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ライオンズクラブ国際協会334-D地区2R1Z高岡アラートライオンズクラブ

故 L.松谷吉弘さん追悼の言葉 会長L.板野吉秀
友人を代表して一言話をさせていただきます。私は、本年度高岡アラートライオンズクラブ会長の板野といいます。今日は松谷吉弘さんの本七日です。
当人も今、この式場に来て、「長く生きたかった、まだまだやり残して、人生を終わりは無い」
と無念の結果を語りたいのではないでしょうか。松谷吉弘さん、本当に長い間いろいろ、ご指導をいただきありがとうございました。まず、私と知り合ったきっかけは平成元年、高岡青年会議所に入会したときからの友人でした。私と松谷吉弘さんは同期入会で、当初、松谷吉弘は独身で青年会議所活動、仕事に趣味に頑張っているお姿を思い出します。
その頃私はまだ親父の元で働いており、自分の時間が取れなくて例会も休みがちでした。こんな私に優しく接してくれました。
青年会議所時代、松谷吉弘さんは地区(富山、石川、福井、長野、新潟)をまとめる地区幹事の役職を持ち、その後平成13年お父さんを亡くされました。そのころは会社経営にも真摯に取り組んでいたのを思い出します。
また、高岡志貴之ライオンズクラブでは東日本大震災の支援の折り、福島支援という意思は誰よりも強く決断されたのは松谷吉弘さんでした。その後高岡アラートライオンズクラブの結成に参画し、現在の高岡アラートライオンズクラブの基礎をつくられました。思い出は数多く、楽しいこと、悔しいこと等を共有いたしました。東日本大震災の支援は二十四ろく中電話が入り支援活動の中心的人物でありました。3月冬の道路事情は、雪の心配など数人で議論を重ね、支援先を福島県に決定し、諸先輩に協力をいただき支援を決行、猪苗代で支援物資を届け郡山市に炊き出し支援へとアクティビティを行いました。猪苗代でガバナー、福島県ライオンズメンバー特に郡山南ライオンズクラブ員との繋がりが生まれました。松谷吉弘さんとは意見相違、口論になったこともありました。本当に熱い思いの松谷吉弘さん。
今となれば、良い思い出となりました趣味も車やキャンプ、温泉巡りと多趣味でした。頑張ってこられた松谷吉弘さんは仕事以外でもお母さんの介護など本当に充実した生涯でした。松谷吉弘さんが病魔に襲われ最近はライオンズ活動をするよりも病気に専念することが重要だと信じ、回復を望んでいました。9月7日午前4時松谷陽子さんから電話で訃報を聞きました。信じられない思い出一杯でした。長い間ご苦労さまでした。ほんとうにありがとうございました。
まだまだ当人の思いは道半ばの松谷吉弘さん。いろいろと心配、会社のこと、陽子さんのこと、ライオンズの事、悔いはあることと思いますが、陽子さんも社員の方も頑張っておられます。これからもご浄土より見守ってください。

ライオンズクラブ国際協会332-D地区ガバナーL.二瓶克雄 弔辞
松谷吉弘様の突然の訃報に接し、大変驚いています。
松谷様のご逝去に心からお悔やみ申し上げます。
ご家族の悲しみはいかばかりかと察しております。
2011年3月11日午後2時46分に発生した東日本大震災に、当地区332ーD地区にいち早く炊き出し支援、支援物資を実行していただいた時の中心的リーダーシップを発揮していただいたと聞いております。
震災時は当地区332-D地区は機縁避難地区を含め他ボランティア活動が自粛している中、勇気ある行動の中心的活動は大変だったと思います。ライオンズマンとして尊敬申し上げます。実際私どもも、初めての震災当時、地区活動、支援対応と初めてのことばかりで大変は当たり前、一生懸命「ライオンズ活動を行いました。そんな名、本当にありがとうございました。
332-D地区一同また、支援を受けた県民に代わり御礼と感謝の意を申し上げます。
本来であれば弔問に伺うべきところですが、当地区のガバナー公式訪問期間中とやむを得ない事情により、お別れの会に参列が叶わないため、こうしsて感謝の意を大槻美紀男ライオンに手紙と感謝のバナーを託した次第でございます。なにとぞご寛恕ください。
ご家族の皆様につきましては、御供養のためにもご自愛くださいませ。
略式ながら書中にて謹んで御冥福お祈り申しあげます。 合掌

