朧夜・2
マイクロトフが湯を浴びて戻ったとき、すでに室内の明かりは落とされ、窓から差し込む月明りが陰影を作っていた。
彼の訪問を前にすでに入浴を済ませていたカミューが、寛いだ部屋着のまま窓辺に立ち尽くしている。細い身体の線が月光に照らされて、僅かに輝きを弾いていた。その目も眩むような美しさに息を飲み、マイクロトフは思わず足を止めた。
貧困な語彙を掻き集め、恋人の姿が月の精のようだと思う。無論、陽光の下に見る姿も美しい。だが、こうして深夜、ひっそり佇む彼を見るのは自分だけだという優越感にも似た感動がマイクロトフを震わせる。
「…………綺麗だ……」
口を吐くのは相も変らぬ賛美だけれど、本心を率直に表す一言でもある。カミューは青白い光のもと、溶けるように微笑んだ。
常に周囲に与えられるものとは似て非なる微笑み。
マイクロトフだけに向けられる、苦笑じみた笑顔。それを見るたびにマイクロトフは締め付けられるほどの幸福に酔うのだ。
そのまま闇に攫われてしまうのではないかと思われる儚げな恋人の姿に、彼は急いで足を進めた。腕に迎え入れると、しっかりした質感が返ってくる。細いけれど、紛れもなく剣士として生きてきた肉体だ。
ようやく安心できて、マイクロトフは溜め息を洩らした。
「何だい……?」
胸の中でくぐもった声が問う。
言えるはずもない。
常に恐れているのだと。
おまえを失うこと、傷つけることを恐れ、怯えているのだと。
「カミュー…………、もう一度言うぞ? おれには自信がない。こんなふうに久々におまえを抱き締めて……優しくしてやれるかどうか……。いや、その、無論そうするつもりだけれど、おれは……」
カミューが声を殺して笑っているのに気づき、彼は顔を赤らめた。
「笑うな! 少しは不安に思えよ。酷いことをしてしまうかもしれないんだぞ?」
「ああ、それで?」
「それで…………って、あのなあ……。滅茶苦茶にしてしまいそうなんだぞ? おまえが泣いて嫌がっても、止められるかどうかわからない……」
言っているうちに情けなく、また、恥ずかしくてたまらなくなる。
なのに恋人は優しく笑うばかりなのだ。
「…………なあ、マイクロトフ」
カミューがふと口を開いた。
「これまで……やめろと言って、やめてくれたことがあったかい?」
「う……」
「わかっただろう? 考えるのは時間の無駄だな。それに…………」
彼は伸び上がってマイクロトフの唇を塞いだ。しっとりと濡れた感触に酔う間もなく、それは離れた。
「心から嫌だと思ったら……死んでも抵抗するさ」
マイクロトフは大きく息を吐いた。
誇り高き赤騎士団長カミューを腕に出来るのは、同じ想いを分ける自分だけ。自分が求めているものを、カミューも求めてくれている。ならばもう、迷うことはないのだろう。
「…………出来るだけ、優しくするから」
それでも必死に呟いた言葉に、恋人はそっと頷いた。
「……あまり期待していないが……まあ、頼むよ」
軽やかな憎まれ口の睦言に、マイクロトフは目を細めて彼を抱き上げる。ベッドに落とすなり覆い被さり、青白く浮かぶ顔を両手で挟み込んでくちづけた。
背中に回されたカミューの腕に、込み上げる喜びを覚えつつ、唇を割って貪り出す。絡みつくカミューの舌先を捕らえた瞬間から、激しく吸い上げ、蹂躙した。
すべてを任せ切った恋人のしなやかな肢体を衣服の上から掌で味わい、その存在を確かめる。
シャツの裾から入れた手が、すべるような肌を撫で上げ、その体温を拾い上げる。
こらえるように息を乱し、しどけなく身を捩るカミューに、厳重に課したはずの自制の鍵がひとつずつ弾け飛ぶのを感じずにはいられない。
日頃取り澄ました表情を崩さない彼の、こんな顔を見ているだけで、嗜虐と愛しさが同時に噴き出してくる。
もっともっと乱したい。
すべてを曝け出させたい。
泣いて縋るのを見てみたい。
許しを請わせてみたい。
けれど。
優しく愛してやりたい。
苦しい思いをさせたくない。
ひとしずくの涙さえ流させたくはない。
静かに安らがせてやりたい…………。
