朧 夜


二十四を数えた春、赤騎士カミューは地位を上り詰めた。
マチルダ騎士団史上、例を見ない若き騎士団長の誕生である。
赤騎士団の中枢の面々は、いずれも彼より遥かに年嵩で、しかし美貌の新団長に心酔し切った男たちだ。そんな彼らに幾晩も祝賀の宴を催され、ようやく解放されたカミューが自宅に戻ったのは、就任から五日も過ぎてのことだった。
マイクロトフはテーブルを挟んで向かい合う恋人の顔を飽かず眺めていた。視線に気づいてカミューが顔を上げると、彼は静かに微笑んだ。
「……団長就任、おめでとう」
散々言われ尽くした言葉であろうに、カミューはマイクロトフが愛して止まない艶やかな笑みを浮かべる。
「ありがとう。でも……実感が湧かないな。まあ、これで副長の雑務から解放されると思うと、喜ばしい気もするけれど」
マイクロトフは持ち寄ったワインをグラスに注ぎ、軽く掲げた。
「おまえの行く先に……栄えあるように」
「……照れるな」
苦笑しながらカミューがグラスの縁を合わせた。
「カミュー……ひとつ、おれに約束してくれないか?」
マイクロトフは慎重に切り出した。
あるいはこれから自分が口にすることは、カミューの矜持を傷つけかねないと思う。それでも言わずにいられないのが性なのだ。
案の定、カミューは怪訝そうに形良い眉を寄せ、唇をつけていたグラスを置いた。
「……一人で抱え込まないでくれ」
マイクロトフは思いを言葉にすることが格別苦手な男である。カミューの団長就任が決まって以来、どう切り出そうか悶々と悩んでいた。だが、結局は目前の恋人のような巧みな話術は持ち合わせていない。
あまりに漠然としながら直接的な響きに、カミューははたと瞬くばかりだった。
「いや、その……つまり、だ。おまえが何でも上手くやれる男なのはわかっている。だが、困ったことがあったり、悩んだりしたときには必ずおれに話して欲しい。何処まで力になれるかわからないが……つらいときには何でも相談して欲しいんだ」
赤騎士団長カミュー。
常に穏やかな笑みを絶やさず、飄々と世間を渡り歩いている優美な騎士。彼の社交性、世渡りの巧みさは、周囲の誰もが認めるものだろう。
だがマイクロトフは知っている。
それが彼の、生きるための鎧であることを。
不安も迷いも涼しげな笑顔の裏に隠してしまうカミュー。
苦しみから逃れるすべを知らない、意地と誇りで武装する青年騎士。
そのすべてを愛しく思いながら、唯一マイクロトフが不満に思うことがあるとすれば、そうしてカミューが自分に頼らず、何事もその胸ひとつに納めて一人で戦おうとすることだ。
カミューとしてみれば、年下の男にもたれかかることを恥と思っているのかもしれないが、マイクロトフにはもどかしいことこの上ない。
まして理性で生きている彼は、理屈で自身を追い詰める。
己の課した箍に縛られ、傷ついていく。
そんなカミューを見ることだけは耐えられない。
カミューと知り合ってから今日まで、マイクロトフの願いはひとつだった。
カミューを支える存在となること。
彼も超一流の剣士である。我が身を守ることならば幾らでも出来よう。
だからこそ、マイクロトフは彼の心を守ることに努めようと誓ったのである。
昔から女性関係では派手な噂の多い男だった。けれども、カミューが本気の恋愛にはひどく不器用であるようだと感じたのはいつの頃だっただろう。
無論、相手である自分が男であることも一因だろうが、抱き寄せると彼は戸惑ったように身を震わせる。触れ合う肌に安らいだ笑みを見せながら、何処か怯えたような眼差しを垣間見せるカミュー。
恋人の脆い素顔を見るたびに、愛しさは募った。
彼の見えない鎧をすべて剥ぎ取って、腕の中で安らがせてやりたいと心から思う。
けれど無骨なマイクロトフには、とてもそんな器用な真似は出来ず、恋人が疲れ果てて自身を曝け出すのを待つしかなかった。
だが、これからはそうも言っていられないだろう。
騎士団長ともなれば、その優しげな肩に背負うものは、これまでとは比較にならないほど重くなるに違いない。意地っ張りなところも可愛いが、カミューが重荷にぽっきり折れてしまったら話にならない。
そう思い詰め、精一杯に吐き出した言葉であった。
カミューはしばらくマイクロトフを見詰めていたが、やがて苦笑した。
