精神安定剤的きみの…








「…や、やっと終わっ…」
最後のサインを書き終えて、俺はガチガチに固まった指からペンを引っ剥がすと、もはや虫の息で机に突っ伏した。
デスクの上にはワンコソバの椀の如く積み上がった書類タワーが、不安定に揺れている。
面倒だなんだと溜めに溜めていたら、いつの間にか面倒というよりも見たくない量に膨れ上がった。
悪循環とはよく言ったもので、そうなってくると今度は溜めたくなくても溜まっていく。
しかし仕事には期日というものが存在して、しかもそれを見逃してくれるほど上司は優しくなく。
しかし。こんなにデジタルな会社だというのに、いつまでたってもこういったアナログな仕事をさせるのはいったいどこのだれの嫌がらせだろうか。


「自業自得とは言え、お疲れさま」
労っているのかいないのかという声をかけられて、伏した腕の隙間から上を見やれば、伸ばされた手に湯気の立ったカップが見えた。
「…さんきゅー」
しかし体のだるさに負けて、そのままの姿勢でなおざりとも取れる礼を言えば、こめかみにカップを押し当てられて盛大に悲鳴を上げる破目になる。
「ッア…ッチィ…ッ!!!」
「お礼を言う姿勢じゃないでしょ」
「おまえな…!」
急に起き上がった衝撃でグラリと揺れた紙の山を慌てて押さえ付け、疲れ果てた同僚に傷害(そうだもはや暴行だ)を負わせようとした相手を睨みつける。が、しかし彼女はどこ吹く風で、机の上、顔を上げたことで出来たスペースにカップを置いた。
「はい、どうぞ」
「…アリガトウゴザイマス」
これでまた適当な返事でもしようものなら、今度は中身をぶっかけられかねない危険もある。
俺はせめてもの意趣返しにバカ丁寧な口調で返したが、それが相手に伝わっている確立は限りなく0に近いんだろう。


「ホラ、メンバーの誼みであとはやっといてあげるから、それ飲み終わったらアンタはさっさとシャワーでも浴びてきなさいよ」
「あ? いいよ別に。このままで」
ほぼ徹夜仕事ではあったが、デスクワークのみだ。
空調の効いた室内での仕事は、普段の肉体労働とは違って汗を(時間までに終わるかと冷や汗こそかいたものの)かくこともなく、物騒な血飛沫を浴びることもなく、臭いなどはさほど気になるものではない。
後をやっておいてくれると言う申し出はそのものはありがたかったのでお任せするとしても、この後の任務のことを考えればシャワーなんか浴びる暇があったらまず仮眠を取りたい。
飲み込んだ濃いエスプレッソコーヒーで疲れた意識をいくらか覚醒させてそう言えば。
「何言ってんのよ、この後の任務で一緒にいなきゃならないこっちのことも考えなさいよ」
そんな臭い人となんてとてもじゃないけど仕事出来ないわ、と顔をしかめておおげさに首を振った。
ただでさえ疲れているというのにそんな悪態をつかれ、俺もむっとしながら、言い返す。
「お前だって臭いだろーが」
「ちょ…っ、何よ失礼ね! 私のどこが臭いって言うのよ!?」
憤慨する彼女に、俺はふんと鼻を鳴らした。
「だって臭ぇじゃねーか」
だん、と机の上に叩きつけられた拳をちらりとみると、その手首をつかんで引き寄せる。
さすがに予測してなかったのか、バランスを崩して呆気なく腕の中に収まった彼女の耳の後ろに鼻を押し付ける。
「…あれ? 臭くねー。なに、今日は付けてねーの?」
そう言うか言わないか、突き飛ばされるように密着した体を剥がされた直後、頬に熱いくらいの衝撃を受ける。
ジンジンと痺れる感覚に、頬を打たれたことに気づく。
いつもなら避けられるのに、さすがに今日は疲れていたのか見事クリーンヒットだ。
うん。これはやっぱり仮眠が先だな。
なんて事をぼんやり考えていると怒声が飛んできた。
「いきなりなんてことするのよ! っていうか、隠密が必須のタークスが仕事中に香水なんて付けないわよ!」
バッカじゃないのと怒鳴って、真っ赤な顔でプイとそっぽを向く。
うん。でもその前に。
がたり、と席を立てば、こらえ切れなかった書類が机上で雪崩を起こす。
しまったと意識の隅で思ったものの、もはや倒れてしまったものは仕方ない。
…後はやっといてくれるって言ったし。
俺は急な行動に驚いて目を瞬かせている彼女を抱き込むと、先程と同じように耳の後ろに鼻を押し付けた。
仮眠の前に栄養補給。
「あー、うん。よく眠れそうな匂い」


「…あいつらは俺達がいるの見えてねぇのかな、と」
「なぁ、その…、あの二人はそういう仲なのか?」
「ツォンさん、今その質問はヤボですよ、と」









― 終 ―










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