秘 密








「…ああ、やっぱり」
木立を抜け、開けた視界の向こうに見つけたその人の姿に、楊ゼンは自然と口元をほころばせた。
彼の気に入りの場所でもある大きな落葉樹の幹に背中を預け、その枝と枝の間からこぼれるやわらかな日差しを浴びて微睡んでいる小さな体。足を前に投げ出した格好で、手には何か白い布を握り締めている。見ればそれは彼がいつも身につけている頭巾だった。
楊ゼンは木の葉を踏む微かな足音に気を使いつつ、できるだけ静かに、眠る太公望に近付くとその傍らに膝をつく。ついで、見下ろした彼のつむじを隠すように、髪と同系色の木の葉が、ひとつふたつと降りかかっていることに気付き、指先でそれをそっと摘み上げ、取り除いてやった。
いつもくるくると表情を変える知謀を秘めた碧玉の双眼は、今は頬に薄い影を落として閉ざされている。


規則正しい、静かな寝息が楊ゼンの耳に届いた。
それを耳にしているうちに、ふと楊ゼンの瞳が何かに気付いたように表情を変える。口角が綺麗な弧を描いてわずかに上がった。
楊ゼンは片方の手を、木の葉の絨毯が敷き詰められた地面につけ、もう一方の手を自らの体を支えるように木の幹につくと、ゆっくりとした動作で身を屈める。そして太公望の呼吸の邪魔にならぬよう注意を払いながら、その薄く開いた唇に自らのそれを重ねた。


手も肩も、他に触れているところはない。ただ、互いの呼吸だけが、やわらかな光の中で触れ合っている。


時間にすればほんの数秒。
楊ゼンはすぐに体を起こすと、太公望のふるえる睫に向かってそっと囁いた。
「…師叔。顔が赤いですよ?」
それを耳にするや、太公望の双眸がぱちりと開かれる。それはどう見ても今まで眠っていた人の動きではない。
「…いつから気づいておった…?」
「寝息が不自然になったあたりから」
太公望の唸るような問いかけに、楊ゼンはにこりと笑って答えた。
しかしこの場合、言及すべきは狸寝入りを見透かされたことよりも、それをわかってした楊ゼンの行動の方である。
「誰かに見られたらどうするのだッ!」
「誰も来ない場所だからこそ、こんな所でサボってたんでしょう?」
やはり笑顔で返答され、太公望は怒鳴ってやろうと吸い込んだ息を、しばらくの逡巡の後で諦めたように吐き出した。


「こんな所で油を売っていて良いんですか? 口うるさい宰相殿が探していたみたいですよ?」
「何?!!」
投げかけられた楊ゼンの台詞に太公望はぎくりとした表情を浮かべる。脱力していた肩に再び力が戻った。余程後ろ暗いところがあるのか慌てた様子で顔を上げ、うろうろと視線を彷徨わせる。
そんな太公望に、楊ゼンは苦笑をもらしつつ助け船となる提言をした。
「よろしければ、僕と書庫で捜し物をしていたことにしておいてあげましょうか?」
そう言うと楊ゼンは手にしていた木簡を差し出して太公望の目の前で揺らした。
「…む〜」
「心配しなくても見返りをくれ、なんて言いませんよ。…と言うより、もう先払いでもらっちゃいましたけどね」
楊ゼンの言葉に、先程のことを思い出したのか太公望の頬が紅潮する。
「楊ゼン〜」
手にした頭巾を振り上げて肩口を軽く打ってくる太公望の仕草に、楊ゼンは微苦笑をもらすと、唇に指を当てた。


「秘密ですね」
「…秘密だ」


上目で睨む太公望に軽く笑い返し、楊ゼンは立ち上がると手を差し出した。
「はい」
太公望が見上げた先にあるのは、光で満ちた青い空と、それ以上に青く輝く彼の姿。
眩しさに目を細めるように小さく笑うと、太公望は腕を伸ばし、しっかりとその手を取った。








― 終 ―










小説部屋へ   トップページへ