その混乱がマイクロトフの理性を奪うのだ。
快楽に仰け反る首筋に与えるのは、慈しみのくちづけ。
無意識に逃れようともがく身体を押さえつけるのは、独占への願望。
微かな抗いを手首を戒めて封じるのは、征服欲。
「あ、マイクロトフ……!」
下肢に施された乱暴な愛撫に、カミューが怯えたように身を竦ませた。その目が苦痛を伴った快感に潤んでいるのを見た途端、最後の理性が吹っ飛んだ。
「…………カミュー!!」
すでに猛った欲望を性急にカミューに埋める。幾度身体を重ねても決して慣れない瞬間に、カミューの全身は強張り、逃れようとずり上がっていく。かぼそい抵抗を力で封じ込み、腰を掴んで引き戻した。
マイクロトフを受け入れた身体は、何処までも熱く柔らかかった。
「あ、あ…………」
体内深く男を含まされ、カミューは啜り泣いた。未だ快楽には程遠い交合に、絶え絶えの息を洩らしながら必死にマイクロトフに縋り付く。
己の汗が恋人の肌に滴り落ちる様に強く煽られて、マイクロトフは直ちに律動を開始した。
滲んだ涙を舐め取りながら、自責と戦う。
いつだって優しくしてやりたいのに、いつのまにか我を忘れる。
掠れた悲鳴を上げる唇を塞ぎ、弾んだ声で小さく詫びた。
「……すまない、カミュー…………すまない……」
その声が聞こえたかどうかわからない。
薄明かりに判然としないが、おそらく血の気さえ失っているような痛ましげな表情。切れるほどに噛み締められた唇。
マイクロトフに回された腕は、責めるように彼をきつく拘束していた。
それでもカミューは与えられる苦痛をこらえている。反射的に逃れようとはするが、決して拒絶を唇に上らせようとはしない。
ふと、マイクロトフは背中に走った痛みに顔を歪めた。
縋り付くカミューの指先が、爪を立てている。
彼の感じる苦痛の欠片にもなるまいが、僅かでも痛みを共有できることにマイクロトフは安堵した。
「……好きだ、カミュー」
無力な子供のように、腕の中で震える恋人。
普段は絶対に見せない素顔で身を任すカミュー。
どれほど貪欲に奪っても、まだ掴み損ねているような強迫観念に駆られて、更に彼を攻め立てた。
突き上げるたびに零れる涙は、どんな宝石よりも清らかで美しい。
マイクロトフを呼ぶ声は、どんな音楽よりも心を揺らした。
汗に湿った前髪を掻き分け、額に唇を落とすと、カミューはゆっくり目を開いた。
涙に濡れた恋人の瞳。壮絶な色香を漂わせながら、無垢なる聖人にも似た清廉な瞳。その目には今、自分しか映っていないのだ。
マイクロトフは目眩を覚えた。
「おれのものだ」
低く囁く。
「おれだけのものだ、カミュー」
薄い肩口に歯を立てて、白い喉元に証を残す。答えの代わりにカミューはマイクロトフの頬に手を伸ばしてきた。その指先にもくちづけて、改めて強く抱き締める。深まった接合に、カミューが弱い息を洩らした。
そこで初めて自分の快楽だけが先走っていたことを思い出し、マイクロトフは恋人の下肢を探った。苦痛に萎えた彼を優しく掌に納め、いたわりを込めて愛し始める。カミューは痛みよりも、むしろ悦ばされることに抵抗を感じるらしく、眉を寄せて身を捩った。
「や……っ、嫌、だ…………」
恥じらう彼はいっそう愛しい。マイクロトフは彼に埋めた欲望をそのままに、恋人を高めるのに没頭した。カミューが快感を示すと、締め上げる強さが増した。一方的に奪われていたときよりも著しい恋人の抗いは、彼の意地の現われのようで、マイクロトフを微笑ませずにはいられない。
「いいんだ、声を出してくれ。おまえの声が聞きたい……」
悩ましい喘ぎを恥じているのか、唇を噛んでこらえているカミューに言うが、彼はきつく目を閉じて首を振る。それでも執拗に愛撫を施してやると、やがて泣き濡れた声を上げるようになった。
いつか、彼を溺れさせてやれるようになるだろうか。
痛みではなく、酔い痴れる快楽だけを与えられるように。
出来るならそうなりたいとマイクロトフは思った。
苦痛に喘ぐカミューも美しいけれど、快楽に咽ぶ彼は、その何倍も綺麗だろう。
