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52:草津

東海道を歩く (52:草津宿) 14km




(写真は、街道交流館の旅籠の食事)

宿泊している草津のビジネスホテルの前の辺りが、草津宿のスタート地点です。

それで、今朝はゆっくりと宿を出ます。

草津宿は、東海道と中山道の分岐点として栄えたそうです。

写真の左手(トンネルを抜ける道)が中山道、トンネルの手前を右手に進む道が東海道です。



従って、草津宿からゴールの三条大橋までは、東海道と中山道は共通の道です。



草津宿の名物は、創業以来430年の「姥が餅」(うばがもち)です。



織田信長に滅ぼされた六角家の曾孫を、密かに育てていた乳母(うば)が、生活のために草津で
餅を売ったのが始まりだそうです。

(12個入り460円)

でも、織田信長の残党狩りは厳しかったので、餅を売っていた乳母は命がけだったらしいです。

写真の様に、少しづつ形が違い、白アンのトッピングで、きゅうひを厚めのアンが取り囲んでいます。

贅沢にアンコ玉を食べている感じで、すごく美味しいです。

6個をペロリと食べてしましました。

写真の草津宿本陣は、ビジネスホテルの前の旧草津川(天井川)の川底のトンネルを抜けた所に
ありました。



草津宿本陣は、東海道では江戸時代のままで残っている唯一の本陣です。

玄関広間、上段の間、湯殿、台所土間など、当時のままです。

1,300坪の敷地に、470坪の建物という広大な旅籠です。

昭和24年に国から史跡として指定されるまで、本陣職の田中家が、江戸時代のままの本陣の建物を
維持していたそうです。

大名・公家の宿泊鑑札や、皇女和宮などの宿泊時の大福帳などが保存されています。



本陣内は、撮影禁止なので、上記の写真は本陣のガイド本に掲載されている大福帳です。

大福帳には、土方歳三の名前が見えます。

本来、本陣は大名の宿泊施設なので、新撰組なんぞは泊まれないハズですが・・・

でも館内の説明書によると、幕末で幕府の統制が緩んでいたのと、当時は新撰組の絶頂期で
金払いが良く、本陣にしてみれば大切なお客だったから、とありました。

館内の説明書には、もう一つ、面白い話が書いてありました。

それは、宮崎・佐土原藩のお殿様が、草津宿本陣で、宿泊中に急死した事件についてです。

佐土原藩は、未だ、後継ぎの届出を幕府に提出していなかったので、突然死が明るみになれば、
お家断絶になります。

そこで、国元へ急飛脚を出し、幕府の世継ぎ許可を得ようとします。

また江戸にも急飛脚を出し、病気のため草津宿にて療養中、と幕府に報告したそうです。

国元に急飛脚が着いたのが2週間後、幕府の許可がおりたのが、それから更に50日後でした。

その間、草津宿には、大勢の病気見舞いの方々が次々に押し寄せたそうです。

草津宿の本陣職は、お殿様の突然死を隠し通して、命がけで大切なお客様の佐土原藩を守ろう
とします。

もし、突然死の情報がどこからか漏れたら、隠し通そうとした本陣職は即刻打ち首となるため、
この間、次々に押し寄せる見舞客の対応、宿泊予定の大名の予約キャンセル等、必死だった
そうです。

本陣の裏には、その本陣職だった田中七佐衛門の子孫の人達が今も住んでいるそうです。

また、本陣の近くには、草津宿街道交流館があり、展示されている旅籠の食事のディスプレイや、
問屋場の立体ビジョン画面が面白いです。

(草津宿本陣と共通で320円)







写真は旅籠の食事で、右側が夕食、左側が朝食です。

本陣を出て、商店街となっている旧街道を進みます。

商店街を抜けて、住宅地を暫く歩いてゆくと、旅人ののどを潤していたという写真の「萩の玉川」跡
がありました。





旧街道は、写真の弁天池を右手に見ながら、有名な瀬田の唐橋を目指します!



松尾芭蕉も、「近江八景 瀬田の夕照(せきしょう)」と詠んだ有名な瀬田の唐橋です。



(平安時代に、藤原秀郷が瀬田の唐橋で退治した三上山の大ムカデ)

瀬田の唐橋、豊橋(2011.12.12:吉田宿)、矢作(やはぎ)橋(2011.12.30:岡崎宿)が、東海道
三大大橋です。

瀬田の唐橋は、残念ながら塗り替え中で、写真の様に緑のビニールシートで覆われています。



瀬田の唐橋は、近年、建て替えられましたが、橋の擬宝珠(ぎぼし)は、歴代受け継がれ、
昔のままだそうです。

擬宝珠だけでもと思って近づきましたが、擬宝珠も塗り替え中でした。 残念!



フェイタスZの効果が薄れはじめたのでしょうか、膝の痛みひどくなってきました。

瀬田の唐橋の公園で一休みして、膝痛の回復を待ちます。

瀬田の唐橋を渡ると、京阪・唐橋前駅を通り過ぎ、賑やかな商店街に入りました。





間もなく、大津宿の入口、膝の痛みで、本日はここまでが限界です。

草津宿から大津宿まで約14キロです。







「52:草津宿」



草津宿は、東海道と中山道の分岐点として栄えました。



草津宿の追分道標は、下の写真から読みとれる様に、
「左 中山道みのぢ(美濃路)、右 東海道いせみち (伊勢道)」とあります。



草津宿からゴールの三条大橋までは、東海道と中山道は共通の道です。



上の写真の「姥が餅屋」は、国道1号沿いに、姥が餅屋と、和菓子屋と、そば屋を
併設して営業しています。



(上の写真は、当時の「姥が餅屋」の看板)

一人旅のときに買って食べたら美味しかったので、また買って食べます。

下の写真の草津本陣に入ります。





草津宿本陣は、東海道では江戸時代のままで残っている唯一の本陣です。

玄関広間、上段の間、湯殿、台所土間など、当時のままです。

写真撮影は禁止ですが、説明の人の話しで、面白いのがありましたので、以下に
ご紹介します。

最近、本陣の解体修理を行ったところ、屋根裏に、大量の”カラタチのトゲ”が、
バラまかれているのが発見されたそうです。


これは、歴史的にも予想外の発見だったそうです。

忍者が屋根裏に潜むのを防ぐためだった、とのこと。

面白い!

上段の間の説明では、用心深いお殿様は、ふとんの下の床に鉄板を敷いて
寝ていたそうです。

これは、床下からだと、刀の刃が、床、畳、ふとんを貫いて身体まで達するから
だそうです。


安全なお城と違って、お殿様は、旅の途中は、命を狙われる危険があったんですね。

殺されたら、下手するとお家断絶ですものねえ・・・



(上段の間:「草津宿本陣」発行のガイドブック写真より)

また、風呂場では、屋外で沸かしたお湯を、湯殿に運び入れて使用していたそうです。

宿にある五右衛門風呂は、ヤケドをする危険があったため、お殿様の入浴は
禁止だったそうです。

ちなみに、お殿様は薄い着物を着て風呂に入っていたそうです。

なぜでしょう?

それは、万一、何者かに襲われた場合に、殿様たるもの、裸で逃げ出す訳には
いかない、からだそうです。

なるほどね〜!



(湯殿:「草津宿本陣」発行のガイドブック写真より)

(草津の町並み)







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