据え付けの柱時計をちらと眺め遣り、カミューは言った。
「そろそろ日が変わります。御注意を」
「う、うむ」
入団時の面接も斯くやといった姿勢で椅子に固まっている第一隊長。返事こそするものの、何処か目が泳いでいる。肝心なのはこれからだというのに、すっかり体力を使い果たしてしまっているようだ。
やれやれ、とカミューは自室の寝床に思いを馳せた。
普段なら眠気が襲うような時間ではない。だが、このところの超過勤務の連続で、慢性的な睡眠不足に陥っているのだ。請われて詰めているとは言え、上位階者の前である。さりげなく顔を伏せ、欠伸で涙目になっているのを隠す気遣いは欠かせない。
寝ずの番を請け負ったは良いが、今まで散々つらく当たられた相手だ。考え方を改めたと聞かされたところで、すぐに馴染めるというものでもない。
黙っていては気詰まりなので、何とか会話を向けようと努めるも、碌に知らぬ相手とあっては話題にも事欠く。それに、襲撃に怯える第一隊長は半ば上の空、良き歓談相手に成り得ぬまま現在に至っているのだった。
何処かで「ファントム」が様子を窺っているなら、さぞ訝しんでいるに違いない。
小さな卓を挟んで向かい合って座す二人。片方が話し掛けても、今ひとりはもじもじと座り直すばかり。さながら見合いの席である。しかも、あまり上手くいっているとは言い難い初顔合わせの場。
カミューの憂いは第一隊長にも同じだったようだ。はたと思い出したように手を打ち、腰を浮かせ掛けた。
「そうだ、一杯やるか? なかなか良い辛口の白ワインがあるのだが」
「いえ……有事に備えて、酒は控えておきます」
それでなくても眠気を堪えているのに、ここで酒など入ったら覿面だ。酒豪を自称するマイクロトフにも勝る身だが、そこは自制がはたらいた。
日が変われば、警告時間経過と見た「ファントム」が行動に出るかもしれないのだ。捕縛する機会を逃してはならない。辛口の白ワインには惹かれるが、目先の嗜好品より赤騎士団の安泰が第一である。
「……どうも落ち着かぬ。何ぞ暇を潰す良い手はないものか」
第一隊長はきょときょとと室内を見回すが、これといって目を引くものがない。彼はちらとカミューに視線を戻した。
「何かないか。貴様、余暇はどうやって過ごしているのだ」
「そうですね……、書物を読んでいるときが多いかと」
「ここで向き合って個々に本を読んでいたら変ではないか。わたしが問うているのは二人で出来る暇潰し、友人との過ごし方だ」
友人と聞いて真っ先に浮かぶのはマイクロトフの顔だ。否、他に浮かばないというのが正しいかもしれない。ただ、彼と共有するひとときほど答えづらいものはない。カミューは珍しく途方に暮れた。
「酒を酌み交わして、話をして……」
「それから?」
「それから…………」
口篭ったカミューを一瞬だけ待って、唐突に第一隊長は吹き出した。
「何だ。器用だ何だと評されているから、さぞ興味深い余暇を過ごしていると思いきや、平凡極まりないではないか。存外に普通の男だったのだな」
はあ、と小さく頷く。
マイクロトフとの付き合いは、ある意味、非凡の極みだが、このまま誤解させておくべきだろう───互いの心の平安のためにも。
「やはりアレだな、わたしは偏見を元に貴様という人物像を作り上げていたようだ。ひょっとして、決まった女もいなかったりするのか」
「……はい」
決まった相手はいる───が、男だ。嘘は言っていない。
第一隊長は、そうかそうかと何度も頷いている。
「接してみなければ、他人を理解するのは難しい。わたしはそんなことも忘れていたのだな……」
しみじみとした悔恨の響き。見守るうちに、カミューの胸に仄かな火が灯った。
