薄藍色の闇の中、濡れたような輝きをもって天上高く浮かぶ白い満月に照らされて、無数の真白い花が風に揺れている。
真昼の陽光の中であれば青々と鮮やかな色をたたえる草原も、今は深い眠りについた昏い緑の色をしているというのに、それはまるで天の瞬きを地上に写し取っているかのような艶やかさで咲き誇っていた。
風にさざめくたび、りん、と音のしそうな程に澄んだ、気貴い花弁の一枚一枚からは、類い希な水蜜の匂いが漂う。
陽が落ちきってしまった後の、この闇が支配する刻にしか開くことのない、夜明けを迎えるころには硬く萎んでしまう真白い花。
月の光を閉じこめて煌めく月長石は、この花に触れた夜露が結晶したものだと誰かに言われれば、そのまま信じてしまいそうだった。
風も穏やかな、静かな宵。
ほろほろと零れる月光の下、並んで盃を交わす二つの影がある。
一方は、花と同じ色をした頭巾の結びを、やはり花と同じに風にたゆたわせながら、硝子製の盃を口へと運び、もう一方は、そろいの盃を手にしてはいるものの、あまり進んではいない様子で手の内に納めたまま、ただ傍らの彼が旨そうに酒を飲み干していくのを目を細めて眺めている。
戦乱の直中、二人は見張りの衛兵くらいしか起きているものはいないであろう真夜中に宿営地を抜け出し、この場所に訪れていた。
日中は激務に追われ、あれほど忙しなく過ぎていった時間が、どうしてか今は、ゆっくりと流れていく。
「綺麗ですね」
それまで静かに太公望のことを見つめていた楊ゼンが、息を吐き出すような声音で呟いた。
「ああ」
眼前に広がる花を眺めたまま、太公望が応える。
「…あなたが」
楊ゼンの言葉に、太公望はゆっくりとした動作で彼の方に目をやると、呆れたような表情で溜息を吐いた。
「…そういった台詞は、おぬしに言われても嫌味にしか聞こえんのう」
そう言って苦笑を零す太公望の目の縁は、酒のせいか、ほんのりと紅い。
「綺麗ですよ」
そう言って月下の元、輝くばかりの花の中にいても、けして見劣りすることのない蒼髪の麗人が、美しい翳りに縁取られた双眸を細めて、あざやかに微笑む。
その様を目にした途端、不意に感じた胸を刺す痛みを悟られぬように、太公望は手にした盃の酒を一息に煽った。
甘い刺激が喉に流れ込み、潤していく。
唇が盃から離れると同時に、太公望の唇から微かな吐息が漏れた。
「はい」
顔を上げれば、甲斐甲斐しく徳利を差し出す楊ゼンと目があう。
さも当然、といったふうに、幾分ぶっきらぼうな仕草で、無言のまま盃を持った手を突き出すと、盃とは対で造られた、やはり硝子製の徳利が傾いだ。
透き通ったそれは、中の液体が白い波紋をつくり、月光を受けてきらきらと光る様までも太公望の眼に映す。
それに目を奪われているうちに、いつの間にかなみなみと注がれていた酒に思いがけず驚いて、太公望の指がふるえた。
「…っと」
酒器が澄んだ微かな音を立ててぶつかり合い、弾けた酒の滴が太公望の、その手に見合わぬ、大きすぎる手袋にいくつかの染みをつくる。
「何してるんです。…もしかして、もう酔っていらっしゃるとか?」
苦笑まじりに投げかけられた楊ゼンの問いに、太公望は手袋についた水滴を振り落としながら答えた。
「ああ…そうだな」
思いのほか。
なみなみと注がれた酒を、やはり一息に煽り、太公望は再び盃を楊ゼンへと向けた。
「酔っておるようだのう…」
おぬしに、と、最後に思った言葉は唇にはのせず。
「貴方が? もう?」
芝居がかったような、大袈裟に目を大きく瞠る動作をして、それなら、と楊ゼンは徳利を自らの脇に置き、太公望の手首を柔らかく掴んだ。
「酔っているのを自覚なさっているのなら、もう程々にしておかないといけませんね」
空の盃を、楊ゼンの手に、やんわりと奪い取られて、太公望は如何にも不服といったふうに彼を睨む。
しかし、その唇は半月の弧に似た曲線を描き、それに気付いている楊ゼンも別段堪えたようでもない。
しばらく目を合わせて笑いあった後、楊ゼンは、ふと手に触れた太公望の手袋が思ったよりも酒で湿っていることに気付き、既に夜風のせいで冷たくなってしまっているそれを、彼の手から抜き取った。
楊ゼンの目に、白く、小さな手が映る。
武王を助け、幾万の軍勢を操っていることなど、この手だけを見てでは想像もつかないであろう。
