眠れぬ夜に








殷周易姓革命の決起集会も滞りなく終え、これから始まる戦へ向けての意気昂揚の為に催されている宴の賑やかな音が、ここ西岐城内に設えられた太公望の私室にまで届く。
本当ならば軍師である太公望も、その宴に出席しているべきなのだが、出来るだけ一般の民を巻き込みたくないとの思いに反して、こんなにも多くの民を戦へと導かなければならない事態にさせてしまった己の不甲斐なさに、どうしても浮かれた雰囲気の中で酒を呑むことが出来ず、先だっての魔家四将との戦いでついた傷をだしに早々に自室へと引きこもってしまっていたのだった。
心配して看病についてこようとする四不象は、ゆっくり横になりたいからとなだめて宴の席に置いてきた為、室内には太公望一人だ。
宴は、今が闌(たけなわ)と言ったところだろうか、こうやって自分がその場にいないことなどお構いなしに盛り上がっている。
戦もまた同じなのではなかろうか。これから先、起こりうる全てを予測して、それを制御するなどということは不可能であるとしか言えない。
そう思えば、自分などと言う小さな存在がいることに対しての意味がひどく曖昧なものに思えてきて、太公望は自嘲めいた息を吐く。
それは、逃げだ。


部屋の灯りもつけず、道服も着込んだそのままの格好で、太公望は寝台へと俯せに身を投げ出すように横になり、これからするべき事に考えを巡らせた。
朝歌へ向けての進軍の経路や、その為に必要な食料などの諸々のこと。
考えなければならないことは山積みだ。こんな所で逡巡している暇など、今の太公望にはない。
歴史が自分を必要としているか否かではなく、自分はこの歴史を利用するのだ。少なくとも、最初の頃は確かにそう思っていた。
宴の会場からであろう楽隊の奏でる音楽が太公望の耳に届く。
ゆったりとしたその音色に聞き入っていると、ふと馴染んだ仙気を戸の向こうに感じて、太公望は伏せていた双眸を開いた。
宴を抜け出してきた自分を呼び戻す為なら容赦なく追い払おうとも思ったが、その仙気の持ち主はいつまでたっても部屋に入ってこようとはしなかった。
確かにこんなふうに灯りもつけていない状況では、もしかしたらもう眠っているのかもしれない、とでも思われているのだろう。
それに、彼は確かに目立ちたがりではあるが、あまり人の集まる場所を好まない。もっと宴を盛り上げようなどとといった気の利く性質ではないのだ。
しかもここは馴染んだ仙界ではなく、大半は見知らぬ人間達。いつものように酒を呑み、宝貝自慢をするわけにもいかない。
こやつもおそらく騒ぎから逃げてきた口だろうのう、と思いつつ、入るべきか立ち去るべきかと、いつまでも戸の前で迷っている彼に、太公望は仕方なく救いの一言を投げかけてやる。


「…入ってくればよかろう?」


不意にかけられた声に、太乙は驚いて目を瞬かせた。
故障修理中で決起集会に参加できないナタクの代わりに仙界から下りてきたのはいいが、こういった賑やかな席はどうも苦手で、何かこの場から逃げ出す口実はないかと考えていたところに、太公望が自室へ下がったということを四不象に聞き、しかもそれが先だっての傷が痛むかららしいなどと聞けば放って置くわけにはいかないと、仙界から持参した薬を持って太公望の部屋の前までやってきたまでは良かったが、灯りを落とされた室内は静まり返り、もし眠っているならばこのまま帰ろうか、どうしようかと悩んでいたところに、思いがけず言葉をかけられたのだ。
今度は声をかけられたことで悩むことになる。
もしかしたら起こしてしまったのかもしれない。部屋に入るなり、そのことで怒鳴られるかも、などと考え始めては、堂々巡り再び、だ。
しかし声までかけられているというのに、ここで帰るわけにもいかず、太乙は、おそるおそる、といった速度で戸を開けると、やはりそろりと上半身のみで室内を覗き込んだ。


「…もしかして眠ってた…?」
なんとも、か細い声が室内に響き、その頼りなさに太公望は思わず苦笑する。
「大丈夫だ、起きておったよ。…して、何用だ?」
太乙の心配をよそに、応えた太公望の口調はしっかりしていて、確かに今まで眠っていた人のものではない。そのことに安堵して、太乙は部屋へと足を踏み入れると、きょろきょろと辺りを見回した。そして目当てのものを見付けると、手に持っていた灯りを太公望の部屋に置かれた燭台へとうつす。
室内がほんのり明るくなった。
「なんだか、あのドンチャン騒ぎについてけなくてさ。それに君が、傷が痛むからって部屋に戻ったって四不象に聞いてね」
いまだ俯せの格好まま、自分が火を灯すのを横目で見ていた太公望へと、太乙は相手の様子をうかがうように肩越しに視線を送る。
訪れた客人へのせめてもの礼のつもりか、太公望は寝台から起きあがると、その縁へと座り直した。その仕草に痛みを堪えているような素振りなどが見受けられないことに、太乙は密かに安堵する。