地位に溺れ、本来在るべき姿を忘れる。それは誰でも陥りかねない落とし穴だ。仰ぎ見られ、褒めそやされているうちに、精進を怠り、立場に安穏として、いつしか傲慢に足を踏み入れる。
人の上に立つからこそ、謙虚でなければならない。常に己を顧みて、託された地位に相応しい人間であるかを自問し続けねばならないのだ。
この第一隊長はそれを思い出した。自らを諌め、やり直したいと願っている。
ならば応えよう、カミューはそう思った。
今宵「ファントム」から彼を護る。誇り高き騎士隊長に戻る機を潰してはならない。
「騎士を動員させてください」
身を乗り出してカミューは言った。
「第一部隊を動かすのに抵抗がおありなら、わたしの部隊騎士でも構いません。必ずや「ファントム」を捕えます」
第一隊長は眩しげに瞬いた。力強い宣言を受けて、微かな喜色と懸念が交錯する。
「だが、カミュー……」
言いたいことは色々あったようだが、言葉は続かなかった。開いた唇が矢庭に震え出し、ぱくぱくと開閉を繰り返す。
「どうなさいました?」
それは殆ど反射だった。第一隊長の視線が向かう先、背後に位置する窓を振り返ったカミューは、硝子の外、ぽっかりと浮かび上がる白面に息を呑んだ。
面だけがゆらゆらと揺れて見えるのは、黒いマントが闇に同化しているからだ。振り子のように左右に緩慢に動く純白の仮面に瞳を当てたまま、第一隊長がくぐもった呻きを洩らす。
硝子越しに対峙したのは一瞬であった。白面は、カミューが立ち上がるのと同時に掻き消えた。
蒼白になった第一隊長が剣の柄に手を掛けている。
「カ、カ、カミュー。いっ、今、今の……」
「分かっています」
「ここは三階だぞ。奴め、浮いて───」
カミューは素早く窓を開け放つなり、上方を仰いだ。
「落ち着いてください、上からロープを伝って降りてきただけです」
言いながら窓枠に足を掛けて手を伸ばす。
「どうするつもりだ?」
「追います」
「ま、待て!」
既にロープを掴んで窓枠を蹴ったカミューが──第一隊長には下半身しか見えなかったが──微笑んだ。
「このまま留まり、何があろうと決して部屋からお出にならないでください」
「よせ、危険だ! いや……、彼奴が貴様に危害を加えることはないかもしれぬ。だが、三階なのだぞ。落ちたらどうするのだ!」
引き攣った声が追い掛けるも、既に時遅しである。カミューは闇に翻る黒衣を追って宙を舞っていた。人影の揺れる上方と、黒い植え込みが並ぶ下方とを交互に見遣りながら、第一隊長は苦悩の呻きを振り絞った。
「カミュー、戻れ! もう良い、無理をするな───これは上官命令だぞ!」
思い出せぬほど久々に、彼が他者を思い遣って発した命令は、静かな夜風に溶けていった。
端正な容貌に似ず、カミューは身軽だ。ロープを頼りに石壁を蹴り登るくらいは造作もない。
唯一の不安は、手にしたロープが怪人と自身、二人分の体重を支え切れるか否かである。上を行く怪人の動きで不規則に撓むロープを掴むたびに、その限界をカミューは慎重に吟味した。
どうやら怪人は登頂を果たしたらしい。石の縁を越す所作によって闇色のマントが大きく広がった。状況を確認する目的か、ちらと白面が覗き下ろしてきたが、すぐに視界から消え去った。
追跡を阻むつもりはないようだ。もっとも、ここで断念させるにはロープを切るしかない。これまでの説を容れるなら、怪人はカミューのために暗躍しているのであり、その当人を傷つけるのは本末転倒なのかもしれないが。
時置かず、カミューも屋上の縁に手を掛けた。懸垂の要領で一気に体躯を引き上げて縁を越した瞬間、屋内の階段へと続く扉に向かって駆ける黒衣が目に入る。続いて石床に降り立った彼は、素早く右手を掲げた。
