前言 新南群島 大正6年 大正13年 |
平田米治が探検 7年ラサ工業が調査 1919~1924までラサ工業が燐鉱石、グアノを採取 近年は中国が九段線という厚かましい主張で他国の近隣まで占拠し要塞化している。 中国には古来国境線という考えはなく ロシアと愛琿条約、 ネルチンスク条約で初めて国境の締結をした。 新南群島は南沙群島とも呼ばれ現在中国とベトナムで領有争いをしている。 |
南洋群島 昭17年 |
第一次大戦のドイツ敗北の結果1922年ベルサイユ条約で 国連のC型委任統治になりドイツより日本が譲渡を受ける。 南洋庁 1922年発足~1945年 パラオのコロールに役所 現在 パラオ共和国、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦 全人口 52,000人 (日本人 3,600人) 全人口135,000人 (日本人 84,000人) 漫画 冒険ダン吉 島田啓三画 少年倶楽部に昭和8~14年まで連載 昭和5年には歌 「'酋長の娘」が流行 |
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冒険ダン吉になった男 森小弁について |
明治13年 明治16年 明治18年 明治19年 |
トラック島 現在のミクロネシア連邦 チューク州(旧トラック諸島) 人口約55,000人日系人子孫16,000人、森直系約千人 日系、森小弁、白井孫平,相澤庄太郎、中山正美などの子孫 高知市で郷士の2男として生まれる。 5歳 父大阪市の裁判所勤務で移る 11歳 父死亡、高知の祖父に預けられる。海南私塾に通う。 13歳 若年から政治運動の携わり 自由民権運動の演説会場で 板垣に質問 高知は壮士は多いが日本中が自由党の気風にならないと薩長の政府は倒せない、もう議論する時ではない。 坂本龍馬のようなあだたん(枠に収まりきらない)男になれといわれる。 秩父困民党(1万人が一週間の革命)に参加 首謀者 落合寅市 乱に破れて板垣を頼って土佐に来る 韓国の革命支援に爆発物をもって渡ろうとして大阪で5人、 長崎で17人 森小弁も逮捕され獄に入る。 (17歳)裁判長「君は政治家になるつもりですか」 小弁「元士族も百姓も薩長もないどんな地位の人でも生きることができる 世の中に 裁判長「孟子を学びなさい、今回のような武力で人民や他国を服従させる 覇道は それが千人の村でもかまいません。 徳で治める政治家になりなさい」 軟禁錮2年、監視1年の刑をうける。 |
明24年 |
12月25日 一屋商店の天祐丸(91,3T)9人で横浜出航(21歳) |
初期 |
輸出 マッチ、石鹸、日用雑貨品、衣料、ランプ 輸入 コプラ(椰子油の原料)石鹸、蝋燭、人造バター、 南洋の産物 農業 タロ芋、砂糖キビ、パイナップル 林業 椰子繊維 コプラ 水産業 鰹節、缶詰、海鼠 鉱業 燐鉱石、ボーキサイト |
明治25年 明治26年 |
1 南方に行く途中 小笠原島で 金玉均(韓国開化党の志士)幽閉中に会う 白井孫平(恒信社、榎本武揚の会社)と知り合う 日置合資会社、明39 南洋貿易株式会社 新村貞之はポナペで下船 森小弁は トラック,モエン島で下船 ポナペから連れてきた下僕のネチャチャ住む。 イライス村 酋長マヌッピスの信任を得る。 1年後白井も来て共に二人で仕事をする |
明治27年 |
二人は独立してスペイン、ドイツ、日本とも自由に商いをする。 金玉均が3月上海で暗殺さる。 |
明治28年 |
(26歳) 永楽屋の赤山白三郎も来る。 2月10日赤山白三郎 トールのルエッペンにパラム島のアモク酋長の妻を寝取って殺される |
(27歳) |
ポナペの新村 宗教の争いに巻き込まれ亡くなる。 ルエッペンが森に自分に娘ができたら婿に来いと言う。 右手首銃の事故で失う。 |
大正3年 |
(1914)(45歳) 8月第一次世界大戦発生 10月 軍艦鞍馬 トラック制圧 ドイツが去り 日本の時代になる。 森小弁からドイツ統治の失敗や 南洋社会の内容を聞き取り統治と 移民政策の基軸造りに取りかかった |
大正4年 |
7月 佐藤征志郎が企画した 酋長19人の内地視察観光団が内地旅行、 その後恒例となり親日の下地作り。 小弁 夏島島民学校を 三校 自費で設立する。 運動会や 相撲大会を 行う |
大正8年 |
(51歳)6月ベルサイユ条約で日本の委任統治になる。 |
大正11年 南洋庁発足 |
(1922~1945)23年間の治政 公学校、病院、港湾、道路、電気、水道の整備 小弁はコプラ輸出で得た利益で学校、道路、橋梁、波止場など民政向上、 またコプラの製造法の改善などに尽力する。 勲八等瑞宝章、従軍徽章を授与 |
