どうして俺を引き取ってくれたのか。
今でもよく考える。
二人だけの静かな生活を送ってもよかっただろうに、殆ど見ず知らずの他人の俺を、あまりにも無造作に招いてくれた彼らの心理は複雑だったに違いない。
俺なりに導き出した答えは切ないものだった。
多分───多分、二人は心の何処かで不足を埋めたかったのだろう。
これは勿論、愛情の不足といった類のものではない。ごく普通の恋人ならば、持つことの出来る子供という絆を彼らは望むことが出来ない。互いの想いしか信じるものの無い恋を、選んだことに後悔は無かっただろうが、それでもきっと、二人は自分たちの何かを残したかったのだと思う。
俺には身寄りも無く、その日暮らしの浮浪児で、あのまま行けば何処かで野垂れ死んでも不思議ない子供だった。それを助ける奉仕的な精神と、彼らの求めるものが重なったということなのだろう。
俺は多くのものを学んだ。
『人を傷つけるためではない力を持て』とマイクロトフに剣を仕込まれ、『自分を守るための知識を得ろ』とカミューに勉学を詰め込まれた。
彼らは決して騎士であった過去をちらつかせはしなかったが、そうした教えの端々に『騎士の誇り』というものを感じた。それは不思議な魅力を持って俺を包んだ。誇りなどとは無縁の生活をしてきた俺が、次第にその言葉を理解していく様を、いつも二人は楽しげに見守ってくれていた。
信念とか正義とか、マイクロトフの言うことはいちいち堅苦しかったが、その背中を見ていれば言葉よりもすんなり理解出来る。
要は『生き方の姿勢』なのだ。日々自分に恥ずかしくないよう生きること、自分の力を正しいと思われることに活かすこと。それが二人の指針なのだ。
厳しい教えとは裏腹に、生活は素晴らしく楽しかった。初めて、生まれてきたことに感謝出来たほどに。
唯一困ってしまったのが、やはり夜のひとときだろう。
二人の寝室は俺の部屋から一番離れていたのだが、それでも深夜に目が覚めたときなど、忍びやかに響いてくる甘い泣き声に参ってしまったものだ。
具体的に何をどうしているのかは、あの頃には分からなかったが、いつも凛々しいカミューが洩らす切ない喘ぎは子供心にも刺激的で、不埒なことだが───材料にしてしまったこともある。
マイクロトフは最初のうちは俺に関係を知られていないと信じていたようだが、そのうちカミューから情報が伝わったのか、開き直ったように振舞った。
俺の目の前で『ただいま』のキスをしたり、何かの拍子に怒らせたカミューを抱き締めてみたり。いやはや、まったく開き直った直情男ほど微笑ましいものはない。
カミューに触れるマイクロトフの手。
俺のことは手荒にぽかすか叩くくせに──これは後に親愛の情だとわかった──カミューの頬をひどく優しく撫でる。まるで大きな子供が壊れ物の宝を手に入れたみたいだった。実際、そうだったのかもしれないが。
一方カミューはいつも周囲に穏やかな笑顔を向けているが、マイクロトフにだけは少し違う笑みを見せる。困ったような、照れたような───そう、苦笑というのが相応しい顔。
彼はどんなことにでも大抵器用だったが、マイクロトフの扱いにだけはどうもその器用さが通じないのか、見ていて笑ってしまうことが多かった。
例えば、マイクロトフが気晴らしと食材確保を兼ねて狩りをしてくる。物凄く大きな獲物を獲って得意げな彼に、カミューは無言で包丁を差し出すのだ。こんな大物、とても自分は捌けないという意思表示である。
『もう少し考えて行動しろ!』
それが彼の口癖だった。そのたびにマイクロトフは申し訳なさそうに頭を掻く。
結局そのときの大猪は、俺とマイクロトフ二人がかりで捌く羽目になったが、部屋に血臭がするのは耐えられないと揃って追い出され、庭でせっせと解体作業に勤しんだ。
