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ライオンズクラブ国際協会334-D2R1Z 高岡アラートライオンズクラブ

 2015年9月号 L.燕昇司正夫

万葉歌人 大伴宿禰家持が越中国守に赴任したのが二八歳。在任期間は天平十八年(七四六)~天平宝勝三年(七五一)。五年あまりの任期中に多く歌を詠みました。豊かな自然に恵まれた越の国を見た家持はわれわれに感動を与える歌を残したのです。
 巻一七ー三九五四
  馬並めていざ打ち行かな澁谷の清き磯廻に寄する波見に
馬を並べてさあ出かけよう、澁谷の清らかな磯辺に寄せてくる波を見るために)

「澁谷」は越中国府のあった高岡市伏木の海で岩礁の続く海岸の景勝地。
この一首は家持が歌宴後に、皆に美しい清らかな海を見に行こうと呼びかけた歌です。次に 巻一七ー三九五九かからむとかねて知りせば越の海の荒磯の波を見せましものを歌意(こうなるとあらかじめ知っていたら越の海の荒磯の波をみせてやるのだったのに)天平十八年、大伴家持が弟の大伴書持(年齢未詳、家持と五歳位年下?)が亡くなったことを遙かに伝え聞き、この歌を詠んだのです。 挽歌は本当に辛いものです。この歌を口誦すると弟の死別に目頭が熱くなります。家持は越の海を見ては書持を思い出し、書持を想っては越の海を眺めたのです。夭折した書持に最も見せたかった景が、風光明媚な越の海です。掲示歌、二首から家持はとても海を好んだことがよく分かります。海への畏敬の念を叙景し、また、家持の弟を思う心を叙情しています
 巻一七ー三九五四の「清き波を見に」巻一七ー三九五九の「波を見せましものを」から古代の越の海の美しさ、清らかさを窺い知ることができます。家持が見た一、二五0年前の越の海は「海神」に相応しいものだったのでしょう。

 澁谷は現在の雨晴海岸付近で、富山県高岡市北部の海岸。能登半島国定公園に含まれ、日本の渚百選に選ばれています。富山県は弓形を描くように一四七キロメートルの海岸線が延びています。その海岸線の西部に位置するところに高岡市(澁谷)があり、大伴家持は日々、国守の仕事をしていたのです。

 この万葉の地に、三月八日に認証状伝達式を挙行し、高岡アラートライオンズクラブが誕生しました。
 平成二七年五月七日、第十一回例会が早朝六時~七時まで、初めての清掃奉仕が計画されました。場所は高岡市松太枝浜海水浴場。出席者は環境保全委員長L伊勢鉄弥をはじめ二四名。私も初めてライオンズマンとして清掃作業に従事しました。

ウィ・サーブの心を知る機会と、また絶好の清掃日和に恵まれした。海岸は流木の残片、ペットボトル、漁具、たばこの吸殻そしてプラスチックの日常雑貨類など多種多様のゴミです。大きなゴミは比較的拾いやすいのですが、一センチくらいのプラスチックの破片に手間暇かかるわりに成果がないのです。現代社会に生きる我々は科学の恩恵を受け便利な生活と引き替えに自然を破壊していることを思い知らされます。
このことから、清掃活動を啓発し、ポイ捨ての不道徳をなくして、環境保全の意識を高める清掃活動は大切なことです。
 一、二五0年前、白砂青松の海が、現在、ゴミだらけに変貌した海辺を見れば家持は嘆き悲しむだろう。私は、大伴家持を思い、彼が望む清い海、清潔な浜辺を取り戻すために一片一片のプラスチック破片を拾い集めました。「家持の見た海を取り戻したい」「家持が弟に見せたい」と希求した海に少しでも近づけたい気持を持ちながら清掃に汗したのです。「万葉集中に詠まれた海のように、白砂の浜辺のように」と、つぶやきながら海辺のゴミ拾いをしたのです。今を生きる私たちは、後世の人びとのために美しい自然を残し、裸足で楽しめる浜辺を美化する天命があります。家持が美しい海の歌を残した心に同契し、我々は美しい山・海・川を残す責務があります。自然があり、人の心があるところに、詩が生まれ、歌ができるのです。
 環境保全を目指す高岡アラートライオンズクラブにとって、緒に就いたばかりの事業です。そして、メンバーと力を合わせ一歩一歩進みたいと願うのです。

