想いの礫(つぶて)








「ねぇ、師叔。今日が何の日か、ご存じですか?」
満面の笑みを浮かべて問いかけてきた楊ゼンを、太公望はいささか面食らったように見据えると、ついで、その眉を困惑気味にひそめた。








やらなければならないことは多々あるのだが、いかんせん行動を起こしてみなければどうにもならないものもある。
しかし、ここ数日の長雨のせいで進軍は滞り、それに伴って実質の執務量も激減していた。
加えて今日は、朝から武王・姫発が何処かへ蒸発───ただのサボりだが───してしまったものだから、王の裁可がいるような仕事はどうにも進められない。その為、本日の執務は急遽取りやめ、いわゆる特別休暇とすることになってしまったのだった。








執務室を早々に引き上げ、ここ楊ゼンの私室にて出された茶を呑気に啜っていた太公望は、その唐突な問いに目を瞬かせた。
今日が何の日か。
太公望はわずかに、ううむ、と唸って首を捻り、その答えを考えてみるが思い当たるものは何もない。ヒントになりそうなものでもないかと、向かいの席に座る楊ゼンをチラリと見れば、やけにご機嫌よろしく、にこにこと笑っている。これは何か大切な日だったのかもしれないと、太公望は眉間に刻んだ皺を更に深くした。
この楊ゼンという男、永遠とも呼べる時間を過ごす仙人の称号を持ち、本来であれば時間の観念など人の持つそれよりも薄い筈なのに、どうして、やれ初めて逢った日だの何だのと細かいことをやたらと記憶していて、ことあるごとにその手の話を持ち出してくる。
太公望とて記憶力には自信がある方だが、だからといってそんなことまでいちいち覚えている質ではない。
しかし楊ゼンは、愛しい人との思い出ならば覚えていて当然、などと歯の浮くような台詞を平然と口にし、あげく、太公望が覚えていなければ少々拗ねたような態度をとるのだから困ったものである。




しばらく考えてはみたものの結局答えは見つからず、太公望は肩を竦めるようにして楊ゼンを見ると首を振った。演出過多な三文役者のように、これ見よがしに落胆する楊ゼンの顔が見たいわけでもなかったが、覚えていないのだから仕方がない。無理に話を合わせてもぼろが出るだけだ。
しかし予想に反して楊ゼンの顔から笑みが消えることはなかった。
まるで祈る人のように指を組み、顎を軽くのせた姿勢で、太公望を正面から見つめたままわずかに双眸を細める。
「今日は、想いを寄せる相手に贈り物をする日なんですよ」
「…贈り物?」
また『なにやら記念日』だとか言い出されると思っていた太公望は、楊ゼンのその台詞に、どうやら自分が忘れているわけではないことを知って多少の安堵を覚えた。しかし、その意味はいまいち把握できない。そんな行事は初耳だった。
一度茶で喉を潤すと、太公望は他人から何か貰おうとする人にしては不遜とも取れる態度で顎を上げる。
「…で? わしに何かくれるのか?」
その様子に楊ゼンは小さく吹き出した。
「むう。何を笑っとるのだ」
口元に拳を当てて、くすくすと笑いはじめた楊ゼンを、太公望は不機嫌そうに唇を曲げて言及する。
「すみません、師叔」
いまだ言葉尻に笑みを含ませたままそう謝罪すると、楊ゼンは言葉を続けた。
「なんだかんだ言っても、僕があなたのことを好きだと思っていることを、あなたはちゃんと解っていてくれていたのだなあ、なんて思ったものですから」
そう言われて、太公望は頬が熱くなるのを感じ、自分が口走ったことがいかに気恥ずかしいことだったかを悟る。
先程、楊ゼンがした説明は『想いを寄せる相手』に贈り物をするということだったから、ここで当たり前のようにそんな問いをすれば、自分が楊ゼンに想われているということを、ちゃんと理解しているのだととられても仕方ない。
いや。たしかに理解していることではあったが、しかしそれを口に出して言うのは太公望の性格上、非常に恥ずかしいことなのだ。
「うるさいっ! そんな話題を振られたら、何かもらえると思う方が自然な流れであろうが!!」
「そうですか? それでも嬉しいですけどね」
無意識なのがよけいに、と続けようとした言葉を、楊ゼンは飲み込んだ。
これ以上言えば照れ屋の太公望は、この先の話など聞く耳持たなくなってしまうかもしれない。
楊ゼンは、照れ隠しに拗ねてしまった太公望をなだめるように、茶碗にお茶のおかわりを注ぎ入れた。