「わしをだしに使った訳か」
「…どうしてこう素直じゃないんだろうねぇ」


太乙は困ったような笑みを浮かべると肩をすくめ、太公望の傍へと歩み寄った。その手には、なにやら小さな箱が見える。
「でも。君の部屋に来るには、いい口実だったと思うけどね」
太乙が、座ってもいいかい? と訊ねると、太公望は上目づかいで彼を一瞬だけ見上げ、すぐに目をそらすと、仕方ないといったふうに自分の隣を掌でポンポンと叩いた。
太公望のぶっきらぼうな態度に、太乙は小さく笑う。


了承を得たそこに腰を下ろし、太乙は座ってもまだ頭一つ分低い位置にある太公望の顔を、ひょいと覗き込んだ。突然目があったことに、太公望は少しばかり驚いて瞠目する。しかしその表情は、太乙の次の台詞によって怪訝そうに歪められた。
「もしかして君が宴を抜け出したのって、こうして私と二人きりで会いたかったから?」
本気なのか冗談なのか、臆面もなくそんなことを笑顔で問いかけてくる太乙に、太公望は眉間にしわを寄せたまま答える。
「…そこまで夢を見られると、わしとしても困惑の限りだのう」
素っ気ない太公望の言葉は予想通りだったからなのか、太乙は僅かに首を傾げるようにして口角を上げた。


「ま、それは置いといて」
自分から話を振っておきながら、あっさりと話題を変える太乙に、太公望は更に唇をまげる。
「いったい何なのだおぬしはッ!?」
思わずいきり立ちそうになって、ふと先程から気になっていた太乙の手に納められた小箱が視界に入り、太公望は少し落ち着こうとひとつ息を吐いた。
「で? その箱はなんなのだ。土産か?」
「お土産といえばお土産だね」
太公望の質問に答えるように、太乙は膝にのせていた箱を開けてみせる。中には小さな瓶がいくつか入っていた。
嫌な予感がして、太公望が眉をひそめる。
「なんだ? これは」
「仙界から持ってきた乾元山印太乙特製スペシャル飲み薬ー!! ちなみに化膿止め」
ジャジャーン、とご丁寧に擬音までつけて、太乙は大仰に箱の中から濃い色のついた小瓶を一つ取り出した。
ふざけているとしかとれない太乙の行動はともかくとして、予想通りの答えに、太公望は身を横に滑らせて太乙との距離を開ける。
「知っておると思うが、わしは糖衣か…」
「シロップ状の薬しか飲まないんだろ。大丈夫、ちゃんと甘いから」
そう言って、太乙は呆れたように笑うと、離れてしまった太公望を、おいでおいでと手招いた。
「本当か? …だましたら承知せんぞ?」
「…誰かにだまされたことでもあるのかい?」
だまされたこと、というより、苦い薬を無理に口の中に放り込まれた記憶なら多々ある太公望は、警戒心そのままにそろそろと太乙に近付くと、彼の手の中にある瓶の口に鼻先を近付けて、くんくんと臭ってみる。
途端、その表情が歪んだ。
「なんか、不味そうだのう」
「臭いだけはどうにもならなくてね。ほら、ちゃんと飲まないと、傷が化膿して膿んで腐って、とんでもなく痛いことになっちゃうよ?」
「ううっ、脅すでない!」


太公望は、しかめっ面のまま太乙から薬を受け取ると、それでもどうにも信用できないのか、再び太乙へと視線を戻す。
「…本っ当に、甘いのだな?」
「あのねぇ…」
あまりにもしつこい追求に太乙はがっくりと肩を落とすと、そんなに信用ないかい?と溜め息をつく。
「君に、甘い、なんて嘘ついて苦い薬飲ませたりしたら、もう私の作った薬なんて飲んでくれなくなるだろう?そんなキケンなことはしないよ」
「まぁ…確かにその通りだがのう…」
うう、と唸りながら太公望は薬へと目を向けると、手にした瓶を軽く揺すってみた。
瓶の中で、ドロリとした液体が揺れる。
太公望はまたしても胡乱な眼差しで太乙を見上げた。
「あんまりシツコイと無理にでも口の中に流し込むよ?」
いつもは温厚な彼の、抑揚のない通告に、太公望は渋々といったふうに瓶へと口をつける。
「…お。甘い」
「だからさっきからそう言ってるじゃないか!」
先程まで駄々をこねていたのが嘘のように、太公望は瓶の中身を一息に飲み干すと、縁についた雫までも舌で舐め取った。
「なんだ。見てくれは良くないくせに、結構うまいではないか」
彼に関しては、こんな行動も慣れているとは言え、そのあまりにも身勝手な言い様に、太乙はがっくりと肩を落とすと太公望に背を向けるように寝台の上に両掌をついた。
太公望といえば、そんな太乙の気持ちを知ってか知らずか、…おそらくわざとであろうが、彼の肩をポンポンと叩くと、まるで他人事のようになだめる。