「参ったな…………、おまえに諭される日が来ようとは」
それから深く椅子にもたれ、静かに首を振る。
「そうする……と言いたいところだが、生憎期待には添えないよ、マイクロトフ」
マイクロトフは愕然として息を詰めた。
やはり誇りを傷つけたのだろうか? 
未だに騎士隊長の域を出ない自分になど、頼る価値はないと感じたのだろうか。
けれど、カミューは優しく微笑んだままだった。
「おまえも言っただろう? わたしは何でも上手く乗り切る自信がある。赤騎士団を纏めることも、部下を掌握することも。悩んだり、困ったりなどしないよ」
「しかし、カミュー…………」
「もし、つらい思いをするとしたら……、尚更おまえには言えないさ」
「な、何故だ? おれはそんなに不甲斐ないか?」
マイクロトフは手を伸ばし、テーブルの上に置かれたカミューの手首を掴んだ。余程必死の面持ちだったのだろう。カミューはくすくす笑いながら、残された片手でマイクロトフの腕を叩いた。
「わたしにとって、本当につらいことはたった一つだ。わからないかい、マイクロトフ?」
問われて彼は真剣に考えた。しかし、どうにも頭が回らない。長い沈黙の後、答えが返らないと判断したのか、カミューが柔らかく口を開いた。
「……おまえを失うことだよ」
マイクロトフの見守る中、カミューは決して他の誰にも見せない表情で続ける。
「おまえがわたしから去ろうとするなら、それをおまえに相談することなど出来ないだろう?」
「お……、おれがおまえから去るなど、有り得ない!」
「ならば、わたしにつらいことなどない」
マイクロトフは呆気に取られた。
恋人がこんなにあからさまに心情を吐露するなど、考えてもみなかった。しばらく言われたことの意味を理解する余裕もないほど驚いていたが、やがて赤面した。
「おれが…………唯一、なのか……?」
仮定されたことは気に入らないが、感動が上回った。
「おれを失うことが、おまえの唯一の…………?」
この美貌の青年の心を苦しませる、ただひとつの痛み?
「……そうだ」
カミューはやや照れ臭そうに目を伏せる。
「知らなかったとは意外だよ。やはりおまえ、相当に鈍いんだな。いちいち口に出さずとも、わかっていると思っていたんだが……」
そんなことがわかるか。
マイクロトフは心で叫ぶ。ただでさえ自分は人の機微に疎いのだ。
まして恋愛ともなれば、その疎さは海の深さである。
カミューの想いを疑ったことなどないが、これほど想ってくれていると実感したのはあるいは初めてかもしれない。
「…………おれが……いなくなったら、泣くか……?」
恐る恐る尋ねると、カミューは虚を突かれたように瞬いて、それから満面の笑顔になった。
「泣かないよ」 それからあっさり付け加える。「泣く前に、死んでいるかもな」
「カ、カミュー!」
「おまえはどうする? わたしがおまえから離れたら……泣くかい? それとも、怒るかい…………?」
「離さない」
マイクロトフは断言した。自分から切り出したたとえだが、たまらなく不快でならない。
自分は決して器用な男ではないし、時にはカミューをうんざりさせることもあるかもしれない。けれど、どういう形であれ、離れることなど考えられない。
彼が他の誰かに目を向けることなど考えたくないし、彼を見詰める他人さえ許すことが出来ないだろう。そんな想いがひどく子供じみているのはわかっている。カミューへの拘束でしかないことも。
それでも欲することをやめられない。そのすべてを独占したい。
「だから泣きもしないし、怒りもしない」
「……仮定にもならないな」
可笑しそうに口元を緩める恋人に、マイクロトフもまた笑い返した。
カミューは再びグラスを持ち、静かに呟いた。
「それに……、わたしはこれでも随分おまえに頼っているつもりなんだけれどな」
「…………そうなのか?」
「多分、おまえが思っている以上に、わたしはおまえを支えにしているよ。だから……心配しないでくれ、マイクロトフ」
彼がそう言うならば、そうなのだろうか。
カミューは決して誇張したり、マイクロトフに対して美辞を紡ぐことはしない。彼が『頼っている』と言うならば、信じてもいいのかもしれない。
胸に温かな想いが広がり、それが馴染み深い情動と変わるのに時間は掛からなかった。
