閉じた世界で見る夢は・9


「マイクロトフ───マイクロトフ!」
揺り動かされて覚醒した男が最初に目にしたものは、この世で一番愛しいものの白く端正な顔だった。柔和な顔立ちは彼を案じるいたわりに溢れ、白みかけた窓の明かりに照らされて青く透き通っていた。
「あ……」
「大丈夫かい? ひどくうなされていたが……」
覗き込む青年は、指先でそっと男の髪を掻き分けた。そこで初めてマイクロトフは己の額が脂汗にぐっしょりと濡れていることに気づいた。
「カミュー……」
呼びかけに琥珀の目が細められ、苦笑混じりの笑みが浮かぶ。
「夢でも見ていたのか?」
「ああ───どうやら、そうらしい。あまりよく覚えていないのだが……」
「相当怖い夢だったんだろうな」
なおも笑いを含んだ口調。マイクロトフは怪訝に思って眉を寄せた。するとカミューはマイクロトフの髪を弄んでいた指を頬にずらした。拭われて、己が頬を伝っていた涙を知って愕然とする。
「おまえを泣かせるほど恐ろしい夢とはね。覚えてなくて幸いかもしれないな」
カミューの手を逃れるようにして自らの拳で目元を擦る。それから照れ臭さ混じりに呟いた。
「泣くなど、いつ以来だろう」
「そうだな、わたしもおまえの涙を見た記憶がない」
そこでカミューは寂しげに笑んだ。
「……出立前に見ることが出来て、良かったかもしれない」
「カミュー……」
「きっと……今の涙も懐かしく思い返す日が来るだろう」

 

 

 

青年は微かに目を伏せて何事かを噛み締めるように黙した。
それから真っ直ぐにマイクロトフを見詰めた眼差しは、鮮やかな輝きに支配され、見返す男を圧倒した。
「忘れないよ、何もかも。離れていても、いつの日にも。再びおまえと生きるその日まで……わたしは決して忘れはしない」
「……出立は今夜だったな」
「ああ、今日が我が騎士団における最後の日だ」
カミューは過ぎし日を思い返すように窓の外に目線を向けて頷いた。唇に浮かぶ笑みに、何一つ遣り残したことはないという満足を認めて、マイクロトフは静かに俯いた。
「騎士団を頼む、マイクロトフ」
向き直ったカミューは穏やかに言った。
「わたしたちの騎士団を……正しく導いてくれ」
「ああ……ああ、カミュー」
再興されるマチルダ騎士団に統率者はひとりでいい。
そう最初に切り出された瞬間に、マイクロトフはカミューとの別離という予想外の現実と向き合うこととなった。
魂の半身にも等しい伴侶と別れて暮らす日が来ようとは。
愕然としながらもマイクロトフはただ一言を返した。

────わかった、と。

 

他に何が言えただろう。すでに道を選んだ彼に。

 

 

「愛している、マイクロトフ」
それは殆ど彼から返されたことのない愛の言葉。
「どれほど離れていようと、心はおまえと共にある。忘れないでくれ、わたしが常におまえを想っていることを」
「わかっている、カミュー」
マイクロトフはカミューを抱き寄せた。交わした情の火照りはすでになく、ただ白くなめらかな肌上に残るくちづけの跡だけが幻のように浮かんでいる。この薄赤い花びらのような名残さえ、彼が旅立ち、マチルダから遠ざかる一歩一歩ごとに薄らいで、そしていつか消えるのだ。
マイクロトフは溢れる想いのままに其処に唇を落とした。噛み付くようなくちづけに鬱血が重なり、交愛のしるしはいっそう紅く色づいた。痛みすら覚えたのか、カミューは僅かに顔を歪め、それでも男にきつく腕を回す。
「マイクロトフ……ああ────」
彼もまた、マイクロトフと同じ想いを抱えている。愛した男の記憶を出来うる限り長く抱き締めていたいのだ。
最後の夜の交わりは深く激しいものだった。けれど宵闇が駆け抜け、別れの朝を迎えようとする今この瞬間にさえ、互いを求める熱意は鎮まろうとしない。
二人は飽かず名を呼びながら何処までも溶け合った。
やがて明けの鳥の声を聞く頃、燃え尽きた抜け殻となった恋人たちは重なるようにして短いまどろみに落ちたのだった───