「本来、今日贈るもので定番の品物があるのですが、ちょっとそれは用意できなかったので…」
太公望が話を聞いてくれているうちにと楊ゼンは席を立ち、室内に備え付けてある棚からなにやら布を被せた籠を取り出した。甘い香りがこぼれ、見えなくてもその中身が何か太公望には解る。
「代わりにあなたの好きなものを」
そう言われて一瞬喜ぶも、太公望はすぐにその表情を曇らせた。
「…それはよいが…、その桃はまさか倉庫からかっぱらってきたものではなかろうの?」
そんなことをしたら疑われるのはわしなのだぞと、そう言い募る太公望に、楊ゼンは呆れ顔でため息をつく。
「あなたじゃあるまいし、そんな事しません。ちゃんと女官に言って分けて貰ったんですよ」
そう言うと楊ゼンは籠を卓上に置いた。
しかし、それに対する返答はなく、やけに静かになってしまった太公望へと楊ゼンが目を向ける。そうして、なにやらむずかしい顔をした彼の表情に気づき、楊ゼンはいぶかしげに太公望の名を呼んだ。
呼ばれて、太公望は答えるどころか急にそっぽを向いてしまう。その急転直下な態度の変わりように、楊ゼンはいささか慌てたような声音で、もう一度彼の名を呼んだ。
日頃の行いを注意したのがいけなかったのか、と考えもしたが、そんなことくらいで機嫌を損ねるような相手ではないはずだ。しかしそれ以外に彼が不機嫌になる原因が思いつかない。
「師叔?」
少々慌てた楊ゼンの声が自分を呼ぶのを耳にしながら、太公望は急に胸中に広がった思いを打ち消そうと焦っていた。




自分は知らなかったが、どうやら今日は『想う相手』に何かを贈る日らしい。
ということは楊ゼンが分けて貰ったというこの桃も、そう言う意味合いを含むものではないのだろうか。
そこまで考えて、太公望は先程以上に頬が熱くなるのを感じた。
駄目だ。これではまるで…。
赤いであろう顔を見られたくなくて、太公望はそのまま机に突っ伏した。




楊ゼンは何が起こったのか把握できないまま、突然自分から目をそらしてしまった太公望を、困惑の表情で見下ろしていた。
どんなに考えてみても、太公望が不機嫌になった理由が解らない。
仕方なく、楊ゼンは籠に掛けてあった布を取り去ると、顔を伏せたままの太公望の傍らへと桃を置いていった。
ことり、ことりと一つずつ丁寧に並べてゆく。
甘い香りが更にはっきりと太公望の鼻腔をくすぐり、その誘惑に思わず顔を上げそうになったが、すんでの所で踏み止まった。
しかし6つ目の桃が置かれる音に、太公望はそろりと視線を桃へと向ける。
「…随分たくさん貰ったのだのう」
その太公望の言葉に、楊ゼンはやっと得心がいったように、ああ、と呟くと苦笑した。
「貰ったと言えばたしかにそうですが、この桃は、あなたに差し上げると言うことで分けて貰ったものです。そう言う意味合いは一切ありませんよ」
楊ゼンはできるだけやわらかな口調でそう言った。
考えを気取られたことに気づいた太公望はかすかに唸り、頭を掻く。
「…そう言う意味合いというのが、どういう意味合いなのか、さっぱり解らぬ」
顔を上げ、悔し紛れにそう言うと、太公望は目前に並べられた桃をひとつ手に取るとじっと見つめた。
手の内に収まる、瑞々しいそれは、ちいさな心の形をしている。
不意に太公望は手にしたそれを楊ゼンに向かって突き出した。
「ならば、これはわしからだ」
突然の太公望の行動に、楊ゼンが目を丸くする。
「…僕が貰ってきたものですが?」
何処か面白がっているような笑みを浮かべたままの楊ゼンを直視できず、太公望はぶっきらぼうに、もう一度彼の方へと桃を突き出した。
「うるさい。わしがやるといっておる物が受け取れぬのか」
今日はそう言う意味合いで物を贈る日なのだろう、と太公望は幾分早口でそう言った。
「知らんかったので用意できなかったからな」
その言葉だけで十分ですよ、と楊ゼンは浮き立つ気持ちを出来るだけ押さえながら、視線の定まらない太公望から桃を受け取る。
「ありがとうございます。それじゃ一緒に食べましょうか」
こくりと頷いた太公望に、楊ゼンは更に笑みを深めるのだった。








― 終 ―










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