思えば彼の装束は、体のその部分を誇張しているようなつくりになっているような気がする。
例えばこの大きすぎる手袋だとか、大きく張り出した肩の線だとか。
まるで小さな生き物が、威嚇でもしているような。
惹き寄せられるかのように、太公望の、酒に濡れた小さなアーモンド型の爪に、楊ゼンの唇が触れる。
楊ゼンに手を伸べたままの姿勢で太公望は双眸を細めた。
あの、先程も感じた何とも言えない痛みが、再び太公望の胸中を波立たせる。
この男を、封神計画を進める上での片腕としてではなく傍らに置くようになったのは、いつの頃からであったろうか。
太公望は、楊ゼンから目を離せないまま、そんなことを考えていた。
今、自分の指をなぞっている、形の良い唇で、思い出せば恥ずかしくなるほどの睦言を、何度も囁かれた。
根気よく。
それは雨垂れが硬い岩を穿つように太公望の心に跡を残していき、気付けば内面の深い部分にまで滲み込んできていた。
例えばこんなふうに、酒が胃の腑を満たす時に感じる心地よい熱のように。
やはり酔っているのだ。
この、男に。
長い睫が影を落とす目元を眺める。
闇の中で一面に咲く、天の瞬きにも似た美しい花でさえ、この男の前では霞んでしまう気がする。
そもそも彼は闇の中でしか咲けない花ではない。
確かに宵闇は、彼の艶やかなまでの美しさを際立たせはするが、しかし日差しの中での彼は、雄々しい生命力に満ちた美しさをもって周囲を惹きつける。
二つとも、太公望の惹かれる彼の姿だった。
風が吹き抜けていく。
それは草原の上を滑り、ざわざわと音を立てた。
「…ねぇ、寒く、ないですか?」
それをきっかけとしたのか、ふと、まるで思い出したかのような口調で楊ゼンが口を開いた。
お決まりの台詞だな、と心中で呟き、太公望は、いいや、と首を振って返す。
「僕は、寒いです」
楊ゼンの手は、見た目の秀麗さに似つかわしくないほど大きくしっかりしていて、こんなふうに手を重ねあわせると、自分の成長しきっているとは言えない手の小ささが強調されて、太公望はどこか面白くない。
楊ゼンの指先に力が込められ、太公望は、その懐へと引き込まれた。
服を通して、硬い筋肉の感触が太公望の頬に触れる。
力強い楊ゼンの腕を背中に感じて、太公望は微かに笑った。
「暑っ苦しい」
「黙ってて下さい」
楊ゼンが眉を顰めたのが、見えなくとも気配と、その口調でわかって、太公望はクククと笑いながら憎まれ口を続ける。
「人を酔わせてことに及ぼうなど、色男にしては撚りのなさすぎる手だのう」
「それなら、あなたも酔ったふりをして誘わないで下さいよ」
楊ゼンの溜息が、耳の後ろに聞こえる。
いつまでも笑い止まない、腕の中の恋しい人に対して、楊ゼンはいささか乱暴な声音で、師叔、と呼びかけた。
「…って、あなたもしかして本当に酔ってるんですか? ね、師叔?」
しかし、師叔、と最後の呼びかけの声は、太公望の行動によって遮られる形となる。
太公望は、今まで楊ゼンの胸元に埋めていた顔を急に上げると、驚く彼の頬を両手で挟み込み、その目を、じっと見つめた。
「…師叔?」
不意打ちのような彼の行動が読めず、楊ゼンは困惑した表情を浮かべて太公望を見つめ返すことしかできない。
光源は月、しかも逆光のため、はっきりと見えるわけではないが、楊ゼンの、同性の目から見ても綺麗な顔が、所在なさげに惑うのが、また可笑しくて、太公望は口角を上げた。
「…冗談だ。酔ってなどおらぬよ」
太公望は楊ゼンの頬から両手を引くと、そのまま彼の胸を軽く押しやるように体を離した。
「わしが、あれしきの酒で酔うわけなかろう」
思いがけず離れていってしまった温もりを惜しむように、楊ゼンは一瞬手を伸ばしたが、その手を太公望は身を翻してかわしてしまう。
そのまま、先程取り上げられてしまった盃を楊ゼンの元から取り戻すと、太公望は再び楊ゼンの方に視線を戻した。
「せっかく花見酒と洒落こんでおるのだ、野暮なことはすまいよ」
「…野暮なことでもないと思うんですけどね」
楊ゼンは肩を竦めて溜息混じりに呟くと、仕方ない、といった風情で脇によけていた徳利を手に取ると太公望の方へと向ける。
「ではもう一献」
すすめられるまま、太公望は盃を楊ゼンの方へと差し出した。
― 終 ―
|