結局自分は非道にはなりきれない男なのだ。嗜虐に酔い、恋人を痛めつけて愉悦を感じるには、あまりに惚れ抜いているのだから。
一瞬の欲望を覚えはしても、最後には愛しさがすべてに勝る。
カミューの苦痛は己の痛みだ。
彼の悦びこそが、自分の望みでもある。
終に疼きが苦痛を凌駕したのか、カミューの声の調子が変わった。マイクロトフを呼ぶ響きに甘い切なさが混じり、開かれた目は焦点を結ばずに揺れている。
それを見取ってマイクロトフは再び動き出した。刹那、微かに緊張した肌は、だが先程とは比べるべくもなく柔らかくほぐれていく。
掻き集めた理性を今度こそ手放すまいと自らを叱咤して、マイクロトフは行為を続けた。どうしても荒くなってしまう動きを時折小声で詫びながら、それでも貪欲に求め抜いた。
決して離れまいと言わんばかりに強くマイクロトフに回された腕。
その腕の熱さにカミューの想いの深さを感じ、それ以上の強さで抱き返す。繋げた身体を離すのが惜しく、終焉を一瞬でも延ばしたいと彼は思った。
「…………何があっても離さない」
祈りに等しい言葉を吐き出したとき、カミューは切なげに身を震わせた。一瞬遅れてマイクロトフが達し、彼は恋人の燃えるような肌の上に崩れ落ちた。
「……何が『出来るだけ優しくする』だか。出来もしないことを言うなよ、マイクロトフ」
憮然としたカミューがちらりと彼を一瞥し、そのままそっぽを向いてしまった。いちいちもっともな怒りに、マイクロトフは深々と頭を下げる。
結局、またも流血の惨事となってしまった。
その激しい行為自体もさることながら、動けずにマイクロトフに手当てされたことがカミューには耐え難い屈辱であったらしい。
「こ、このタオル……どうする? 洗っておくか?」
びくびくと尋ねたマイクロトフに、カミューは目も合わせようとしない。
「……捨てろよ。どうせ落ちやしない。目にすれば、腹が立つ」
「り、了解した…………」
血染めのタオルをごみ箱に突っ込むと、彼はベッドに腰を落としてカミューを窺った。
「なあ…………怒っているのか? くそっ、だから何度も言ったんだ。すまなかった、もういい加減に機嫌を直してくれ」
カミューは反対を向いたままだ。いよいよ険悪な空気を感じ、マイクロトフは必死になった。
「謝る。反省している。心底申し訳ないと思っている」
一度カミューが気分を害したら、確実に弱いのは自分の方だ。こういうのを『惚れた弱み』というのだろうか。珍しく『恋愛学』なるものを実感してしまう。
「カミュー…………腹を立てているなら、殴ってもいいぞ。確かにあまり…………、少しも優しく出来なかった。ああ、乱暴にした。酷くして傷を負わせた。許してくれ」
さっきから何度目かわからない謝罪を口にして、マイクロトフは換えたシーツに頭を擦り付けた。
怖いもの知らずの勇猛な騎士が、唯一頭を上げられない年上のひと。
こんな状態で何が『カミューの支えになる』なのか。自分でも情けなくて目の前が暗くなりそうだ。
いつまでも無言のカミューに心底参ってしまい、そろそろと頭を上げてぎくりとした。彼のほっそりした後ろ姿、その肩が小刻みに揺れている。
「カ、カミュー。ああ、すまない……痛むのか?」
手当てを終えても涙するほど傷つけてしまったのかと、必死に肩を掴んで振り向かせると、確かにカミューの目には涙が滲んでいた。しかし、その口元は抑え切れないように笑っている。
「カ……ミュー…………?」
終に耐え切れなくなったのか、カミューが吹き出した。笑いながら両手で抱きついてくる。
「おまえは面白いな、マイクロトフ。放っておいたら一晩中謝り続けていそうだ」
呆気に取られるマイクロトフに構わず、彼は続けた。
「言っただろう? 本気で嫌なら、死ぬ気で逃げる。おまえに抱かれることを嫌だと思ったことは一度もないよ」
それから小さく付け加えた。
「…………たとえ、どれほど傷ついても……、な」
からかわれていたのだとわかっても、怒る気力もない。マイクロトフはぐったり脱力して、カミューの肩に顔を埋めた。