大汗をかいて大量の肉を得ると、マイクロトフは近所に配ってくるよう俺に命じ、自分はさっさと家に入ろうとしたところでバケツ一杯の水の洗礼を浴びていた。
常に柔和な雰囲気を持つカミューだが、こうしてマイクロトフには結構荒っぽい真似をやらかしていた。それは彼が特別である証で、俺に優しく濡れタオルを差し出すのとは少しばかり違う。寂しいという感情は持たなかったが、二人の間に割り込めないという事実は感じた。
二人が仲違いをしたことは殆ど無かったが、一度だけカミューが本気で怒ったのを見たことがある。彼はマイクロトフに対しては意外にぶつくさ文句を言うことが多かったが、あれは本心からの怒りだった。
その日、マイクロトフはいつものように村の外に出ていた。有り余る力を持て余す彼は、ひとつところにじっとしていられない性分らしく、時折そうしてモンスターを狩りに出掛けることがあったのだ。
だが、戻ると言った時間に帰らず、結局俺とカミューは夜明かしで待つことになった。カミューは先に寝るよう勧めてくれたが、とても出来なかった。初めて見る彼の取り乱した様子に、傍を離れることが出来なかったのだ。
マイクロトフが約束を守らなかったのは、確かに俺が知る限り初めてのことだった。腕の立つ剣士なのはわかっているし、子供ではないのだから案じることもないと思ったのだが、カミューはそうは取らなかったらしい。
ただでさえ白い顔を青くして、祈るような姿勢でソファに沈み込む彼の横に並んで座り、必死で慰めた。
ずっと年上の、はるかに大きな青年を宥めすかす様は、端から見たら滑稽だったろう。だが、その時の俺は哀しげに顔を歪める彼を何とか笑顔に戻そうと焦るばかりで、しまいには一緒になって泣きそうになった。
翌日、それも昼過ぎになってあっけらかんとマイクロトフが戻ったとき、そしてその左腕が白い包帯で肩から吊ってあるのを見て、カミューは強烈な平手打ちを彼に見舞ったのだ。
無表情で男を見詰める瞳が燃えるように煌めいて、そんな状況なのにひどく美しく見えたのを覚えている。
彼は呆気に取られているマイクロトフを残し、無言で部屋に歩いて行ったきり出てこなくなった。あれほど案じていたにもかかわらず、『何があった』でも『その怪我はどうした』でもない。どれほど俺が扉を叩いても、頑として答えようともしなかった。
マイクロトフが語るには、村の外でいつものようにモンスターを探していたとき、盗賊の一団が隊商を襲撃しているのに遭遇したのだと言う。よくよく話を聞いてみると、かなり質の悪い連中だったらしく、女性に乱暴を働こうなどという真似もしていたらしい。
無論、彼は見逃さなかった。一団を相手に回して大立ち回りをやらかした挙げ句、商人の一人を庇って負傷したのだ。その手当てを受け、感謝の宴を催され、結局夜明かししたという訳だった。
俺は溜め息混じりに昨夜のカミューの様子を告げた。即座に青褪めた彼は、カミューの部屋にすっ飛んで行き、わいわい喚きながら扉を叩いた。だが、やはり彼の恋人は応じなかった。
少し時間を置いた方がいいと提案したのは俺だ。まったく、子供に諭されてしゅんとした大男は、商人から贈られたという金銀の入った袋を握り締めたまま、うろうろと居間を歩き回る始末。うっとおしいから、ちゃんと医者に診せてこいと進言すると、不承不承従った。
その間にカミューの部屋を訪れた。ノックしてもやはり答えがないから迷いながらノブを回すと、意外にも鍵がかかっていなかった。このあたり、確かめないマイクロトフは抜けている。
恐る恐る部屋に入ってみて、今度こそ腰が抜けるほど驚いた。
綺麗で優雅な青年は、窓辺に置かれた椅子に腰掛け、静かに泣いていたのである。