 

 

 

 

 

マチルダ騎士団の頂点となる騎士団長の執務室。
新しい主人を迎えるために、それまでの贅を尽くした装飾を取り払った室内で、マイクロトフはひとり窓辺に佇んでいた。
精悍で雄々しい面差しを照らす紅の輝き。
陽光が最後の光を投げながら大地へと沈んでゆこうとする時の流れを、マイクロトフはただ静かに味わっていた。
『彼』もおそらく、城の何処かでこの夕陽を見ているに違いない。
自らが去っても配下の騎士が不自由せぬよう、あらゆる配慮を施しながら最後の日を終えようとする僅かな合い間。ここで過ごした日々、絆を交わした人々を、感慨を込めて噛み締めていることだろう。
マイクロトフはゆっくりと目を閉じた。
部屋を横切り壁に達した濃い影が、室内を染める赤々とした空気の中で唯一陰鬱な色を落としている。長いこと微動だにしなかったその影は、不意にふらりと揺らめいた。
「…………」
微かに震える広い肩。
彼は大きな掌で口元を押さえた。

 

 

執務室に置かれたソファには、少し前まで一人の男が座っていた。これから騎士団長となるマイクロトフには、日がな多くの客が訪れる。それらすべてを把握する騎士はおらず、その男も秘密裏に招かれた人物であった。

 

 

しばし震える全身を意志の力で押し止めることに努めた男は、やがて落ち着きを取り戻した。
取り払われた掌の下から現れたのは薄暗い笑み。
常に正しき道を選び取ってきた誠実で生真面目な男のそれとは微妙に異なる、冷たく凝った陰湿な笑顔。

 

もう片手にしっかと握り締められた小さな鍵がひとつ。来訪者が残していった、マイクロトフの願望への扉の鍵。
彼は低く呟いた。

 

 

「……間に合った」

 

 

今宵は新月。
その上、天空には掠れた雲が散らばっている。
ロックアックスは爪の如き細い月の下、静寂の闇を迎えるだろう。人目を忍んで出立を果たそうと目論むカミューの意図には、もっとも適した夜である。
先んじて手を打ったのは正解だった。危ういところで天は彼に味方した。掌の中で鍵を弄びながら、マイクロトフは沸き起こる笑いを殺し続けた。

 

 

「逃がすものか」

 

 

たとえどんなことがあろうと。
繋いだ手を離すことなど到底出来ない。
手に入れた鍵で扉を開く。そこはカミューと二人で過ごす夢の世界だ。何ものにも邪魔されず、カミューの思考のすべてを己で埋め尽くす、そのためだけに用意された閉じた世界────

 

 

「愛している、カミュー……決しておまえを離さない」

 

 

それが妄執と呼ばれる歪んだ偏愛であろうとも。

 

やがて夜が訪れる。
それは終わりなき夢の始まり。
マイクロトフは薄い笑いを浮かべながらゆっくりと目を閉じた。
広がる蒼い闇の中、美しく鮮やかな青年が微笑んでいる。

 

 

────しなやかに咲き誇る、赤い花に似た青年が。

 

 

                               End.

 

← BEFORE                      

 


キリリク指令を受けて7ヶ月あまり……
一応の完成をお届けします〜。
そらもう、夢オチしかないっしょ(苦笑)
これから現実が始まるってことで
『壊れたまま終了』を無理矢理クリア(笑)
ゆ……許されますよね、指令者様……??

さて、ここで振り出しに戻ります。
8話で心中しようが海老天丼になろうが
それはお好み次第ということで(笑)
ふっ……我ながら見事な逃げ方。

中盤のアレコレはともかく、
最初と最後はそこそこ満足しています。
唯一の心残りは
「お口の恋人」が洩れたことでしょうか(笑)
気が向いたらそのうち隠して追加するか……。

ともあれ、お付き合いいただきありがとうございました〜v

 

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