蜘蛛の糸








「太乙…? 起きておるのか?」


崑崙山2の修復などの疲れから太乙が倒れたのは、つい先日のこと。
安静にしていなければならないはずの彼の部屋から漏れる灯りに不審を覚えて、太公望は太乙の部屋の戸を叩いた。
返事を待つこともなく開けた扉の向こうに見えたのは、高い天蓋から下がる薄い布越しの寝台の上に半身を起きあがらせて、無数のコードをその身に絡めた太乙の姿だった。
その白い顔を覆う、黒い不透明のゴーグルが鈍い光を明滅させているということは、それが今現在機能しているということに他ならない。
安静を言い渡され、床にふせっている今でさえ、太乙の体は崑崙山2との繋がりを絶ってはいなかった。


予想はしておったがのう、と息をつき、いまだ自分の存在に気付かずに黙々とコンソールを操る太乙の意識をこちらに向かせようと、太公望は、わざと乱暴な音を立てて扉を閉めた。
「…っわ…!?」
突然の大音量に、目前の計器だけに集中していた神経を、一気に外の世界へと引き戻された太乙がビクリと、その体を硬直させて裏返った声を上げる。
その様がおかしくて、クククと笑う太公望の声に、やっとその存在に気付いたらしい太乙が眼前のゴーグルを上げ、戸の前に立つ太公望を見た。


「…もう驚かせないでおくれよ〜。いくつかデータが飛んじゃったじゃないか〜」
「うるさい。今日は休めと言ってあっただろうが。何をやっとるのだ」
情けない声で文句を言い募る相手を一喝し、太公望は太乙の横になる寝台の傍らまで歩み寄る。
「…休んでるじゃないか」
「こういうのは休んでいるとは言わん」
寝台の上を縦横無尽に交差するコードを掴み、太乙の目の前に突きつけると、太公望は怒ったような口調で、そう言った。
間近に見る太乙の顔は眉を顰めたくなるほど青白く、やつれているのが目に見えて判るほどだった。
いくら彼が十二仙の一人だからといっても、仙力が無尽蔵にあるわけではなく、今回のように急激に仙力を使うようなまねをすれば、たとえ死んだとしてもおかしくない。
いや、実際に、昨日は死にかけたと言っても過言ではなかっただろう。
胸中を焼く苛立ちに似た感情に、太公望は更に眉を吊り上げると、太乙から目をそらし、掴んでいたコードを放り出した。
「…でもねぇ、これは私の仕事だしさ」
静かな太乙の声に、太公望が彼へと視線を戻す。
太乙は息を吐くように呟きを続ける。
「それにさ、何かやってると他の事を考えなくても済むからね」


他の事、がなんなのか、太乙は口にしなかったが、太公望には言われなくても解った。
長い間、共に過ごしてきた兄弟弟子、いや、もはやそれは友人と呼べる者達であったろう彼らを一度に何人も失った悲しみは、太公望とて同じだった。
辛いだろう。
それは解る。解るが。


「…ダアホが」
吐き捨てるような口調に、太乙は苦笑を返すと、額まで押し上げたままだったゴーグルを外して傍らに置いた。
「それじゃ、お言葉に甘えて休むとしようか」
口ではそう言ってはいるが、太乙の性格を考えれば本当に休むかどうかは怪しいものだ。
自分が部屋から出ていけば、彼が再びゴーグルを手にしないと言う保証はない。