彼の涙を見るのは勿論初めてだった。そればかりか、いつもにこやかに笑っている──時々マイクロトフには癇癪を起こしているけれど──ので、泣き顔なんて想像したこともなかった。
俺が入ったのにも気づかぬ様子でぽろぽろと涙を零し続けていた彼だったが、不意にぽつりと呟いた。
『あの馬鹿───』
ただ一言で、カミューがどれだけマイクロトフを想っているかが十分に察せられた。
青白い顔で幾度も時計を見上げていた彼。朝になり、何度か家の外にまで足を運んでいた彼は、あまりにも元気良く戻って来た男に気が抜け、同時に怪我をしていたことに腹を立てたのだ。
椅子の横に並んだ俺に、彼は小さく言った。
『怖いんだ』
かくも凛々しき青年が。
何一つ恐れるものなどないような、自信に溢れたカミューが───
『あいつはいつも無茶をする……それがあいつなのだとわかっている。それでもいつもわたしは怯えていなければならない。いつか彼に取り残されるのではないかと、案じて生きてゆかねばならない……』
どれほどカミューが案じても、それがマイクロトフの生き方だから。誇りと信念のために突き進む男だから。
そうした相手を伴侶に選んだことがカミューの幸福であり、苦悩だったのだろう。
『……包帯に血の気が引いたよ』
彼はそう言って哀しげに笑った。
覚悟はしているのだという。人として生まれたからには、いつか命にも終わりが来る。だがその瞬間を、決してマイクロトフに遅れず迎えたいのだと打ち明けてくれた。
独り残されるのは耐えられない、自分はそれほど強くない───そう搾り出すように語った彼に、思いがけない脆さと儚さを見た。同時に、それまではマイクロトフ側からばかり目立っていた愛情が、実はそれ以上にカミューの胸に燃え盛っていることを。
俺はカミューを抱き締めた。
大丈夫だよ、絶対に大丈夫だから───そんなつまらない言葉を吐き出しながら、必死に祈った。
どうか、命の終わりを二人が同時に迎えられるよう。
カミューの想いはマイクロトフのものでもあるはずだ。どちらが残されても苦しむことには変わりがない。
ならばどうか、俺の大切な二人が欠片でもつらい思いをせぬように。
そのときの俺には精一杯の祈りだった。
共に暮らし始めて数年が経ったとき、ひどく畏まった二人に呼ばれた。
そこには一枚の書面が置いてあり、にこにこしたカミューがペンを差し出してきた。
『紙一枚の誓約だけれどね』
グラスランドではあまり書類というものが重視されていない。どうやらデュナンで扱われている書類のようで、剣と羽根で組み上げられたマークがてっぺんについていた。
それがマチルダ騎士団のシンボルであることは知っていたが、記載された内容に仰天した。
それは養子縁組の書類だったのだ。
『相談の上、マチルダに戸籍が残っているから提出先はそこにすることにした』
カミューはぽんぽんと話を進める。呆気に取られて口も聞けずにいると、早くペンを取るよう促した。
『一応、養い親はマイクロトフになった。籤引きで決めたんだけれどね』
マイクロトフ喉の奥で含み笑った。
『まさかこの歳で、こんな大きな子供を持つとは思ってもみなかったがな』
そして再度カミューが言う。
『わたしたちにはそこそこの貯えもある。まあ……何かのときの保険だと思って、そこに名前を書いてくれ』
喜びよりも、むしろ切なかった。
この薄っぺらい紙切れ一枚で、俺はマイクロトフと親子という誓約で結ばれる。だが、カミューにはそれすらないのだ。何の証もなく、信じるものは相手の想いだけ───なのに彼は静かに笑う。
手は震え、教え込まれた筆の半分も巧く書けなかった。記入を終えた書面を大切そうに封に納めるカミューに、掛ける言葉も持たなかった俺。
彼はどんな気持ちなのだろう? 俺が考えるようなことは頭を過ぎらないのだろうか……?