「あまり脅かさないでくれ…………寿命が縮む…………」
カミューは優しくマイクロトフの髪を撫でてくれた。
「おまえは……そのままでいいんだよ」
行為の名残か、微かに掠れた声が囁く。
「自分の行動に後悔するのは似合わない。わたしはおまえを理解しているつもりだし、おまえの行動を厭うことなど有り得ない。今夜だって……こうなることは予想していたさ。だから午後からの勤務にしたと言っただろう?」
マイクロトフは困惑して顔を上げた。カミューはいつものように涼やかな笑顔で彼を見詰めていた。
「……お互い慣れない行為なんだ。弊害があっても不思議じゃない。むしろ、おまえが手際良くわたしを扱う方が怖いよ。気にするな、マイクロトフ」
相手を支えるどころか、温かく包み込まれてしまい、マイクロトフはますます肩を落とす。そこへ、駄目押しが飛んできた。
「…………しかし……、それにしてもおまえ、なかなか上達しないな。わたしが慣れる方が先かもしれない。あの乱暴さに慣れるのも問題な気がするが……まあ、取り敢えず傷つかずに済むようになれば御の字かな」
……悪気はないに違いない。そう信じたい。
けれどさらりと吐かれた言葉に、マイクロトフは愕然とした。
「おれは………………下手、か………………?」
今度こそカミューは朗らかな笑い声を上げた。
「いいんだよ、その辺りがおまえらしくて」
慰めにもなっていない、単なる事実確認であった。マイクロトフは呆けたまま、くすくす笑うカミューを見つめる。
「まあ、普通はこれだけ数をこなせば多少の進歩はあると思うが……何というか、一進一退とでも言うか……前回より下手になることもあれば、今回より下手になることもあるし…………」
それでは『一進』がないのではないか、との素朴な疑問を抱えつつ、マイクロトフは声も出ない。それよりも、『下手』と連呼されるダメージに目眩がする。
怒っていないといいながら、実は腹の底で深く憤っているのではないかと邪推してしまうマイクロトフだった。
「…………そのうち、泣かせてやるからな……」
「何か言ったかい?」
「……………………何でもない」
恨みがましくもぐもぐと口中で呟いて、マイクロトフは固く決意した。
この、自分の前だけでは天然的に素直に意地悪い恋人を、いつか快楽に染め抜いてみせる。恥じらいながら、自ら求めるほど、虜にしてやる……。
「もう寝よう。やれやれ、身体があちこち痛いよ」
ベッドの半分を空けながらまだ忍び笑っているカミューに、それでもマイクロトフは幸福を覚えた。彼がこんなふうに無邪気に打ち解けるのも自分だけだ。少々、打ち解け方に難があるような気もするが、心を開いているのは確かだ。
ならば、今はそれで満足する以外にないではないか?
「…………でも……、嬉しかったよ、マイクロトフ」
並んで横になったマイクロトフに、カミューがそっと寄り添ってきた。まだ火照っているような恋人の肌の熱が、布越しに伝わってくる。
「………………?」
「……どんなことでも相談しろ、そう言ってくれたこと。わたしは人に頼るのが得意ではないけれど……、おまえにだけはそうしたいと思っているよ」
心を揺らす喜びに、カミューを強く抱き寄せた。
結局、この美しい恋人には勝てない。言葉のひとつ、眼差しひとつで自分は幾らでも至福を得る。虜になっているのは自分の方だ。
カミューにだけは敵わない。多分、一生敵わない。
「いつか…………」
「え?」
「いつか、おまえを苦しませずに抱けるようになるから。努力するから。待っていてくれ、カミュー…………」
カミューは目を見張り、それから嬉しそうに頷いた。マイクロトフの厚い胸に頬を乗せ、笑いを含んだ声で答えた。
「…………期待しないで待っているよ、マイクロトフ」
← BEFORE END
妙にえっちが濃ゆい雰囲気(あくまでも雰囲気)
になっちゃった……。その恥ずかしさから来る
反動か、最後「下手」連呼発言に(笑)
そろそろ上達した青なども書いてみたいですねえ。
遠い夢ですかねえ………………。