アカデミー賞
 2013「アカデミー賞」は作品賞「アルゴ」主演男優賞に「リンカーン」のダニエル・ディ=ルイスと発表された。しかし私が選んだ作品は「白寿を祝う会」主演男優賞はL.井村東司三である。
封切上映「白寿を祝う会」:201335日。
高岡市射水神社「瑞祥の間」。
「私はライオンズが大好きです、私はライオンズが大好きです。」99歳にして主役は矍鑠と力強い声で観客に感動を与え、拍手の渦で「白寿を祝う会」は佳境に入る。
 主役にL.井村東司三、相手役に井村敏子で演ずる2時間余りのストリーを鑑賞するのは99名のライオンズ関係者である。訥弁ではあるが彼の色っぽい話術は間合と抑揚、人の心を揺さぶる不思議魅力がある。五尺の小躯、眼光炯炯としているが少年の様な輝きを放し、医者としての威厳である整った口鬚、安定感ある太い眉、九十九の春秋を見てきた額の皺は博学才穎。20127月には角膜移植医療の実践及びアイバンク活動の推進に著しく貢献をした個人や団体に贈られる「今泉賞」の栄誉に輝いた。今もなお、結成以来クラブ例会に出席を続ける白寿翁をどのように表現すれば分からない。メルビン・ジョーンズは1917年ライオンズクラブ設立に、石川欣一が東京ライオンズクラブ結成に尽力された時の「情熱と希望」が乗り移ったかの様に1964年高岡古城ライオンズクラブ結成に加わり334-D地区の礎を築かれた。1982年ガバナーの任に携わり、334-D地区元ガバナーは、アイバンク後進県の汚名を返上と1991年富山県アイバンク設立に漕ぎ着けた。
 2001年の出来事を述懐してみると白寿翁に忖度することができなかった。私は奉仕活動について「アイバンクの男」とライオンズについての大論争をした事がある。アイバンクの男、即ちL.井村東司三は1925年の国際大会で「3重苦の聖女」と言われたヘレン・ケラー女史が訴えた視覚障害者の支援を淡々と語る。私は奉仕活動の多様化に対応した事業費の配分を力説した。理由は県内のライオンズクラブと県の助成金で富山県アイバンクが資金は潤沢にあり運営されていると思ったからである。当時私は視覚障害者の為に点訳奉仕活動をして視覚障害者の置かれている実態も充分把握していた。その後アイバンクへの助成金が減額となりアイバンクの運営に多大な影響を与えた。その後、白寿翁とは気不味い関係に陥った。然し2001年ライオン誌の獅子吼に「1粒のチョコレート」に投稿すると、白寿翁から賞賛のハガキが届いた。白寿翁と年賀状のやり取りで豊かな心に触れるのである。
舞台で白寿翁に99本のチューリップの花束を贈呈へと移る。司会者に「ちゅうりっぷの辞」を朗読してもらう。
『「馬齢を重ね・・・」と言う賀状に思う。生涯薫陶を受ける人は多くない。駿馬に一歩、いや一蛙でも近づきたい。ライオンズクラブは何と尋ねられると「井村東司三」畢竟「井村東司三」の存在こそライオンズクラブの矜持である。事新しく述べるまでもない。』
朗読の声が耳に心地よく響き、少年は刮目して待つ間、私は「ちゅうりっぷの辞」を捧げながら一歩二歩と白寿翁の前に進む。大論争を思い出しながら花束を手渡した時、奉仕の心に齟齬がないことを少年の眼が語り、私の心に滋潤を与えてくれた。世界の134万有余のライオンズクラブに白寿翁のような人が存在するのだろうか。「白寿を祝う会」はどんな映画よりも感動を覚えた。この一日だけの封切映画は観客にあらためてライオンズ会員であったことに誇りを持ったであろう。
 彼の人生は多くの褒章と栄誉でつつまれているが、「ライオンズが大好き賞」が最も相応しい賞と考えるのは私だけではない。
L.井村東司三がライオンズマンとして掉尾を飾るのは角膜が摘出され、無事移植されたときであろう。
「我が生涯、最後の奉仕は献眼」を口癖のように唱える言葉、そして崇高なライオニズムを私たちは後世に伝えたい。
記念の色紙に「祖国愛 自由と知性 豊かな心」と書かれていた