だが、そんな葛藤をよそに、彼は朗らかな声で言い切った。
『やれやれ、これでわたしたちの老後も安泰だな』
マイクロトフが微笑んで応じた。
『精々孝行してもらうことにしよう』
彼らには、紙切れの誓約など意味がない。
そのとき俺は確信した。
幸せな日々が続くと思っていた。
笑ったり、怒ったり。
いつしか俺たちは昔からの家族のように、ひとつの輪を形成していた。
自惚れではなかったと思う。
二人は俺がいても十分に新婚生活──だと断言する──を満喫していたし、俺は着実に二人の教えを身に付けていった。
共に暮らして五年も経つと、すでにそこには盗人紛いの真似をやらかしていた小汚い孤児だった俺はなく、そこそこの剣の腕を持ち、恥ずかしくないだけの教養と流暢な標準語を話す青年となった俺がいた。
俺の背はカミューを追い越し、ほとんどマイクロトフと並ぶほどになった。マイクロトフは年とともに精悍さを増すばかりだったが、カミューは不思議とたおやかな印象のままで、あまり出会った頃と変わらなかった。
そろそろ色気づく年頃になった俺に、こっそり色事の伝授をしてくれたのは彼の方で、マイクロトフと結ばれる以前の彼の放埓さに驚かされたものだった。
村に気になる女の子がいないわけではなかったが、やはりどの娘よりもカミューが一番綺麗に思えた。決してマイクロトフと張り合うつもりはなかったし、自分にそういう感情があったとも思えないのだが、湯上りのカミューを見て、ときめいてしまったこともあることを白状しておこう。
彼の剣士としてはほっそりしなやかな肉体。それがマイクロトフと絡み合う様を想像して眠れない夜もあった。俺がそんな妄想を繰り広げていたことを、多分二人とも気づいてなかっただろう。でなければ、あんなにも目の前でべったりすることもなかったろうし、無防備な裸体を曝すこともなかったろう。
いつか───いつか俺にもそういう相手が現れるだろうか。
すべてを投げ出してでも、その人だけを得たいと願うほどの大切な誰かが。
それがカミューのように清廉で、マイクロトフのように誠実な人であるといい───そう願った。
唯一認めた伴侶と共に、幸せに寄り添って生きていく。そんな未来を彼らに見守って欲しかった……。
それは俺の人生で、最も長くつらい夜だった。
平穏な日々、それは戦火によって崩された。
北方のハルモニアとデュナン新国に戦線が開かれたのである。
それを伝えたのは、遥か遠いマチルダ騎士団からの使者だった。
初めて俺は、二人が地位ある人物だったことを知った。デュナンが統一戦争に揺れた頃、彼らはマチルダの赤・青両騎士団の団長を勤めていたのである。平伏すような騎士の態度は、今でも彼らを主君として仰いでいた。
報告を受けてしばらく難しい顔をしていた二人は、夜を徹して何事かを相談していた。
それでも事態は遠いことだと思っていた。明くる朝、衝撃的な言葉を聞くまでは。
二人は戦線に参加することを決めたのだ。
マチルダ騎士団を離れても、二人は常に騎士だった。その手で掴み取った平和を脅かすものに、遠くで安穏としていることは出来ない、と。
反対したかった。
折角平和に暮らしているのに、捨ててきた国のために命を賭けることなどないと、出来ることならそう叫びたかった。
けれど、そのときの俺にはすでに『騎士の精神』というものが生まれかけていたのだろう。結局黙って二人を見送るしかなかったのだ。
旅立ちの朝、彼らはタンスの奥から見慣れぬ衣装を取り出して、輝くばかりの騎士となった。真紅と青の軍服は、この上もなく似合って見えた。
穏やかな生活に身を沈めても、やはり彼らは騎士なのだ。剣を取り、信ずるもののために戦う男たちなのだ。俺の知らないもう一つの顔を覗かせた二人に、祝福を込めてキスをした。
『しっかり留守を守れよ、カーマイア』
マイクロトフは大きな掌で俺の髪を掻き回した。
『ロックアックス土産に、おまえに新しい剣でも見つけてくるかな』