マイクロトフは大慌てでグラスを干すと、勢いも荒く立ち上がった。
「そ、それじゃ……もう遅いから、おれは帰る」
慌しい動作にきょとんとしたカミューが、小首を傾げた。
「……何だ? そんなに慌てて……」
「い、いや、その……おやすみ、カミュー」
紅潮した頬を見られまいと急いで顔を背け、騎士服の上着を取り上げたマイクロトフだったが、背後から掛かった声に思わず息が止まった。
「泊まっていくんじゃないのか?」
「か、帰るよ」
「……明日は非番だから、一晩飲み明かそうと提案したのはおまえだろう? わたしもそのつもりで午後からの勤務にしてきたのに」
果たして何処までわかっているのか。
マイクロトフは目眩と共に溜め息をついて振り向いた。
「カミュー……この数週間、団長の引継ぎやら祝賀会やらで疲れているだろう? 確かに誘ったのはおれだが……おまえ、顔色だって真っ白だし、早く休んだ方がいい」
カミューは案じられたことに心底戸惑ったような顔で彼を見詰めていた。その無防備な眼差しにいっそう刺激されて、マイクロトフは高鳴る心拍に狼狽えるばかりだった。
「…………疲れていないと言ったら嘘になるが……」
「そ、そうだろう? ゆっくり眠れよ、カミュー」
考えているように見えたカミューが立ち上がり、優雅な足取りで近づいてくる。まずいと思いつつ、床に足が貼り付いたように動けない。
マイクロトフは終に恋人を正面に迎えてしまった。
彼は必死で目を逸らす。
カミューの瞳に捕らえられたら、負けるのは確実だった。
恋人を前にしておとなしく眠れるほど聖人君子ではない。むしろ、彼を腕に掻き抱きたい衝動を堪える回数が増えていくばかりのマイクロトフである。
それでも、疲れたカミューを不慣れな行為で蹂躙するのは気が重い。そうした理由で、このところ逢瀬は途切れていた。
そこへきて今夜だ。
最初は泊り込み、夜通し恋人の顔を見たいと思った。けれど、それが無謀な過ちであることに気づいた。珍しく素直に恋慕の情を口にしたカミューに、すでに理性は爆発寸前である。
このまま居続ければ、確実に彼を抱き締めてしまう。優しく抱き締めるだけで済めばいいが、そうならないのは誰よりマイクロトフがわかっていた。
どれほどきつく抱いても足りない。
唇を重ね、肌を合わせ、彼の奥深く自らを埋めても、まだ足りない。
カミューのすべてを得る行為を知ってしまったマイクロトフには、際限がなかった。だが、技巧を知らぬ彼の行為は恋人を傷つけるばかりで、カミューには報われない、負担の掛かるひとときであるように思われた。
じっと見上げていたカミューが苦笑った。
「…………わかっていないな、マイクロトフ。わたしが一番安心して眠れるのは、おまえが横にいるときだ。わたしを休ませたいのなら、帰るなどと言うなよ」
「………………自信がないんだ」
マイクロトフは切羽詰って思わず零した。不思議そうに眉を顰めるカミューの目を覗き込む。
わかっていないのはおまえの方だ、そう言ってやれたらどんなにいいだろう。
「……おまえを前に、平静でいられる自信がない」
恋人の柔らかな色の瞳に映る自分が、苦しげに歪んだ顔になっているのを感じ、マイクロトフは更に焦った。
「わ、わかるだろう? おまえと二人になるのは久しぶりで……、ただでさえ、おれは自制が苦手なんだぞ」
カミューは必死に言い募るマイクロトフを見詰めていたが、その唇がゆっくりと綻び、花のように開いた。
「…………自制など……しなくていい。わたしがおまえに傍に居て欲しいんだ」
マイクロトフは呆然と恋人を凝視する。
身体に入れた僅かなワインが、一気に回ってくるのを感じた。

 

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むう……、後編へ続きます。
やっとインデントの掛け方がわかった〜。
ったく、亀の歩みですなあ……。
こんなところで続くとは、鬼ですね(笑) 
後編はえっち突入です。何か、必要以上にいかがわしく
なったような気が……何故だろう?

                   

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