「止まれ!」
一度でも配下となった者ならば縫い止めずにはおかぬ凛とした一声。扉に迫った怪人もまた、その場で速度を落とした。
ほんの小さな躊躇を、カミューは逃さなかった。すかさず発動させた紋章の焔が怪人と扉の間に走り、文字通り壁となって前途を塞ぐ。行く手を失った怪人は、ゆるゆると足を止め、何事か思案するように俯いた後、静かに向き直った。
脆い月灯りの下、炎を背に立ち尽くす怪人───たっぷりとしたマントが身体の線を覆い、異様な白面が顔を隠していたけれど、その者の持つ気配はカミューの五感を鋭く突いた。
「面を取れ」
一歩、また一歩と近付きながら低く命じる。
「これまでの所行、わたしのためだというのなら、顔を晒して正面から向き合え」
間合いほどの距離を残して足を止めると、怪人のくぐもった溜め息が聞こえた。カミューは幾許か語調の険を和らげた。
「自らの手で、そのおかしな仮装を解いてくれ。でないと話も出来ない」
聞くなり、逞しい影は更に肩を落とした。
「……おまえが居たとは誤算だった」
面に塞がれた掠れ声が呟く。カミューの見守る先、「ファントム」はゆっくりと仮面に手を掛けた。
束の間の逡巡に続いて石床に落ちたそれは、砕け散り、炎の照り返しを浴びて薄紅く輝く。騎士団に棲み付いた怪人は、ほんの刹那で見慣れた男へと変貌を遂げた。俯き加減だった顔を上げ、彼は真っ直ぐにカミューに瞳を当てる。
「赤騎士団の位階者中、最も高圧的とされる第一隊長が、おまえに頼るとはな。まるで考慮していなかった」
「予期せぬことは何処にでも転がっているものだよ」
カミューは力を抜き、長い息を吐いた。
「わたしも今、それを痛感しているところさ。さあ、説明して貰えるのだろうね? 何故おまえなんだ、……マイクロトフ」
間近に対峙するのは最愛の男。正義の二字を信条に生きてきた騎士だ。
赤騎士団の中枢を担う男らに、蛙や生ゴミ、馬糞まで仕込んできた脅迫者とはおよそ結び付け難い青騎士隊長マイクロトフ。
長い沈黙を経て、漸く彼が口を開き掛けたのと同時に、石縁の向こうに悲鳴が轟いた。驚いたカミューが縁に取り付くと、遥か下方、庭の植え込みのあたりで大の字になった第一隊長が小さく見えた。唖然とする間もなく、縁の先でぷっつりと切れたロープが目に入る。
「追って来ようとしたのだな」
足音も立てず隣に並んだ男が言った。
「頑丈なものを用意したつもりだったが、三人に使われては酷使が勝ったらしい」
「のんびり分析している場合か、三階から落ちたんだぞ!」
だが、マイクロトフは悠然と首を振る。
「大丈夫だ」
「大丈夫ではないよ! あの御歳で骨折でもなさったら、治るのに時間が───」
「……掛からない。回復魔法なら一発だ」
緩やかに目を細め、彼はカミューに微笑んだ。
「戻れ、無理をするな……、おまえに向けて放たれたあの叫びは相当に大きかった。回復魔法札を持った人間が急行して処置するだろう」
カミューは幾度も瞬きながら愛する男を凝視した。
闇と同化していたのも道理だ、マイクロトフは足元まで届くマントの下にも黒の装束を着けている。もう仮面はないというのに、落ち着き払った態度の所為か、まるで違う男に感じるのが不思議だった。
「マイクロトフ、いったい……」
呼び掛けに男が答えるより早く、棟の一階出入り口から数人の騎士が飛び出して、植え込みに埋まった第一隊長の許へと駆け寄っていった。それを見届けたマイクロトフは、石縁に背を預け、ゆっくりと目を閉じた。
「……もともと「ファントム」は今宵限りで消える筈だった。長い話になるが、聞いてくれ」