カミューは鮮やかに笑った。それから少し考えて、付け加えるように囁いた。
『カーマイア……真紅を意味する言葉だけれど、本当はわたしとマイクロトフの名前を混ぜて作った名前だったんだよ』
その言葉に絶句した。彼らが俺を引き取るにあたって、どれほどの想いを託してくれたかを感じたからだ。
二人は頬の片方ずつに優しいキスをくれた。我が子と呼ぶにはあまりに大きい、それでも庇護する対象へ向けての慈しみに溢れた───最後のキスを。
馬上の人となった二人が視界から消えるまで手を振って、頬に残る感触を愛おしみながら踵を返した。
守るべき『家』に向けて───。
二人の戦没の知らせが届いたのは、それから二ヵ月後、奇しくも二人と暮らし始めてちょうど七年目に当たる初秋の夜だった。
訃報を届けてくれたのは、まだ若い、だが赤騎士団の部隊長を勤めるミゲルという青年だった。
旅の疲労だけではない激しい憔悴を滲ませた彼は、目を見開いている俺の前に二つの品を並べてみせた。
ひとつは高価そうな真新しい剣。
もうひとつは慎ましやかな小さな壷だった。
彼は幾度も嗚咽を堪えながら、二人の最期を語ってくれた。
デュナン新国において、主に軍事的な指導者であるマチルダ騎士団は予想通り最前線に配置された。国境線を超えて侵攻していたハルモニア軍を押し戻し、数回に渡る小戦を勝利した。
この分ならば、全面戦争には至るまい───それがデュナン側の見通しであり、かつてハイランド王国と幾度も小競り合いを経験したマチルダ騎士団の意見でもあった。
ハルモニア軍も今回は軍事的な斥候を兼ねた侵攻であったようで、適当なところで軍勢を引く策を展開するつもりのようだった。
その日は事実上、両国の最後の戦いとなった。
最前線で並んで指揮を取っていたのはマイクロトフとカミュー。双方が適当に刃を交えたあたりでハルモニア軍が一斉に退き始めた。ここが潮時、と二人は部隊を纏め、同様に後退を開始したのだ。
そこで、悲劇は起きた。一部の興奮したハルモニア兵が軍勢を離脱し、攻撃を仕掛けてきたのである。
予期していなかった攻撃に、騎士団の陣形を整え直すことに気を取られたカミュー目掛けて、ハルモニア兵の放った大槍が飛んできた。
マイクロトフは───我が戸籍上の父親は、決してそれを見逃さなかった。
我と我が身をもって最愛の伴侶を庇ったのである。
マイクロトフを貫いた大槍は、だが同時にカミューにも到達した。
敬慕する主君の負傷に激怒した騎士たちによって、離脱組のハルモニア兵は粉砕された。けれど揃って落馬した二人はすでに瀕死の縁にあった。マイクロトフの傷は心臓近くを貫き、カミューは左脇腹を抉られていたのだという。
突き刺さった槍を外すことは多量の失血を招く。しかし、医師を呼ぶために走り出す部下をよそに、マイクロトフは自力で槍を引き抜いた。
そのときには死を覚悟していたのだろう、彼はカミューに向き直るために血反吐を吐いて這い寄った。
装備の関係か、あるいは持って生まれた体力的な差か、状態はカミューの方が酷かったらしい。ほとんど虫の息の中で、彼は何事かマイクロトフに呟いたそうだ。
それを聞くなりマイクロトフは泣きそうに顔を歪め、幾度も幾度も頷いた。しっかりとカミューの手を握り締め、応急処置を申し出る部下を断り、彼を見守り続けたという。
やがてカミューがゆっくり目を閉じ、呼び掛けに答えなくなると、彼は苦しい息の中で囁いた。
『逝ったのか、カミュー……?』
そして最後に握ったカミューの指先にくちづけて、そのまま彼に被さるようにして生涯を閉じたのだった。
俺は泣いた。
無力な子供に戻ったように、大声を上げて泣き喚いた。
それこそ、一生分の涙を絞り尽くすほどに。
やがて涙が枯れ果てた頃、唐突に思い出したのだ。
ほんの僅かでもマイクロトフに死に遅れたくない、カミューはそう言っていた。
それをマイクロトフに伝えたことがある。神妙な顔をして聞いていた男が、何をどう考えたかはわからない。