昭和14年 |
髙木頼道トラック支庁長赴任 小弁 日本人と島民融和の大運動会を提唱 島民の勤労奉仕で一万坪の運動場を埋立て完成。 |
昭和15年 |
4月29日天長節 15,000人の大観衆を集めて大運動会 |
昭和16年 |
井上成美第四連合艦隊司令長官着 昭和16年ララ運動場海軍接収す。日本は必ず負けるで一致. |
昭和18年 |
歩兵77連隊第三大隊(金沢)配備 森茂喜隊長、終戦まで島民15,000人、 軍隊45,000人。4倍に人口増え餓死者発生。自活生活 |
昭和19年 2月 |
トラック島大空襲 4、5月再度空襲 艦船52隻、航空機270機、最大被害 |
昭和20年 |
8月20日 76歳で死去 七代大統領マニー・モリは小弁の曽孫にあたる。 サイパンと南洋興発 松江豊寿(明治5年生) と 松江春次(明治9年) 兄、豊寿は明治維新で賊軍の辛酸をなめた会津武士の経験、露、独の捕虜に対しても武士道の扱い。 大正11年会津若松市長に 春次は4歳下の弟, 大日本精糖に入社 米 ルイジアナ大学に留学後 大阪工場長就任 退任後台湾の製糖会社に参画 1921年11月 南洋興発は 東洋拓殖会社が80%出資してサイパン、 テ二アン、タ島に製糖所をつくる。 海軍、南洋庁の庇護 松江春次は当初 専務 数年 虫害、旱魃に苦労する 沖縄県から人集め、後に 福島県からも1925年から ようやく業況は好転 病院、演劇場、理容院、売店 福利厚生施設にも力を入れる。 |
1930年 |
社長就任 1931より 南洋興発は業績が上がり 出港税の納入多で 南洋庁の 収支は黒字化 国の財政に貢献 |
1931年 |
ニューギニア進出 1937セレベス、チモール進出 海南島進出 |
1943年 |
体調不良で相談役に就任 敗戦で閉鎖 1954会社消滅 シュガー、キングの銅像今もサイパン島に残る。 南洋興発 海の満鉄と呼ばれた 従業員48,000人 精糖、アルコール、タピオカ、燐鉱石、製材、石油、水産、海運業、 南洋の発展に寄与 サイパンの戦い(19,6,15~7,9) 日軍 31,629人 戦死30,000人 一般人戦没8000~10,000人 バンザイクリフ 米軍 66,779人 戦死3441人 戦傷者11,685人 テニアンの戦い(19, 7,24 ~8、3) 南洋興発の民間人15,700人は角田軍司令官の自決せず生なさいとの 言葉で13,000人が助かる。 日軍 8,500人 戦死8,000人 テニアンの空港は日本本土空襲のB29の発進地となり 広島、長崎の原爆も ここから出発 米軍 54,000人 戦死328人 パラオの戦い アンガウルの戦い、ペリリューの戦い アンガウルの戦い(19、9、17~10,19) ドイツ時代から燐鉱石を採掘 2500人くらいが住んでいた島 日軍 後藤丑雄少佐 (水戸、高崎)1250人 戦死1191人捕虜59人 20倍の敵 米軍 ポール、ミュラー 21,000人 戦死260人 戦傷者2,294人 パラオ共和国 南洋庁、コロール 人口19,000人 初代大統領 クニオ,ナカムラ ペリリューの戦い(昭19,9、15~11,23)中川州男大佐(宇都宮) 従来の日軍のむやみな突撃をやめ蛸壺で持久戦を戦い長持ちす 日軍 10500人、戦死10,695人、生存34人 米軍の死傷率は最大となる。 米軍 48,740人 戦死2,336人戦傷者8,450人 米軍最高の戦闘損害比率(約40%) パラオ共和国 現人口 18,000人 昭和18年 33,960人 (パラオ人6,474人、日本人25,026人、朝鮮人2,460人) コロール、ベルダオバブ、ペリリュー、アンガウル ミクロネシア連邦共和国 現人口 115,000人 昭和 18年 125,000人(原住民40,000人 日本人85,000人) 4地区 ポンペイ、コスラエ、チューク、ヤップ 24地区 ラリック諸島 、ラダック諸島 原水爆実験地 タックス、ヘブン(便宜船籍) 戦前の社会は日本人と島民が共存して漁業、農業などの生産があり生活環境も 向上した。 戦後の米国統治は軍事的価値のみ強く基地、核実験場など。 缶詰と金の援助だけで島民の発展向上は考えていない。 日本政府の援助ももっと青少年の教育や、産業育成、技術向上などの援助をお願いしたい。 |
参考資料 |
中島 敦 小説家、南洋庁教職員 「李陵」「山月記」 「ミクロネシア巡島記抄」 土方 久功(ひさかつ) 彫刻家 玉砕の島ペリリューから帰還した父 ゆき惠,ヒアシュ著 潮出版社 冒険ダン吉になった男 将口泰浩著 産経新聞社 |