青騎士団・第五隊長マイクロトフは城内に流れる噂話に疎かった。
賭け事で俸給を使い果たした者や、街の娘に告白して振られた者、そうした個人の事情は、たとえ耳に入っても、そのまま出て行ってしまい、記憶に留まろうとしない。
けれど、そんな彼にもたった一つ、努めて収集して回る噂話があった。所属の違う親友、最愛なる赤騎士カミューについての情報である。
自らが着実に位階を上げているのに、力量ではそれ以上と認めるカミューが無位のままなのが不思議でならない。幸い、赤騎士団内には士官学校の同輩・後輩がいる。そうした者たちから、逐次情報を得ていたのだった。
戦没者が出ない以上、誰かが辞さない限り位階は空かない。ところが赤騎士団の位階者たちは、そこそこ高齢であるにも拘らず、まるで退く気配を見せないのである。
そんな内情に気を揉んでいるのは団員たちも同じだった。特に顕著だったのが、カミューの所属する第一部隊騎士たちの憤懣だ。
カミューは、入団して数年のうちには仲間から絶大な支持を受ける存在になっていた。比類なき才覚を部隊長に愛され、副官に取り立てられて久しかったし、次に隊長職に欠員が生じたときには───と、誰もが思っていた。
なのに肝心な「次」がさっぱり訪れない。そのため第一部隊長は、いっそ自らが辞して欠員を作ろうかとまで思い詰めた時期があったようだ。
この捨て身の案は、先代赤騎士団長に却下されたという。彼は筆頭隊長でありながら比較的若く、良心の塊のような人物であったから、赤騎士団長の判断は妥当だったと言えるだろう。
それは唐突に訪れた。
己の体力的限界を真摯に受け止めた第二隊長が辞意を固め、後任を決める中央会議が開かれたのだ。
カミューを推薦するため意気揚々と議場に向かう第一隊長、その背に期待の眼差しを送る部下たち。彼らの望みは、しかし無情に打ち砕かれた。
閣議での遣り取りには守秘義務がある。詰め所に戻ってきた第一隊長は、部下たちに何ら事情を洩らそうとはしなかった。だが、彼の憤然とした顔に驚いた騎士たちは、即座にお得意の諜報活動を開始したのだ。
結果、掴んだのは呆然とするような顛末。第一部隊の光、美しく聡明なカミューが、出自を理由に退けられたという忌むべき事実であった。
位階者たちは、所属部隊を問わず、赤騎士たちが愛してやまないカミューを散々に扱き下ろし、「騎士隊長の地位に見合わず」との烙印を押したのだった。
「……教えてくれた同期騎士の鼻息も荒かったが、おれもあのときは堪らずグラスを握り潰してしまった」
マイクロトフは懐かしげに苦笑した。
出自、年齢の如何に拠らず、実力のみを評価する。
騎士団の信条が建前に過ぎぬと思い知らされた日。
そんな詰まらぬ理由で才覚を無視されたとも知らず、常と変わらず淡々と任をこなすカミューの姿が切なく、けれどマイクロトフには理不尽が正されるよう祈るしかなかった。
次の機会は悲劇と共に訪れた。
ハイランドとの国境紛争で出陣した赤騎士団から、団長と第一隊長、二人の位階者が失われたのだ。詳細を聞いたマイクロトフは、人格者として著名だった二人の死を心から悼んだ。
戦場でのカミューのはたらきには目を瞠るものがあったという。帰還した赤騎士の中には「カミューに助けられた」と感謝するものも多く、尚且つ、彼が自部隊長を救えなかった自責に苛まれているのを案じる声も聞かれた。
仲間を護る武勇、責任感に厚い彼は、亡き上官のためにも絶対に上へ行くべき人間であると騎士たちは口を揃えていた。
だが───
マイクロトフは気付いたのだ。第一隊長という公正なる支持者が没した今、カミューの騎士隊長昇格は更に困難になってしまったという事実に。