「あ、そうだ。せっかくここに来たついでにさ、義手の具合も見ておこうか?」
この期に及んで、まだそんな台詞を吐く太乙に、太公望はいささか脱力する。
「…っだから休めと言っておろうがっ!」
太公望は露骨に顔を顰めると、太乙の両肩を掴んで無理矢理寝台に押さえつけた。
「崑崙山2は、今おぬしに倒れられるとどうにもならぬ。…まぁ、無理をさせたのはわしらだが…、とりあえず今は休んでいてくれ」
「…うーん。休めって言われても、…こんな夜更けにこんなシチュエーションになっちゃうと、逆に眠れないよねぇ?」
いたずらっぽく口角を上げた太乙に、太公望は今更ながら現在の体勢をかえりみる。
これは。不本意ながら。まさに。
「きゃー。おーそーわーれーるー」
「…っこの…っ!」
ふざけた声を上げる太乙を一発殴ってやろうと太公望が彼の肩から手を離した瞬間。
スルリとした動きでかわされ、驚いて目を瞬かせているうちに体勢は入れ替えられてしまう。
太公望が見上げた先には、悪戯が成功した子供のようにクスクスと笑う太乙の顔があった。
「…だから、こんなアホなことをしとらんで休めと言うに」
組み伏されたまま、太公望は呆れ顔で溜め息をつく。
「そう言えば崑崙山2を作ったご褒美を、まだ貰ってなかったよね」
「いるんかいっ!?」
わしは別に頼んでないぞ!? と太公望が唇を曲げる。
「でもさ、作って欲しかっただろう?」
突然真顔になり、静かに呟いた太乙の言葉に、太公望は少し狼狽えたかのように瞠目した。
その隙をつくかのように、太乙の唇が太公望の首筋に落とされる。
「…っこら…っ、太乙…っ!?」
「大丈夫、なんにもしないから」
…イヤ、もう既にしとる気がするんだがのう、などと呑気なことを考えながら、太公望は項をなぞる太乙の唇を受け止めて、苦笑をもらすと共に目を閉じた。


太乙の体の至る所に取り付けられた計器から延びる無数のコードが、体勢を入れ替えたことによって太公望の体にまで絡みつき、その動きを制限する。
まるで蜘蛛に捕らえられた獲物のような気分だ、と自分の自由にならない体を僅かに捩りながら、太公望は思った。
見た目よりも存外にしっかりとした腕に抱きしめられ、髪を撫でられる。
暖かな体温に包まれていると、なんだか眠たいような気分になった。
「キミの方こそ、ちゃんと休んでるの? 痩せたんじゃない?」
「適度にサボっておるよ」
「…ふーん。なら、いいけど」
太乙は、まるで信用していないような口調で、そう言うと太公望の背中にまわした腕に僅かに力を込めた。
自然と太公望の頬が太乙の肩に押しつけられる形になる。
そうすると、太乙の鼓動が太公望の体に直に響いてくるような気分になった。


それは、いつもよりも早いのだろうか。
自分と同じように。


そんなことを考えながら、太公望は、とりあえず最初に言ったとおりに、それ以上のことはしてこないでいる相手を盗み見るように視線を動かした。
しかし、しっかりと抱きしめられているため、見えたのは黒絹の髪ぐらいでしかなかったが。
押さえ込まれた息苦しさに、太公望がゆっくりと呼吸する。
太乙の、仙界の者独特の薄い体臭がする。
生臭を食べないせいか、仙道の体臭は殆どない。
人間が仙道に違和感を抱くのは、その為かもしれない。
浄化された、仙界の者の匂い。


「浄化された」と心中で呟くと、太公望は僅かに自由になる指先で、掌に触れる太乙の衣を掴んだ。
その言葉は、自分に当てはまらない気がする。
あんなに澄んだ場所で過ごしたのに、自分の中にある私怨の炎は、いまだ浄化などされてはいない。
する気がなかった、と言うのも一つの理由ではあるが。
人間くさいと言われる所以もそこにあるのかもしれない。


甘えるように縋り付いてきた太公望の背中をさすり、太乙は、どうかしたかい? と問う。
なんでもない、と囁き、太公望は少し息を吐くと、ゆっくりとした動きで太乙の黒髪に指を差し入れた。


太乙の制作した義手。
そのカラクリに絡みつく漆黒は、まるで夢のように稀薄で、触れているという視覚からの情報だけでは、手にしている今ですら幻影でも見ているような気分になる。
熱も痛みも感じない自分の利き腕。
だがしかし、それは自分の欠けた体を補うものとして確かにそこにあり、傍目から見れば、何の不自然さも見受けられないだろう。
身につけた自分だけが感じてしまう違和感。
それはけして義手が不完全だからではない。
むしろその逆で、完璧なまでに自分の思うように動くというのに、触れた、その先のぬくもりだけは内側まで届くことはないという、そのことが、これが自分の体の一部であって一部でないという現実を太公望に改めて突きつけ、例えようのない違和感として太公望の胸中に澱のようにわだかまっていた。
隙間もないほどに触れ合っている体は、こんなにも温かいのに、彼の作った義手だけが、彼の体温を感じられない。
それは、どこか不思議で、太公望は、ほんの少し鼻の奥が痛くなるような気がした。