それは絆・・・IT化

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 某テレビ局の番組で「熱中人」があった。
難読地名などを地図と辞書をたよりに、3,287クラブ名を打ち込んだ。山地の風に吹かれ草木の香り漂う町、日々喧騒で活気溢れる街、潮騒の音と共に暮す漁村、全国の汽笛響くみなとまち、霙交じりの怒涛寄せる海、歴史と文化を伝える城下町など、地域風土と方言を想像しながら作業する日々が続いた。
ある日、友人がクラブの補正出席(メーク・アップ)のあり方について呟いた。『本当の補正出席は他クラブを訪問することがベターと思わない。』私はライオンズクラブ国際協会の地区役員などで在籍クラブ以外のクラブを訪問し、いろいろと学んだ経験でクラブを客観的に見ることができた。他クラブを訪問して感じることは、当然と思われていたクラブ運営が案外当然ではないことに気づく。例会場に一歩足を踏み入れた瞬間、クラブの雰囲気が伝わってくるから不思議なものである。私はこの雰囲気の違いがクラブの歴史と伝統と思うのである。私は年度始めに全国のライオンズクラブのホームページ(HP)でクラブ訪問をするクラブ訪問「熱中人」である。
 現在、日本に3,287クラブあるが、ホームページを開設しているクラブは1,140クラブ程である。年度始めにクラブ方針などを更新しているクラブは約10%程である。津々浦々北から南までHPでクラブ訪問をしてみると実際に旅に出て、地域風土を肌で感じる錯覚に陥る。HP開設クラブはクラブを愛し、自信に満ち溢れ、我がクラブこそ泰斗だと、日々のアクティビエィの成果を誇示している。3,287のクラブ全部がHPを開設している訳ではないが、地域に必ず一つのクラブは開設している。開設クラブどのページも「ライオンズとは」常套句の様に謳っているが、これはライオンズクラブ外へのPRの為としたらホームページの言葉遣いに注意すべきものがあると考える。会員名の前につくL・役職名のZC等は会員以外の人の意見を聞くと違和感があるというのである。
クラブ向けのHPなのか、クラブ外向けのHPなのか?  クラブ外向けならば極力ライオンズ用語を使わない方が分り易いように思える。
クラブの委員会活動、アクティビティは執行部と所属委員会のメンバーしか知らないことがある。クラブ全員にどの様なアクティビティを行ったか例会などで報告をしているが、事業の趣旨と結果を知ってもらう必要があろう。
HPに載せることで臨場感が伝わり、絆が深まるのではないかと思う。
 HP制作にあたり、いつも心がけていることはスピードである。このスピードこそHPの生命線である。この生命線を保つ秘訣はアクティビティに参加して事業を理解することであろう。即ち業者(プロ)にページの制作を依頼すればフラシュなどを使い美しくて魅力的なページができるだろう。しかし、大体スピード感がなくその後の更新に繋がらない。この難問をどのように解決するかはIT委員会などが勉強する方法しかないと考える。私は全国のクラブの検索とLinkで親しみと絆を得ることが出来た。全国の中であるクラブから強烈な刺激を受け、感動を覚えた。それは伊都高野山ライオンズクラブ(和歌山県335-B地区)の物故会員慰霊祭の行事である。慰霊委員長が中心になり物故者への絆を大切にしているのである。
 高岡志貴野ライオンズクラブは8年前、ある会員の提案に感ずるものがあった。『20年以上も同じ旗印の下、行動を共にした仲間がクラブを去った瞬間、逝去の報に接してもクラブとして無視できるだろうか?』
現在、クラブ独自の内規が定められている。[慶弔:在籍20年以上の元会員の逝去に対して弔意を表す。]
 これを機会にチャータ・メンバーの二世の在籍状況を調査した。物故会員家族の回帰率25%退会者の回帰率4.8%であった。物故会員家族の回帰率の高さに注目すべきである。
 物故会員の家族との絆、理由があって退会した人との絆はライオンズクラブの最もよき理解者の筈である。ライオンズクラブの一つのPR方法だと考えている。
 「逝去した元会員が何年在籍していたか?」と聞かれると即答できないのが現状であろう。過去の会員報告書(国際本部提出)を紐解いても相当難儀である。IT化、即ちデータ・ベース(会員報告書・活動報告書など)を作りあげることにした。43年間のマンスリーレポートを1ページ1ページ劣化した紙を見ながら、そして散逸した資料を求め、当時の会員の想いを馳せらせ忖度する作業が続いている。
 あなたもホームページでクラブ訪問の旅を楽しんでみませんか?



