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甲州街道を歩く(29:勝沼)(山梨県甲州市) 2021.6.23




(写真は、甲州街道沿いのブドウ園)


「勝沼宿」は、甲府盆地の東の端に位置し、江戸時代には物資集積の地として栄え、市が立ち大いに賑わいました。


本陣1、脇本陣2、旅籠23軒でした。



 



勝沼宿に入ると直ぐ左手には、上の写真のワイン民宿の鈴木園があります。


昼食時になったので、ワイン民宿の庭で出しているワイン付きのランチを食べようと思ったのですが、残念ながらコロナ禍で休業中でした。 

ワイン民宿から先の街道沿いには、ブドウ園が延々と続きます。













ここ勝沼には、約130軒ものブドウ園があるそうですが、街道沿いのブドウ園は、頑丈な鉄骨の枠を組み、その上にブドウの枝を這わせています。

その鉄骨の枠の下の広い空き地は、観光客用の駐車場になっています。



更に歩いて行くと、右手の「上行寺」の参道口に、「日蓮聖人 投宿之地」と刻まれた真新しい石碑と、1805年建立の「南無妙法蓮華経」の
2基の題目碑が建っていました。


 



街道の左手には、写真の「勝沼氏館跡」があります。





この辺りを支配していた「勝沼氏」は、「武田信玄」の父である「武田信虎」の弟の「勝沼信友」の一族で、「武田軍団」の一翼を担っていました。

1560年、越後国の「上杉謙信」は、甲斐国に進行する際、調略により、この地の「勝沼信友」を密かに寝返らせました。

しかし、謀反の証拠となる文書が見つかってしまい、「勝沼氏」は「武田信玄」に滅ぼされました。

この館跡に、武田信玄によって殺された勝沼信友の娘の「理慶尼(りけいに)」によって、勝沼氏の供養地蔵が造立されたそうです。

(大善寺の境内にある理慶尼の墓については、「甲州街道を歩く:鶴瀬宿から勝沼宿へB」を見てね。) 

                                                                                                 



現在は、この地蔵を復活した真新しい「勝沼氏供養地蔵」が建っています。(上の写真の右端)

 



勝沼氏館跡を出て勝沼上町に入ると、右手に上の写真の「勝沼宿本陣跡」(池田屋)があり、その脇に「槍掛けの松」が残っています。




大名が本陣に宿泊した際に、その目印に槍を立て掛けたのがこの「槍掛けの松」だそうです。



本陣跡の隣には「脇本陣跡」の標柱が建っています。





少し歩いて勝沼仲町に入ると、左手に格子戸が美しい写真の「仲松屋」があります。

仲松屋は江戸時代後期の商家建築です。




 

仲松屋の隣は、江戸時代の豪商だった上の写真の「萩原家」です。

白壁の土蔵が美しい萩原家は質屋業で財を成しました。



少し進むと、右手に、福嶋屋薬局の珍しい「3階建ての土蔵」(地下1階・地上3階)があります。



少し先の右手には、上の写真の「旧田中銀行社屋」(国登録有形文化財)があります。

明治30年代前半に、勝沼郵便局の電信局舎として建てられ、大正9年から昭和7年頃まで「山梨田中銀行」の社屋として利用されました。

 

 





 


 

 



勝沼宿を進んで行くと、右手に「勝沼小学校」があります。




勝沼小学校の校門の脇には、下の写真の「勝沼学校跡」の碑がありました。




この碑に刻まれた説明文によると、明治13年の明治天皇の山梨巡行の際、ここにあった勝沼学校校舎が行在所(宿所)となりました。

この碑の脇には、下の写真の「明治天皇勝沼行在所碑」がありました。





また、校門の左手には、上の写真の左側の「ようあん坂」の標柱があります。

標柱の説明には、「勝沼宿内で最も急な坂だが、坂の名前の由来は、一説によると、天野養庵という人の屋敷が近くにあったため」と記されています。

「ようあん坂」の標柱の右側には、「海抜四〇〇米」の標石があります。

 



更に宿場町を歩いて行くと、左手に写真の「護念寺」がありました。







境内の墓地には、「柏尾の戦い」で、官軍方でただ1人戦死した「因幡藩士・木村伊助武則」の墓がありました。

板垣退助が率いる官軍は、因幡(いなば)藩(鳥取県)、諏訪藩、土佐藩で構成されていました。

官軍の死者が1人だけだったのは、「柏尾の戦い」が一方的な戦いだったからです。

近藤勇の率いる甲陽鎮撫隊(新選組)は、抜刀戦に強い新選組70人と、農民約200人の混成部隊でした。

農民たちは、支給されたミニエー銃の扱いに不慣れなうえに、大砲の弾を逆に装填して撃ってしまう等、お粗末で一方的な戦いになってしまいました。

一方、板垣退助の率いる官軍は、洋式兵法に精通していました。

近代式戦闘に不慣れな甲陽鎮撫隊は、激しい銃弾を浴びて、僅か2時間で壊滅し、ほとんどの農民兵は戦闘を放棄して脱走してしまいました・・・

当初、近藤勇の率いる甲陽鎮撫隊は、甲府方面の官軍を迎撃するための軍資金として、幕府から5,000両も支給されました。 

5,000両もの大金を手にした甲陽鎮撫隊は、気が大きくなり、甲府へ向かう際には、豪遊しながら行軍しました。   

江戸城の無血開城を企てていた勝海舟は、その妨げとなる新選組に大金を与えて、体よく甲府方面に追い払ったのではないでしょうかね・・・

(「柏尾の戦い」については、「甲州街道を歩く・ 28-4:鶴瀬から勝沼へA」を見てね。)

(「甲陽鎮撫(新選組)」の近藤勇については、「甲州街道を歩く: 日野 猿橋大月」を見てね。) 

     

  

国道411号(旧甲州街道)を進むと、左手の整骨院の前に写真の「地蔵尊」ありました。







更に進むと、上の写真の1809年建立の「秋葉山常夜燈」があり、その横には下の写真の「丸石道祖神」が祀られています。



「等々力」の信号を渡ります。





右手の奥に、ここ等々力の守り神の「諏訪神社」があります。





境内のケヤキは、推定樹齢300年です。

少し進むと、下の写真の古民家を利用した「ほうとう」で有名な「皆吉」(みなき)があります。



お昼過ぎでお腹が空いたので、ここで「山梨名物・ほうとう」を食べようと楽しみにしていたのですが、お店が閉まっています?  

またまたコロナのため休館かと思って近づいてみると、定休日でした!

お腹が空いた〜ょ!





皆吉の先には写真の「地蔵堂」があり、「延命地蔵尊」が安置されています。





地蔵堂の前には、1830年建立の「常夜燈」と、「丸石道祖神」が並んでいます。





この辺りも、ブドウ園が延々と続きます。 























国道411号を更に進むと、右手に上の写真の「白百合醸造ロリアンワイン」があり、ワイン工場の見学や試飲が出来ますが、ここも、
またまたコロナのため休館中でした・・・


しかし、よく見ると、何となく見覚えのある風景だと思ったら、ずっと以前に家族連れでこの工場を見学に来ていました。



上の写真はそのときに工場内を撮影したものです。



甲州市から山梨市に入ります。

 

上の写真の上栗原交差点の辺りから、次の「栗原宿」が始まります。

勝沼宿から栗原宿までは約3キロです。

 

28:鶴瀬へ

30:栗原へ