もはや彼を推挙する声が出るか、それすらも微妙なところだ。亡き人の意を継ぐに誰よりも相応しい青年が、またしても無視されるなど耐え難い。
気付けばマイクロトフは自室で筆を握っていた。そうして、鬱屈した心情を書き殴った文を、拾った石に括り付けて、赤騎士団の中央会議が行われている部屋を望む中庭に向かい、文字通り閣議に「一石を投じた」のだった。
「あのときは何かに取り憑かれていたとしか思えない。居ても立ってもいられず、気付いたら庭に……。頭を冷やして考えれば、脅迫めいた文を投げ入れるなど、騎士にはあるまじき行為だというのに」
嘆息混じりに自戒を零したマイクロトフに、カミューもこくりと同意の首肯を与える。
「窓を割ったのは猛省すべきだよ。第一、危ないじゃないか」
「部屋のつくりや机の場所は青騎士団が使う東棟と同じだし、なるだけ人の居ないあたりを狙って投げたつもりなのだが。硝子代については、いずれほとぼりが冷めたら弁償しておこうと思っている」
人に意見するからには、名乗るのが筋だとマイクロトフは考えていた。だが、カミューとの交友が周知であるため、これが躊躇われた。万が一にも、カミューが親友を使って閣議に物申したなどと取られたくはなかったからだ。
そこで、仮の名を使おうと思い立った。ここで「ファントム」と記したのは、少し前に領内の視察に出掛けた際に退治した魔物が頭を過ったからに過ぎない。
「……つまり、「ピンクバード」とか「ピクシー」になる可能性もあった訳か」
脱力しながら呟くと、マイクロトフは神妙な顔で言い募った。
「後から考えると、仮名もまずかったな。あの日、不在だったから良かったようなものの、下手をするとおまえが疑われかねなかった」
「任を解かれていたからね、隊長の御家族に遺品を届けに行っていたんだよ」
軽く往なして、カミューは表情を引き締めた。
「すぐに騎士が呼ばれて、投石犯を追ったと聞いたが……よく逃げ切れたな」
「それがな」
ふと、マイクロトフは眉根を寄せて微苦笑を浮かべる。
「知っての通り、逃げるという行動はおれの性に合わない。それに相手は起動性に優れた赤騎士団員だ。幾らも行かないうちに、あっさりと捕まってしまった」
そこで初めてカミューは言葉を失った。記憶を整理するように視線を巡らせ、とつとつと問う。
「……追跡むなしく、捕まらなかったと聞いたが?」
「そうではない。見逃してくれたのだ」
追跡の末、捕えてみれば、投石犯は青騎士団・第五隊長という意外きわまりない人物。困惑した赤騎士らは、人目につかぬ場所へとマイクロトフを誘導し、事情を説くよう求めた。そして、彼の行動の理由がカミューの昇格云々にあったと知るなり、その場で隠蔽工作の方針がさだまった。
彼らの心はマイクロトフと同一だったのだ。自制が勝って誰にも出来なかったことを果たしたマイクロトフは、謂わば英雄にも等しい存在であったらしい。
報告された投石犯の風体───フード付きの黒マントと白面は、赤騎士たちの捏造、実体のない幻に過ぎなかったのである。
「では……わたしは、騎士隊長位に就いた時点からおまえの手を借りていたのか」
ポツとした響きに、マイクロトフは慌てて首を振った。
「前に、位階者の中でも気遣ってくださる方々がおられると言っていただろう? これは後から聞いた話だが、どうやら彼らが推してくださっていたらしいのだ。おれの脅しは、あの閣議では意味を為さなかった。おまえが後ろ暗く思う必要は何ひとつないぞ」
カミューは少し考えて、納得しようと努めた。辞めていった位階者たちが、当初は「ファントム」の脅迫を軽く見ていたという説を思い出したのだ。ならば、投石が一同の意見を左右することはないだろう。