一跬への挑戦

 20041015日、四百四病の網を潜ることが出来なかった。当然、神様から四百五病はまかりならん。昧爽の唐突な肉体偏重が「一跬への挑戦」となるプロムナードになるとは予想もしなかった。地球の重力は地に牽かれるが、私の体躯はニュートンの法則に反し右側に重力がかかる。天と地の逆転、左と右の逆転、俯瞰する光景は不思議な視覚の異常は・・・ゆうまでもなく尸解。飲酒してジェットコスターに乗船する気分の連続は忍耐の限界を超えていた。咫ほど頭部を回転すると激しい地球の回転が始まる。
 一連の検査は吐瀉しながら無意識の中に終わり、治療の始まりである。点滴の影響による排尿行為を看護士は寝たまま尿瓶で取るように言うのだが、半世紀あまり男は立って用をたすものと体が覚えている。でない・・・・・でない、すると看護士は私の性器を無造作に摘み尿道に管を入れる。若い看護婦と女房の属目は少年のような含羞と中年の愧赧に拍車をかけた。
 医師、看護士による献身的な治療が進むにつれ仕事、家庭、ライオンズクラブの事が気懸かりになる。淪楽的性格は肉体の不自由を凌駕することなく暗い隧道へと吸引し始めた。脳幹梗塞の痼疾を抱えライオンズクラブの責務が行えるか不安が襲い、輾転反側の日々を過ごす。リハビリの開始は自分の足で歩くこと、自分の目で文字を読むことである。自分の足で立てない、片膝を床に安定させ右足をしっかり床に密着させ、ゆっくり身体をあげる。激しい蹌踉があり、右肩から身体が崩れ落ちる。今まで無意識にしていた行為を意識しながらするのだができない。私の手足となるパソコンの画面は右へゆっくり旋回するので文字が読めない。悔しさよりも肉体の神秘に驚くばかりである。
 私の足で一歩を踏み出せるのは何時のことになるか、不安が付き纏う。一跬への挑戦がスタートした。20057月からの会長職が待っている。71日までまだ200日以上がある。焦ることはない、鬱勃たる気持ちの高揚が桎梏の肉体の鍵を外してみせる。私のリハビリの意欲はライオンズクラブが原動力になりつつあった。この冬を過ごし、春を過ごし、会員の顔を見る喜びがある。もしも、ライオンズクラブの会長職が無かったら、私のリハビリは徒爾として消え急速な回復はなかったであろう。
 この7月からの期限がリハビリの意識を高め、ベッドの中で次期への構想を起こし、奉仕について考える機会をうることが出来た。