だが、彼はカミューの願いを叶えた。伴侶の死を看取ることを恐れ続けた恋人の、切なる願いを聞き届けたのだ。
『逝ったのか』
、そう確かめたマイクロトフの顔は誇らしげに輝いていたに違いない。生涯ただひとりと決めた人を、孤独な死にも、独り残される絶望にも落とすことなく最期を迎えたことに満足して。
カミューが最後に何と告げたか、俺にはわかる気がする。マイクロトフも同じ言葉を思っていたに違いない。
だから二人は幸福だったのだ。
───決して人生に悔いはなかったのだ。
俺は涙でびしょ濡れになった顔で、それでも必死に微笑んだ。
二人が別の世界でも、再び出会って結ばれると信じることが出来たから。
ミゲル隊長が持ってきてくれた壷には、二人の遺灰が納められていた。
騎士団での厳粛な葬儀のもと、二人は荼毘に付された。
遺体をそのまま土に還す慣習のデュナンにおいて、荼毘にされたのには理由がある。二人の骨灰を交わらせるためだ。
彼らには二つの故郷がある。マチルダとグラスランド、双方に葬るために。そして同時に、二人を永遠にひとつにするために。
遺骨はすでに愛剣と共にマチルダの墓地に埋葬されたという。
俺はミゲル隊長と、晴れた日に平原へ馬を飛ばした。
墓地というものを考えなかった訳ではない。だが、灰となった二人を大地に埋めるよりは、風に飛ばせたかったのだ。
壷から掌に移した二人を、渡る風が舞い上げてゆく。
それは穏やかで切ない別れだった。
風に吹かれて何処までも行くといい。
遥か遠きまだ見ぬ地まで、幸福な旅をするといい。
笑いながら、見詰めながら、何処までも───ずっと。
無言で見守っていたミゲル隊長が、最後に小さく教えてくれた。
『カミュー団長は、おれの初恋の人だったんだ』
村の路地で振り向いた彼の、綻ぶ花のような笑顔を見たあの日から────
あるいは俺も、そうだったのかもしれない。
三日後、俺は彼と共にマチルダに向けて出立した。
二人の遺志を胸に、新たな騎士となるために。
「わたしが身元の引受人になっていたことに驚いていたようだな」
赤騎士団長が微笑んだ。
「実はずっと以前、カミュー様に書状を頂戴していたのだ。いつかおまえが騎士の道を選ぶ日が来るかもしれない。そのときには、よろしく見守ってやって欲しい、と」
「それにしても、マイクロトフ団長の養子縁組の書類が届いたときには驚きましたなあ……」
「この件は我らの手で押さえてあるから、騎士団の誰も知らぬ。さもないと、おまえの騎士叙位の速さがつまらぬ詮索を引き起こすのではないかと案じたのだよ」
ランド白騎士団長が静かに教えて下さった。
俺は死ぬほど努力した。
勿論、あの二人が心血を注いで鍛えてくれたから自信はあったが、何といっても始まりが遅かったからだ。
二十歳を迎えて晴れて騎士の叙位を受けた今、恥じることは何もないが、やはり二人のご威光だと思われるのは嫌だ。何より彼らへの侮辱だろう。
だから、騎士団長たちの心遣いは本当に嬉しい。彼らもまた、この日が来るのを待っていたのかもしれない。一介の騎士見習いでは、騎士団の要人と同席するなど到底不自然だからだ。
俺はあの懐かしい日々を生涯胸に抱き締める。
誇りを、信念を込めて騎士の誓いを立てた日と同じように、彼らと過ごした時間は色褪せることなく輝き続けるだろう。
赤騎士団長カミュー。
青騎士団長マイクロトフ。
二人の名がマチルダ騎士団の歴史に刻まれているように、いつか俺も二人に恥じない騎士となる。
鮮やかで美しく、そして無骨で誠実だった我が生涯の至宝。
親と呼び、友と呼び、憧れと思慕のすべてを捧げた彼らのために、誇り高く生きていく。
俺は目蓋の裏の二人に向けて微笑んだ。
それから懐かしげな表情の騎士たちをしっかりと見詰める。
「……では、何からお話しましょうか───」
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