小さく息をついて、真っ直ぐにマイクロトフを見詰める。
「そこまでは分かったよ。でも……その後も脅迫が続いたのは何故だい?」
マイクロトフは僅かに目を伏せた。
「おまえは欠けた第九・第十隊長のうち、下位に充てられた。新たに第九隊長に就任した騎士より優れていたのに」
「それはおまえが決めることじゃないよ」
「おれだけではない! 士官学校同期の赤騎士も、投石を見逃してくれたものたちも、皆が思っていた。おそらく、そこでも下らない偏見がはたらいたのだろうと……誰もが憤っていたのだ」
一同の見立ては正しかった。カミューより上位に叙された人物は、程なく実力の危うさを露呈したのだから。
不用意に魔物を深追いして負傷して、結局は隊長位を返上する羽目に見舞われた。気の毒ではあるが、部下の忠告を無視した結果だから仕方がない───それが赤騎士らの見解だった。
ともあれ、これでカミューは一つ地位を上げるが、その先どうなるかは分からない。赤騎士団の中枢が変わらぬ限り、力量は正しく評価されない。改めて暗澹を噛むマイクロトフに転機が訪れたのは、正にこのときだったのだ。
ある日、赤騎士たちに呼び出された。
そこで聞かされたのは、現在の赤騎士隊長らの驚くべき実態だ。位階に執着して騎士団を辞さないというのは置いても、戦場での怯懦ぶりや部下への慈しみの欠如は聞き捨てならず、逐一マイクロトフの怒りを煽った。
地位に溺れて道理を忘れた位階者を退場させる───赤騎士らの意は固く、マイクロトフはこれに賛同するかたちで一同の輪に連なったのだった。
「その後は、……分かるだろう? おれたちは、おまえより上位に就く騎士隊長の中で不適格と判断した人物を排除してきた」
カミューは呆然とした。暫し男を凝視して、それから小声で呻く。
「おれ……「たち」? それでは「ファントム」は───」
「赤騎士団の各部隊から十数名ずつ、同じ目的のために集った同志の総称だ。おれが最初に使った偽名をそのまま引き継いだ」
「各部隊から、って……合わせたら百人にもなるじゃないか!」
驚愕のあまり声を上擦らせるカミューの眼前、マイクロトフは泰然と胸を張った。
「構成員は従騎士や従者にまで及ぶ。だから実際には、その倍は行くぞ」
赤騎士団に棲み付いた脅迫者「ファントム」───
捕まらない訳である。総勢二百名から成る騎士の集団であったとは。
唖然として、もはや言葉も出ないカミューに構わず、マイクロトフは説き続けた。
「おまえのように優れた騎士に上に行って欲しい、忠誠を捧げるに値しなくなった騎士隊長に消えて欲しい。双方を満たすために形成された一団だったのだ、「ファントム」は」
「…………」
「これが、なかなか考えられた組織だったのだぞ。欠員によって次の騎士隊長になる可能性を持つ小隊長級の人物は、構成員に入れていない。おまえも感じたように、工作によって昇格したと自責を負わせたくなかったからな」
そこでふと、自嘲とも苦笑ともつかぬ笑みが洩れる。
「逃げ足の遅さから、おれは早々に実行部隊から外されてしまった。代わりに与えられた役どころは「標的の前にちらつく影」だ。この大仰なマントや仮面を付けて動き回れば、話の種になる。それこそ「ファントム」なる脅迫者だと印象付ければ、組織名とは誰も思わないだろう?」
うん、と力なくカミューは頷いた。
「わたしも、思わなかったよ……」
「工作から除外する位階者は、赤騎士らの意見で決めた。団長は接する機会が少なくて、どういう人物か今ひとつ判別し難いという点から無条件で外したが……残る二人は、おまえに好意的な方たちだった。おれも嬉しかったぞ」
「今の副長と第三隊長は、穏やかな人格者として、前から団員に慕われていたからね……」