「…」
太乙は黙り込んだままで、たまに背中にまわされた彼の腕が、なだめるような動きをしなければ眠っているかのようだった。
その静寂がふるえる。
「…ところで、何か用事があったんじゃないの?」
不意に問われて太公望は押し黙った。
改めて考えてみれば、わざわざ太乙の部屋の方まで足を運んだ理由は何だったろう。
理由は、すぐに思い出せた。


「用事があったわけではないわ。ただ、安静にしとらねばならん者の部屋から皓々と灯りが漏れておれば怒鳴り込んでやろうと思うのが人の常だろう?」
怪しげな実験が常日頃から行われているためか、太乙の私室は、ここにあるどの部屋からも離れていて、迷ったりでもしない限り偶然に部屋の灯りの有無を目に留めることはない。
太乙もそのことは知っているので、この質問も、そういう意味合いがあってしたものではなかっただろうに、太公望の答えに苦笑を浮かべただけで深く言及することはしない。
ただ、そっと太公望の首筋に唇を押し当てた。


   ***


「ところで、いい加減に放さんか。苦しい」
身を捩って苦情をもらす太公望に、太乙はコードが絡みついているせいで、いまいち自由に動かない体を僅かに起こして、文句を言う彼を見下ろす体勢で苦笑する。
「じつは私も苦しかったりして」
「…アホか、おぬしは…」
太乙の台詞に、太公望は、げんなりとした表情を隠しもしない。
寝台から起きあがり、体にまとわりついたコード類を外しながら、送るよ、と言う太乙に太公望が眉を顰める。
「…送るって…、どこまで送るというのだ」
病人はおとなしく寝とらんか、と諫める太公望を、まぁまぁ、といった軽い口調で宥めて、太乙は太公望の肩を軽く叩いた。


「送らずとも良いぞ」
さっさと扉に手をかけた太公望のそれに太乙の手が重なる。
「こら、太乙…」
太公望の言葉が途中で途切れる。
手を取られ、太乙の方へと見返った太公望の唇に、ふわりと暖かな感触が下りる。
太乙の黒髪が、さらりと太公望の頬を撫でた。
軽く触れ、すぐに引いていった太乙の唇は、満足げに小さな弧を描いて微笑んでいる。
「…おぬし」
脱力するあまり絶句する太公望に、太乙は益々笑みを深めた。


そのまま、太公望の手を自らの頬に当てる。
相変わらず触れているという感覚は太公望にはなかったが、なぜか不思議と胸中があたたかくなった。
「…わしの手は…」
「なに?」
「…いや、なんでもないよ」
ゆっくりと首を振り、太公望は太乙のもとから腕を引いた。
別段力を入れて掴まれていたわけではなかったので、それは太公望の意志のままに、太公望の傍へと戻る。


たいいつ、と太公望の唇が動いた。
心得たように太乙は微笑み、太公望の凭れている壁に手をつくと、僅かに身を屈めた。


   ***


廊下を早足で歩きながら、太公望は、太乙の部屋に足を向けた理由を思い返していた。
彼のことが気になったなど。いつの間にか足が部屋へ向いていたなど。
「…言えぬわ」
頬を紅潮させて、ぼそりと呟き、ふと自分の左腕に目を留めて、太公望は微かに笑った。


   ***


「さて…」
太公望が出ていくと、太乙は寝台へと踵を返した。
だが、彼に言われたとおり休むためではない。
太乙は寝台に置いてあったゴーグルを装着する。
再び、それに鈍い光が宿った。
「続き、続き…っと」
太公望の心配はありがたいが、今は甘えていられるような状況ではない。
例え己の身を削るような真似をしてでも、前に進まなければならないのだ。
次の戦いは封神計画最後の戦いになるだろう。
自分に出来ることは、その時のために完璧に備えてあげること。
完璧、ってのは無理だろうけど、と太乙は幾分自嘲気味に口角を上げる。


太乙の指がキーを叩く音が、再び部屋の中に帰った。








― 終 ―










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