度は唇を尖らせた。
「スープーのようなことを言うでない」
「今はただの休憩時間です。見たところまだ処理しなければならないものもあるようですし、そんな手で執務の続きなんてしようものなら周公旦君のハリセンが炸裂しますよ?」
それはさすがに遠慮したかったのか、太公望は渋々と言ったふうに手袋を外すと改めて桃へと手を伸ばした。




「師叔は本当に桃がお好きですね」
おいしそうに桃をほおばる太公望の様子に、楊ゼンは小さく笑いながらそう言うと、太公望は顔を上げて楊ゼンを見る。
「ん? そうだのう。だが桃だけではないぞ? わしは杏も好きだし、饅頭や月餅、杏仁豆腐に梨に柿に…」
咀嚼しながらも指折り数える太公望に、楊ゼンはふと思いついたように口を開いた。


「僕は?」
「……は?」


唐突な質問の意味を取りかねて、太公望は訝しげな視線を楊ゼンに向ける。
「ですから、桃も杏もお好きな師叔。僕のことも好きですか?」
「…おぬし、脈絡という言葉を知っておるか?」
「知ってますよ」
呆れ顔でそう言った太公望に、楊ゼンがニコリと笑顔を向ける。
「好きなものの話でしょう? ですから、僕のことは?」
太公望は眉間に皺を寄せながらも手にした桃を一口囓り、少し考える素振りを見せた。
そして数秒後。


「いや。別に?」
「…あのー、せめて即答された方が照れ隠しっぽくて救われるんですけど」
「救われるとか救われないとか言った話ではなかろうが」
そもそも食い物の話ではないかと言いかけて、ふと太公望は言葉を切った。
「万が一、仙桃豊満とおぬしがそろって崖から落ちかけていても、わしは迷わず仙桃を助けるぞ」
ぴ、と指を立ててすげなくそう言った太公望に、楊ゼンは苦笑を漏らした。
「…おおよそあり得なさそうなシチュエーションですね」
「万が一、だ」


最後の一口を口に放り込むと、太公望は楊ゼンの差し出した手ぬぐいを受け取り、手に付いた桃の汁を拭き取った。
楊ゼンはそれを見届けると、今度はそれを受け取るために手を差し出す。
そしてそのまま、手ぬぐいを渡そうとした太公望の手ごと引き寄せ、甘い香りのする指先に口接けた。
唐突な楊ゼンの行動に太公望はわずかに目を瞬かせると、ついで眉を顰める。


「僕も桃は好きですよ。あなたの香りがするから」
「たわけ」


太公望はそう言って楊ゼンの手を振り解くと、さっさと手袋をはめ、筆を持ち直してしまう。
「くだらん事を言う暇があるなら、少し手伝っていけ」
「はい、勿論」
冷たい仕打ちをものともせずに微笑むと、楊ゼンは持ってきた盆を脇の机によけ、太公望の執務机の上に山積みにされた書簡をいくつか手に取った。
見れば太公望はさっさと執務を再開させている。
楊ゼンはわずかに肩をすくめると、いつもの自分の席について書簡を広げた。









― 終 ―










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