「標的を追い詰める手段は赤騎士に任せた。生命に危険がなく、それでいて辞めたくなるような脅迫行為。とてもではないが、おれには考え付かなかったからな」
そうは言うが、ゴミや蛙だよ───と、心中で呟かずにはいられないカミューである。
考えてみれば、様々な嫌がらせ行為は、所属の異なるマイクロトフ単独で施せる仕掛けではない。
内密に合鍵を持ち出して騎士隊長の部屋に侵入するのも、赤騎士団員ならば可能だった。例えば合鍵を管理する騎士が「ファントム」構成員なら、部屋の扉は開きっ放しも同然だ。
騎士隊長らが仮面の不審者を追おうとしても、連携を駆使して妨害すれば事足りる。泥水事件が起きたときに「ファントム」に遭遇したと証言した騎士も、ひょっとしたら構成員の一人だったのかもしれない。
二百名あまりの赤騎士団員は、象徴的存在──あるいは撹乱要員──としてマイクロトフを戴き、せっせと脅迫行動に勤しんだ。それは、自団に蔓延した悪しき風を払拭するための切羽詰まった決断だったのだろう───多分。
「でも……、確かに命に別状はないかもしれないけれど、あれは度が過ぎているんじゃないか?」
「どれだ?」
「……第二隊長。ブーツに馬糞を入れるなんて、あんまりだ」
ああ、と光景を想像してしまったようにマイクロトフも顔を歪めた。
「だがな、カミュー。一応それなりの理由はあるのだぞ」
数日前のことである。
巡回に出るため厩舎を訪れた第二隊長は、馬具に些細な汚れを見付けて、担当の従者をひどく詰った。「ファントム」に怯える日々が続いていたためか、鬱憤晴らしの機を得たとばかりに、平身低頭する従者を小突き回した挙げ句、部下たちの制止を振り切って突き飛ばしたのだ。
藁と馬糞に塗れて放心する少年に、騎士らは憐憫を禁じ得なかった。このとき、第二隊長への攻撃手段は決定したのである。
標的が風邪を引いて嗅覚が利かなくなっていたのも「ファントム」には好材料だったと言えよう。こっそりと部屋に忍び込んで常用する軍靴の底を削り取り、新品の替え靴に馬糞を仕込む。後は、当人が自ら悲劇に「足を突っ込む」のを待つばかり、という塩梅であった。
「そうか、そんないきさつが……。衆目の中でいたぶられた従者は、さぞ傷ついただろうね」
「第二部隊騎士らは、「思い遣りを忘れた人間にはきっと天罰が下る、だから挫けずに頑張れ」と励ましたらしい」
ならば、その攻撃内容も納得がいく───とまで言って良いのか悩めるところだが、自らの非道が巡り巡ってきたと、今頃は第二隊長も悔いているかもしれない。思考力が復活していれば、ではあるが。
カミューは背を正し、語調を改めた。
「おまえは実行部隊から外されたと言ったね、なのにどうして今宵に限って……?」
束の間の逡巡があった。やがてマイクロトフは静かに語り始めた。
「……一度に複数の隊長が辞せば赤騎士団が混乱する。色々と下準備もしなければならないし、だから一人ずつ手を打ってきたのだが、いつまで経っても落ち着かないという声が大勢を占めるようになってな。この際、第一・第二隊長には揃って退団して貰おうという案が急遽決まったのだ」
その方が、後任を選ぶ中央会議も一度で済むという訳だ。何故もっと早く気付かないのかとカミューは思ったが、それではまるで脅迫行為を是認するようなので、口を噤み続けた。
「いざ最後となって、おれは思った。同じ目的で集った同志なのに、行動を起こすのは赤騎士団員ばかり……。片やおれは、護られた逃亡経路をうろうろするだけだ。仲間が手を汚しているというのに、これで良い筈がない。だから最後の標的くらいは、と名乗りを挙げたのだ」