 それは、医療機関で働く人の昼夜を仄聞するにつれ報酬以外の気持ちがなければ出来ないことが伝わってきた。優しさ、厳しさ、愛、熱意等々が患者を再び復帰させていることを知るのであった。ライオンズクラブも奉仕活動を考えた時、この目に見えない気持ちが必要なのだとベッドの中で思うのである。
 私のクラブスローガンはこの時「惻隠の心でウィ・サーブ」に決定したのである。日常の生活の中に奉仕活動がある。クラブモットーは「日々 We serve」が思い浮かんだ。
 20057月の第一例会を迎えた。車椅子の会長なんかかっこ悪いじゃないか。一跬への挑戦から二足歩行で演壇のマイクで会長の所信表明を終えた時、私はこの演壇に立つことが出来たのはライオンズクラブのお陰と実感することができ感謝に満ち溢れていた。
 ラブスローガンとモットーは病棟で教えてもらった感謝の気持ちと奉仕活動のあり方である。私は宿痾に一生お付き合いするのだが、病院での経験は心の澎湃に繋がり、新たなライオンズクラブ活動の原点になるであろう。あと23回の例会を乗り越えたとき私の「一跬への挑戦」は了とする。



一粒のチョコレート

一粒のチョコレート
 薬一つ服用しなかった少年は、初めての錠剤を水でガブガブ飲んでもなかなか飲み込めなかった。ご飯なら意識せずに飲み込めるのに少年は不思議に思った。黄色い錠剤は喉奥に異物の様にへばりついているだけである。その後、少年は一ヶ月余り白湯以外口にするものがなかった。退屈な日々、写るものと言えば微笑みで接する看護婦の顔と母の顔、そして圧迫感の天井板と枕元にあるリボンで結ばれた小箱だけである。少年は美しい包装紙の中味のことだけに意識があり、それ以外に興味がなかった。少年は誰もいないことを確かめ、仰向けになったままリボンを解き、隠れるようにして一粒のチョコレートを口の中に入れた。チョコレートが口の中で自然に蕩けるのを待ち、喉元を通り抜ける感触を味わった後、開かれた小箱を元の形にして、何事も無かった様にそっと枕元に返した。
静寂な廊下は突如、行き交う看護婦の足音やドアを開閉する音で事態が急変した。少年のこころは動揺と不安で渦巻いていた、しかし少年はことの顛末をよく知っていた。今までにない大量の下血は両親の不安を増幅させた。医師と父の会話に母は目頭をおさえて「どうして」と独り言の言葉を反芻するだけである。
「のぶちゃん、このチョコレートは元気になったら食べようね」この母の言葉の意味を少年は十分理解できる年齢であった。がしかし少年は禁断と知りながらチョコレートを口にしたのである。少年の病名は「紫斑病」である。毎日、栄養をとるためのリンゲル注射、下血を抑える血止めの注射、下血を補給する輸血の注射は健康を回復するたの針である。細い腕や大腿部に毎日10本ほどの注射針がうたれ、柔らかい筋肉は日々それを受け付けないほど硬直していった。
当時、血の補給だけが少年の生命を維持する医療である。私の住む地方は昭和29年当時、献血システムなどがなく、輸血は売血に頼っていた。
祖母は母に厳しい人だったが、毎日の売血のお金に関しては文句一つ言わなかった。200ccの血が幾らぐらいだったのか知らないが、家計の負担になっていたことは想像される。その後、母はよく口にした言葉は「血を買えない患者はね…」。
 近代医療の進歩、発展とともに献血システムの浸透が多くの患者を救っている。現在、ライオンズクラブは四献運動を重点活動として、献血システムの一翼を担っている。もし、40数年前にライオンズクラブの献血運動が敷衍していたら、亡くなった祖母はライオンズクラブに対して驚きと賞賛の言葉を発するはずである。
 私は入会以来、クラブで献血のアクティビティに参加すると、必ず一粒のチョコレートの甘い甘い味覚を思い出すのである。この「一粒のチョコレート」のことは年老いた母には未だに話していない。生まれて初めて作った秘密を抱えたまま半世紀程過ぎ、告白することもないであろう。話せば一粲して終わるだろうが、話すのが怖くて口を閉ざしたままでいる。このことに関して幼い心のままである。