ライオンズクラブ国際協会332-D地区第3R1Z
ゾーン・チェアパーソン L.高橋正二 弔辞
松谷さん謹んであなたの霊にお別れの言葉を申しあげます。
本来であればあなたの近くに参り、あなたにお別れのあいさつを申し上げたかったのですが、松谷さんが大好きで元気いっぱいに活動されてたライオンズクラブのこちら地区リジョンのガバナー公式訪問がありましていけません。ご活躍された松谷さんと皆さんでライオンズ活動のお話しができないことをお許しください。こちらの地で松谷さんを思っております。
あまりにも当然のあなたの悲報に接して、今、私はまだ気持ちの整理がつかずにいます。
こうしてあなたいお別れの言葉を述べなければならない。そのことがまず信じられません。
松谷さんあなたは今月が誕生月でしたよね?私が12月で同学年育った地は違えど・・・何か、幼い時より同じ一緒だった感じでお話ししていただきましたね。まだまだ、いっぱいお話ししたかったです。
松谷さん、あれは2011年10月頃でしたね。初めて富山 高岡へ当クラブと当地区へご支援した、そのお礼に当時と郡山ライオンズクラブ幹事を務めた関係で貴クラブへお礼に伺った時からのお付き合い、そして福島県郡山聾唖学校の生徒を招いていただき記念植樹、立山への招待・・・そして、お別れの際のインターチェンジでの3人の見送り、何よりも松谷さんが命一杯手を振ってた姿バスの中から生徒、父兄、教員の皆で感動のうれし泣きを今でも忘れません。私の大友人、大槻美紀男がZCを努めた年に知り合い、私がZCを努める年にお別れ・・・なんて皮肉でしょう。
そちらには松谷さんが大好きなライオンズ活動をされてた先輩がいますよね。そちらでいっぱい活動してください。ウィ・サーブで頑張ってください。・・・そんなあなたの思いと志は今も、私たちの心の中にしっかりと息づいています。そして、あなたというよき友を得た幸せを、私たちはきっとこの先忘れず生きていくでしょう。得難い思い出をたくさん残してくださって本当にありがつとう。どうぞ安らかに、安らかにお休みください。

高岡アラートライオンズクラブ所属L.松谷吉弘(チャーターメンバー)201697日未明逝去いたしました。本来ならば葬儀を執り行うところ、故人の希望により家族葬と致しました。ライオンズ関係者はもとより仕事関係者から是非、追悼式とのご意見があり、913日に執り行いました。その節は丁重なる御厚意頂戴いたし、感謝申しあげます。故 L.松谷吉弘は高岡アラートライオンズクラブ結成に於ける重責にあり、八面六臂の活躍は当クラブで永遠に記憶に残ることでしょう。三本の矢(結成時の重要な三人L.苗加康孝、L.板野吉秀、L.松谷吉弘)のことを当人達は三馬鹿と申しますが、三賢人であり三銃士であります。特に松谷吉弘なくして高岡アラートライオンズクラブはエクステンションありませんでした。その三本の矢の一本が折れたことは当クラブにとって大きな打撃であることは避けられません。しかし、彼のライオ二ズムは後輩のライオンズに敷衍されていることは間違いありません。徐々にL.松谷吉弘が考えていたクラブの形に成長している事が使命と考えています。失ったことの悲しみに耐え、故人の残したライオ二ズムを後世に繋げていくことを誓います。 燕昇司信夫 記


高岡アラートライオンズクラブ事務局


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