「だいたい、おぬしが悪いのだ。こんな胡散臭いものに入れおって」
「瓶の何処が胡散臭いのさ」
「おぬしが持っておると、胡散臭く見える」
「…なんだい、それは…」
食ってかかったところで、どうせ彼得意の滅茶苦茶な論理で言いくるめられるのだろうことは予想がつき、太乙は仕方ないといったふうに顔を上げると、気を取り直して太公望の方へと向き直った。


「とりあえず。今回持ってきた他の薬もここに置いて帰るよ。さっきのは化膿止めだけど、他に痛み止めなんかも持ってきてるから、本当に痛くて具合の悪いときは飲むんだよ?…君用に、うんと甘くしてあるけど、おやつ代わりにはしないように」
「…誰がするか」
太乙が口にした『本当に』という言葉に引っかかりを感じ、すぐにその意味することに気付くと、太公望は苦々しく舌打ちをした。
どうやら、今回は仮病だということは、ばれているらしい。
「おぬしも、大概イヤな奴だのう」
頬を膨らませて睨み付けてくる太公望を、太乙は、なんのことだか、と受け流して箱の蓋を閉めると、寝台から立ち上がり、それを机上へと置いた。箱を置くのと同時に、不意に背中に何か軽い衝撃を感じて、太乙はわずかに驚いて振り返る。
足下に白い影が落ちている。
よく見なくとも、それが太公望が今までかぶっていた頭巾だということは判り、太乙は苦笑した。
「行儀悪いなぁ」
「うるさい。わしはもう寝る。ついでにそれも、そこに置いておいてくれ」
人にものを頼むにしては尊大な態度ではあったが、別に太乙はそのことを咎めるでもなく太公望の言葉に従い、身を屈めて頭巾を拾うと、床に落ちたせいで付着してしまった埃を手で軽く払った。
「さっきの薬には催眠効果もあるからね。ぐっすり眠って、疲れを癒せば…」
太乙は言われたとおり、頭巾を机に置くと太公望の方に向き直る。しかし言葉は中途半端なところで中断された。今度は視界が橙色で埋め尽くされたせいだ。
「…何でもかんでも投げないでくれないかい?」
予想外に飛んできた太公望の外套を頭からかぶったまま、太乙が溜め息混じりに、そう呟いた。
「ちゃんと受け取らぬか」
ようやく視界を確保した太乙の元に、今度は手袋が立て続けに飛んでくる。バランスを崩しそうになりながらも、とりあえずそれは受け取ることが出来た。


太乙は外套を簡単に畳むと椅子の上に置き、その上に手袋を置く。
そして、さっさと寝台の上に、太乙に背を向ける格好で横になってしまった太公望の傍まで歩み寄ると、腰に手を当てて彼を上から覗き込んだ。太公望は悪びれた様子もなく、太乙を横目で見上げながら、にやにやと笑っている。
「悪戯っ子なんだから」
太乙が手を伸ばして太公望の鼻を指で軽くつまむと、太公望は顔をしかめながら、ゴロリと仰向けに寝返りを打った。
「おぬしが甘やかすからだ」
この状態で人のせいにするのも太々しいのだが、そんなことを言われても尚、苦笑するだけで何も言わない自分に、太乙は胸中で、たしかにそうかも、と呟いた。
「こんなふうに、本当に具合が悪いのかどうかも怪しい者の所に薬を持って駆けつけるしの」
「だって心配だったんだから、しかたないだろ?」
太乙はそう言うと、太公望に振り払われた手を引っ込めることはせずに更に伸ばすと、その髪を軽く撫でる。やわらかな感触に、少し心が凪いだ。


太公望は小さくあくびをすると、ゆっくりと瞼を下ろす。
彼の機知を示す、そのどこか狡猾な雰囲気を持つ瞳が閉じられれば、後に残るのは幼い姿形そのままの、少年のそれ。
ここから逃がしてあげようか、と、ふと口をついて出そうになった言葉を太乙は飲み込んだ。本心ではあったが、こんな言葉は、甘やかすというレベルではない。
望む望まざるとも、彼はもう関わっているのだ。今更逃げ出すことなど、出来るはずもない。…いや、出来たとしても彼はそれを拒むだろう。
「ほら、何か掛けてからじゃないと風邪をひくよ」
太乙は傍にあった毛布を太公望に掛けてやると、遠くから聞こえてくる音楽家達の演奏に耳をすました。
まだ宴は続いているらしい。


規則正しい寝息が耳に届き始めると、太乙は出来るだけ音を立てないように踵を返した。
自分の持ってきた灯りを再び手に持ち、そっと部屋を出る。
月が白い。
今、この眠りが、せめて安らかであることを太乙は願う。
太乙は閉じた扉にもたれかかると、どこか痛みを堪えているような表情で、おやすみ、と呟いた。








―終―










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