 血を買って助かった命も、献血活動による血で助かった命も善意の心が人々を救うのである。

高岡志貴野ライオンズクラブの献血活動は334-D地区の中で地味だが着実に成果と結果を出していると自負できる。積み重ねてきたアクティビティは高岡志貴野ライオンズクラブの財産である。そして、この財産を次の世代に繋ぎ、奉仕の心を繋ぎたい。私の心が惹かれるwe serveの源は、幼いころの「一粒のチョコレート」にあるのかもしれない。

私の碑文

私の碑文

立山は日本の尾根を走る、中部山岳地帯に最も屹然とした山である。富山平野に数万年前より兀座する険しく聳え、魑魅が住む精霊の山である。
立山を蟠踞する精霊に「山のお袖をお借りしてもいいですか」
山曰く「瑣末なことよ瑣末なことよ」
2001年度334-D地区12リジョンは心身障害者支援『Lions Forest Hill』事業を模索していた。
 この事業の目的と効果について述べると下記の通りである。
標高830メートルの山林の中、大自然が育んでくれる『森林の空気・緑の匂い・大地の温もり』がある。この場所のすべての生命が、いきいきと輝いている美しい環境である。障害者・児童たちが、こうした大自然の環境に触れ・遊び・森林浴によって生きる喜びを感じ、愉しさが湧き愛を実感し、そのことによって彼らの情操陶冶が培われる。
 LFH事業の淵源は健常者、障害者そして青少年が高次の情緒を育み涵養することである。事業計画をライオンズクラブ国際協会本部LCIFに助成を恃むこととなった。申請額US75.000は垂涎の的であり、不可能と考えながらLCIFに一縷の望みを賭けた。申請は鎧袖一触を予想していただけに、20024月に交付決定額US67.670の吉報を耳にして喜び合った。
LFH事業に携わるライオンは雀躍の表情を隠すことなく、僥倖に感謝したのである。
 神々しい立山に自然と調和したライオンズの森公園(LFH)を建設することは幻想に近く、二名のリジョン・チェアマン(L.本村哲明 L.川原隆平)の想像を越える事業に変貌していった。十重二十重に発生する諸問題にリジョン・チェアマンの八面六臂の活躍は多くの会員に情熱と希望をもたらした。
LFH事業を成就する為、数名のライオンは基本的なこと畢竟、木を愛し樹木の心を知悉するための研修会に参加した。彼らは秋霜烈日、樵の様に鎌、鋸、斧を巧みに使い隘路を拓く。鬱蒼とした山林が日々姿を変え、叢に燦々と光が落ちる。 昨年、富山県内のライオンズの会長、幹事百名余りが参加して第一回の植樹を六月に、第二回は十月の櫛比沐雨の中で植樹を行った。ブナ、白樺、山桜の苗木を慣れない手付きで我が子のように丹念に植樹作業を行った。立山の厳冬に耐えて、あの苗木のどれだけが越冬して春を迎えるだろうか。そしてこの春、第三回の植樹を計画している。豪雪の重みに耐え、一本でも多くの苗木が立山の兀に馴染んでいることを願うだけである。
 植樹は計画通り進み、この後遊歩道の整備、ログハウスの建設等が予定されている。単年度だけでこの事業を完成させることは不可能である。今後も金品と労力を必要とするこの事業に地域社会の期待と視線を感ずるのである。苗木が凛とした大樹となり、この地に同化出来たとき、この事業の了をみるのである。
 さて、分水嶺の雪解け水は幾年月もかけ大きな石を神通川に運ぶ。その一個の流石をライオンズの森公園(LFH)正面に置くことになった。勿論碑文ということが議論され、碑文検討委員4名が任命された。
 ライオンズはLFH事業を大々的にPRすべきことも肝要だが、事業はまだまだ道半ばであり、これからも多くの人々の協力と理解が必要である。LFH事業の小さな一つ一つの活動から、人口の膾炙することが重要である。
 LFH事業を耽美化せず衒うことなく、枯淡の境地で継続することが、ライオンズクラブの最大のPRになると考える。LFH事業が強弩の末、山の夾雑物、立山の残滓にしてはならない。数十年後ライオンズクラブの至宝になっていることを願い、江湖の各方面に感謝すべきである。
 山曰く「ライオンズの矜持よ矜持よ」


