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甲州街道を歩く( 34:台ケ原)(山梨県北杜市)  2021.10.8





(写真は、1749年創業の銘酒「七賢」)




台ケ原宿は、本陣1、問屋1、旅籠14軒でした。


この地は、「高く平らにして台盤の如く」だったところから「台ケ原」と呼ばれました。

参勤交代の大名は、高島藩(諏訪)、高遠藩、飯田藩の3藩に限られていました。

しかし、1783年の浅間山の大噴火によって、中山道の浅間3宿(軽井沢、沓掛、追分)が壊滅してしまいます。

すると、甲州街道が中山道の迂回路となり、この間は、ここ台ケ原宿も大いに賑わいました。

現在、台ケ原宿の街並みは、建設省の「日本の道百選」に選ばれています。

 



台ケ原下の交差点で国道20号を横断して、上の写真の「日本の道百選 甲州街道 台ケ原宿」の大きな看板から右手に入って行くと、
左手に下の写真の「石祠 道祖神」が祀られています。






更に進むと上の写真の白州味噌の「永楽屋」と、下の写真のその白州味噌の「織田家」の立派な長塀です。





上の写真は、「信濃屋(旧造り酒屋)」です。



その先は、上の写真の白州手打ち蕎麦の「くぼ田」ですが、その手前右手に下の写真の「立場跡・共同 井戸跡」の解説板があります。



ここには建坪四十二坪の掛茶屋があり、井戸がありました。

井戸は共同で維持管理し、数戸から十数戸で利用しました。



直ぐに上の写真の十字路がありますが、十字路手前の左手には下の写真の「台ケ原宿解説」板と「名水百選の里水飲み場」があります。





この台ケ原宿解説板の辺りが、台ケ原宿の東口でした。

この十字路を越した辺りに、台ケ原宿の宿場の機能が集中していました。



右手に上の写真の「旧小松家(本陣)屋敷」跡があり、塀の前に常夜燈が建っています。

台ケ原宿は、度々、火災に見舞われたので、防火を願って、1867年に、この秋葉大権現の常夜燈が建立されました。





本陣の向いが上の写真の「宮川 脇本陣跡」です。



更に進むと、右手に火の見ヤグラがありますが、その裏は、下の写真の甲州街道台ケ原宿の「ふれあい休憩所」になっています。





この休憩所の向いが上の写真の「高札場跡」で、その隣が下の写真の「問屋場」跡です。

 

問屋場には、25人の人足と25匹の馬が用意されていました。

大規模な大名行列のためそれでも足りない場合には、近隣の「助郷」(注)が動員されました。

(注)助郷:問屋場の常備の人馬では不足する場合、その補充のために近隣の村々に課された役務。

問屋場の並びには、非常時に備えて、囲い籾(もみ)を備蓄した「郷倉」もありました。



問屋場の向いで、大きな杉玉が吊り下るのは、1749年創業の銘酒「七賢」の蔵元の「北原家」です。



北原家の先祖は、高遠の出身で、高遠藩の御用商人も勤めました。

その関係で、北原家は、高遠城主から竹林七賢(ちくりんしちけん)の欄間を拝領したので、以来、銘酒を「七賢」と称しました。

七賢とは、三国志の時代に、中国河内郡の竹林で、酒を飲みながら政談を行った七人の賢人のことです。













北原家は、脇本陣も兼ねていましたが、明治時代に入ると北原銀行を開業しました。



また、明治13年の明治天皇本県巡幸の際には行在所になりました。



銘酒・七賢の向いには、明治35創業の「元祖・信玄餅」の老舗「金精軒」があります。

金精軒の建物は、1852年に建てられた江戸時代の旅籠です。

  

金精軒で、上の写真の「生 信玄餅」(5個920円)を買いましたが、生の信玄餅は日持ちがしないので、お土産用に下の写真の
普通の信玄餅(4個670円)も買いました。


 





金精軒を出て先へ進むと、石垣と石段がありますが、ここは、明治24年に開庁された登記所の跡です。





右手の一段高い所に田中神社があります。







少し先の左手に、上の写真の「諸国旅人御宿 鶴屋」があります。



この旅籠鶴屋の隣に新築された上の写真の「つるや旅館」がありますが、インターネットで検索すると、甲州街道を歩いている人は、
この新館で1泊する人が多いみたいです。


このつる屋旅館の辺りが、台ケ原宿の西口でした。


 

 


「台ケ原宿」から次の「教来石(きょうらいし)宿」までの約6キロは、ほんの一部のみ騒音と排ガスの国道20号を歩きますが、
大部分は雰囲気のある旧甲州街道です。


秋晴れのもと、快適で長閑な田舎道のウォーキングのスタートです! 



台ケ原宿を抜けて少し歩くと、上の写真の白州町消防団の火の見ヤグラがあります。



この火の見ヤグラの角を右折して少し進むと、下の写真のなまこ壁土蔵の「旧名主宅」が見えて来ます。









更に進み、緩い坂を下って行くと「白須 上」に入ります。





街道沿いには、七里岩の景観が広がります。



やがて、右手のぶどう畑の中に、下の写真の「武田神社」がありました。



鳥居の奥には、石祠がたくさん並んでいます。





(野良仕事のおばさんと間違えて、案山子に挨拶しそうになりました・・・





白須上から「前沢」に入ります。



更に進むと、右手木立の中に下の写真の「石仏石塔群」があります。





1839年建立の馬頭観音像や、1855年建立の馬頭観世音文字塔もありました。



その向いには、髯文字で南無妙法蓮華経と刻まれた上の写真の「題目碑」があります。



更に進むと、写真の「御嶽神社」の鳥居がありますが、辺りに本殿は見当たりません。





旧甲州街道は、やがて「前沢上交差点」で国道20号に突き当たるので、ここをを右折して少しだけ国道20号を歩きます。



「神宮川」を「濁川橋」で渡ります。



「神宮川」は、以前は「濁川」という名称でしたが、この濁川の下流には、サントリーの白須ウイスキー工場があり、
濁川ではイメージが悪いと変更に尽力したらしいです。




少し進んで、「県営白州団地入口バス停」の先のY字路で、国道20号から分かれて右の旧道に入ります。



旧道を進むと、南無妙法蓮華経の文字が刻まれた下の写真の「七面大明神」の題目碑があります。(1725年建立)



七面大明神(しちめん だいみょうじん)は、七面天女とも呼ばれ、日蓮宗の法華経を守護する女神です。

更に進むと、石尊神社の南口にあたる場所に設置された下の写真の「石尊大権現常夜燈」があります。





この常夜燈の向いには上の写真の「般若堂」があります。

説明版によると、この般若堂には、大乗仏教の心髄を説いた般若心経(はんにゃしんぎょう)が安置してあるそうです。

また、この般若堂の前の地図を見ると、旧街道をここで左折して真っ直ぐに歩いて行けば、サントリーの白州工場(赤丸印)に行けそうです。









やがて荒田地区に入り、「松山沢川」を松山沢川橋で渡ります。 





更に進んで「流川」を流川橋で渡ります。 

流川橋は、江戸時代には板橋でした。

この橋を渡ると白州町「下教来石」に入ります。



ここが「教来石(きょうらいし)宿」の東口(江戸口)で、江戸時代には枡形がありました。

「教来石宿」に到着です!

台ケ原宿から教来石宿までは約6キロです。



下教来石下から路線バスに乗り、終点の韮崎駅で下車します。





駅のホームで、「甲州Wワイン駅弁」(1,100円)を買って、韮崎駅から特急列車に乗り、駅弁を食べながら、八王子経由で新横浜に帰りました。