「本気で第一隊長に仇為すつもりだったのかい?」
これには緩やかな否定が返った。
「力の程を痛感させれば良いのだから、怪我を負わせるつもりまではなかったぞ。それに……配下の騎士の話では、もう何ヶ月もまともに訓練する姿を見ていないし、戦いには応じないだろうという見立てが強かった」
窓の外、闇に浮遊する怪人に恐怖して、第一隊長が逃亡を謀ったときには、最後の攻撃が用意されていた。
騎士たちに瑣末な情報を伝えるために設けられた城内の掲示板のすべてに、「己の身すら護れぬ赤騎士団・第一隊長」の記事が貼られる手筈になっていたのである。
「だが……意外な結末だったな。彼がおまえに助けを求め、まして案じる叫びを放つというのは誰も予想していなかった」
カミューはひょいと石縁の下を覗いてみた。落下した第一隊長を中心にして複数名の人影がある。マイクロトフが語ったように、身を潜めて成り行きを見守っていた騎士たちが回復魔法を施しているのだろう。
「……あの方は悔いておられるよ。かつての誇り高き騎士に戻りたいと望んでおいでだ。最初は請われて警護についたが、心からお助けしたいと思うようになった。人は、やり直せると信じたいから」
するとマイクロトフは温かく微笑んだ。
「分かっている。彼は行動で変心を示した。今後に期待するという点で、仲間たちも合意する筈だ」
それよりも、と不意に表情が固くなる。
「軽蔑したか、カミュー?」
「え?」
「脅迫などという卑劣な行為に出たおれを軽蔑し、罰するか?」
正面から問われたカミューの胸中は複雑だった。
確かに、脅迫によって位階者を退団に追い込んだというのは見逃し難い。しかし、団員たちは結果を歓迎している。
カミュー自身、不当な手段で地位が上がったという蟠りは残るものの、排除された騎士隊長たちが好ましい人物であったかと問われれば頷くのは難しい。発端となったマイクロトフの投石も、自らを案じるあまりの行動と聞いては、腹を立てる気になれなかった。
第一、総勢二百人にもなる「ファントム」をどう処罰すれば良いというのか。
九分九厘が赤騎士だったと報告したが最後、団長は寝込んでしまいそうだ。今なお赤騎士団は混乱の過中にあるのだ、それこそ収集がつかなくなってしまう。
長い思案の果て、カミューは大きく息を吐いた。
「もう、「ファントム」が赤騎士団を騒がせることはないんだね?」
「目的を遂行し終えたからな、これで組織は解散だ」
ならば、と唇が綻んでいく。艶やかな笑顔がマイクロトフの逞しい胸へと沈んでいった。
「……わたしは何も聞かなかったことにする。「ファントム」を取り逃がしたという汚名にも甘んじるよ。そして、他の位階者と共に赤騎士団の立て直しに励もう。「ファントム」の期待に応えられるようにね───」
この夜を限りに、異形の怪人は消滅した。
去って行ったものたちの代わりに位階を得た騎士は、みな熱心に責務を果たし、部下たちへの情愛も忘れなかった。これは、怪人による珍妙な粛清の記憶が作用したというより、去ったものたちの轍を踏むまいとする自戒がはたらいたと見る方が良いだろう。
一度は怪人の標的とされながら、かろうじて難を逃れた第一隊長は、それから一年あまりの後、多くの赤騎士から惜しまれつつ騎士団を辞した。
後任を決める閣議で、第二隊長は、実力と功績を理由に次位階に控えるカミューの特進を提唱し、これを採択された。
己の力量を正しく分析し、若輩の青年に地位を譲ろうとする男の天晴れな姿勢に、第一隊長は堪らず苦笑した。
「彼を標的から除外した「ファントム」の見識は、まったくもって正しかった」───それが、去り行く男の最後の言葉だったという。
BEFORE ←
終幕