「のう、まだ終わらんのか?」
「…んー、ゴメン。あとちょっと…」
ふてくされた声で問う太公望に目を向けることもなく。いや、正確には目を向ける余裕もなく、太乙は眉間に皺を寄せたまま目の前のキーボードをひたすら打ち続けている。
そんな太乙の様子に、こちらもまた眉間に深い溝を刻んで、太公望は溜息をついた。
修行をサボって抜け出したのに訳はなかった。ただなんとなく、ぼんやりと空を見ていたら出かけたくなった。
普段からサボるための理由など、そんなものである。
ついでに、なんの約束をしているわけでもなかった太乙の洞府にいきなり押し掛けたのにも、これといって理由などない。
ただ彼の所に行けば、上等の茶と菓子にありつけるという特典はあったが。
しかし。もうひとつ、ついでを言えば、ここのところ太乙がひどく忙しくしていることも知ってはいたのだ。
もう何ヶ月も顔をあわさぬほど。
太公望は行儀悪くほおづえをついたまま、目の前に置いてあった茶碗に口を付けた。
勝手知ったる他人の洞府とばかりに、主に代わって自分で淹れた茶は、もう大分冷めてしまっている。 しかし喉を通るそれはまろやかで、冷えていてもわずかに甘い。
鼻腔を抜ける香りといい、その茶は太公望の好みとぴったり一致していた。
太公望は再び、何時になく真剣な眼差しをした太乙の横顔へと視線を戻した。
集中しきっているのか、こちらの視線には全く気づいてはいないようだ。
この様子だと自分が訪ねてきていることさえ、この瞬間は忘れてしまっているのではないかと思う。
そしてそれは間違いなく正解だ。
まじまじと見ていると、いつも艶のある髪の色が少しくすんでいるような気がした。
おそらくは洗いっぱなしで、ろくに梳いてもいないのだろう。あちこち縺れてしまっているのが見て取れる。
…しかたのない奴だのう。
あとで梳いてやろうか、そんなことをぼんやり考えながら、太公望はもう一口茶を啜った。
― 終 ―
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