中国を旅して
CA922便は、関西国際空港を十五時三十五分に離陸した。飛行機の車輪が金属音をともない日本の地から離れた瞬間私はだれもが経験するある種の不安を経験した。私は無宗教であるが、自分のうちなる何かに祈ったことを告白する。
 雲海を飛行すること約2時間、飛行機は旋回しながら着陸態勢に入った。微睡みのなか最初に視界に飛び込んで来た風景は、点綴する鶯色のため池であった。私は、人間の手が加わっていない、少女のような大地に魅了された。
 人と車の大洪水、かん高い喧噪と車の警笛が北京の活気を表している。騒音が、次から次へと波頭のように打ち寄せる。北京飯店から見える平安門広場の道路には、車のヘッドライトが大動脈の血液のように流れている。この光景は中国の未来を連想させ、近い将来に日本を凌ぐであろうという不安を与えるに十分な光景であった。
 CA1651便は、修理のために一時間遅れて錦州空港へ飛び立った。今までの光景が除々に失われてきたのに気づく。内陸部に入るに従って、緑地と黄土の比率が逆転していくのである。上空からみた錦州の街は、黄一面の渇いた大地が広がり、水らしきものの存在が全く目に入らない。ここでも埃と騒音そして胸をつく油の匂い、無秩序に行き交う馬車、自転車、人間があった。ここには一つの法則がある。それは自分の優先順位が一位だと、すべてのものが思っていることだ。劉長貴と数人で夜の街にっ繰り出す。大衆の生活を知ること、大衆の食を体験することが、中国の生活と文化を知る最もよい方法である。が、無菌室に育った団塊の世代の私には、店の汚れと食器の汚れが食欲を奪い、拒絶する。
 焼き鳥といっても、足の軟骨ばかりのものを串に刺して大皿いっぱいに出されるのである。ここで大事なのは、食材を聞く前に食べることである。中国ではすべてが食材である。軟骨を歯で砕き、味わうことなく胃袋に流し込んだ。劉長貴は、食べ物が残った私の皿を一瞥したが、視線は左頬に冷たく突き刺さった。屋台を見てみると、中国の料理は強力な火を使う。それは彼らの体を守るための料理方法である。それに比べると、日本の料理方法は水を贅沢に使う。文化と風土の違いが、調理方法に現れている。数年前、「一杯のかけそば」の物語が人々の涙を誘ったことがある。が、比べようもない中国大衆の貧しさに私の価値観が音をたてて崩れていった。一週間の旅行をして、再度北京に戻る。

 中国のイメージが自分の内部で変化して、侵食されていきことに気づく。最初の夜に見たヘッドライトの流れが大動脈であっても、まだ全土に広がる毛細血管に地が流れていないっことも事実である。日本を凌駕することはないであろうと、豊かな日本で生まれた私は安堵のため息をつく。が中国のある老人は、近い将来日本を超えるであろうと言った。行けども行けどもコウリャンとトウモロコシ、行けども行けども黄土と砂漠が広がる。扁平な道路は陽炎で歪んで見える。大地も時間も悠久の単位で動く。中国人の近い将来とは、二百年先の話である。
 中国を旅して発見したものは、日本の豊富な水と植物、そして動物である。帰国して、わが家の蛇口から光輝いたコップに水が音をたてて満たされた。