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甲州街道を歩く( 15:鶴川)(山梨県上野原市) 4km   2020.11.24




(写真は、鶴川宿の町並み)

 



甲州街道の「上野原宿」を出て、「鶴川」を「鶴川橋」で渡ると「鶴川宿」です。 





“人足による川越”が行われていた「鶴川の渡し」が、現在の鶴川橋の少し下流にありました。 

「鶴川」は、甲州街道で唯一の「川越(かわこし)河川」で、増水期には「川越(かわこし)人足」を置いて、川越賃銭を
徴収していました。

また、冬の渇水期には、仮橋を架けて、橋銭を徴収していました。

甲州街道には、鶴川以外にも笛吹川等の橋のない川は数カ所ありましたが、これらの川は全て渡船で、鶴川が唯一の
川越河川でした。

 

旅人は鶴川の番所を手形で通過できても、川越ではそうはいかず、番所役人よりも川越人足の方が怖かったそうです。

甲州街道は、人通りが少ないため、川越人足の収入は少なく、生活の苦しさから、他国の旅人から大金を強請する事が
多々ありました。

更に大きな事件になってしまった例もあり、特に有名なのは、歌舞伎の団十郎一座が、川越人足によって川に
突き落とされたというエピソードです。

もっとも、この話にはオチがあり、団十郎の祖先が武田氏に仕えていたのに対し、川越し人足の祖先は、武田勝頼を裏切った
小山田氏の家臣だったから、というものです。

 

「鶴川宿」は、本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠8軒でした。

鶴川は都留川とも書かれ、鮎が名物でした。

鶴川宿は、小さな宿場町でしたが、鶴川が川留めになると、大いに賑わいました。


鶴川を渡り、「鶴川宿」に入ります。



宿場町の入口に、写真の「鶴川宿碑」 がありました。



先に進むと、上の写真の1688年建立の「萬霊塔」があります。

萬霊塔は、人も獣も広く生あるものの霊を祀るための塔です。



宿場町の左手には、写真の1661年創建の鶴川村の鎮守の「牛頭天王社」がありました。



宿場の中心部分には、上の写真の問屋も兼ねていたという「柏屋脇本陣」跡があります。



その隣りは、上の写真の「旅籠澤田屋」跡です。



上の写真のは、「加藤家・問屋場」跡です。

以下は、宿場町の町並みです。

江戸時代の古い民家は残っていませんが、新築の家も宿場町の調和を保った造りで、町並み全体が落ち着いた雰囲気です。























宿場町の端に、「富田本陣」があったそうですが、現在は上の写真の「老人ホーム・あいらーく鶴川宿」になっています。



この辺りが、宿場町の西の枡形で、街道は直角に曲がり、左折します。



その先は、「旧甲州街道(大月・甲府方面)」の標識に従って、次の野田尻宿を目指して、坂を上って行きます。 

 







やがて、Y字路の分岐点があり、これを右折すると、下の写真の古い蔵がありました。 









更に、竹林や雑木の中の緩やかな上り坂を進んで行きます。 









やがて、道は緩やかな下り坂になり、中央高速の側道に出ました。 







その側道を暫く進むと、左手に「鳶(とび)ケ崎橋」があり、この橋で中央高速を跨ぎます。





鳶ケ崎橋を渡り、急な上り坂を進んで行くと、左手に下の写真の「大椚(おおくぬぎ)一里塚」跡碑がありました。

日本橋から数えて19里目(76キロ)です。







大椚一里塚から、更に、緩やかな上り坂を進んで行くと、下の写真の1800年建立の「廿三夜(にじゅうさんや)塔」(注)がありました。

 (注)廿三夜塔:月を信仰の対象として、「講中」といわれる仲間が集まり、悪霊を追い払うために、陰暦の23日の夜に、
月待ちをする行事。(二十三夜待ち)

         当日の夜は、お経を唱え、飲み食いや雑談をして夜更かしし、月の出を拝みました。

         その供養を行った記念として建てられたのが、下の写真の「廿三夜塔」で、月待塔(つきまちとう)とも呼ばれました。





廿三夜塔から、更に、緩やかな上り坂を進みます。 

















緩やかな上り坂の左手に、上の写真の「大椚(おおくぬぎ)宿 発祥の地」の朽ちた木の標柱がありました。

大椚宿は、前の鶴川宿と次の野田尻宿との中間に位置する「間の宿」(あいのしゅく) でした。

「大椚宿発祥の地」の標柱の右横にあるのは、1777年建立の「秋葉山常夜燈」です。



大椚宿発祥の地標柱から、更に、緩やかな上り坂を進みます。 









緩やかな上り坂を進んで行くと、左手に写真の「大椚(おおくぬぎ)観音堂」がありました。





観音堂の境内には、写真の「廿三夜塔」(注:前述)などの石塔がたくさん並べられていました。







観音堂の境内の奥には、上の写真の「吾妻(あずま)神社」がありました。

案内板によると、神社の境内にあった大椚(おおくぬぎ)が地名の由来でしたが、残念ながら枯れてしまったそうです。



大椚観音堂を出て、緩やかな下り坂を進みます。 









やがて、緩やかな下り坂は、中央高速に沿った道になりました。 









やがて、中央高速沿いの道の左手の小公園に、下の写真の「古池や かわず飛びこむ 水の音」の
「芭蕉句碑」がありました。



案内板によると、この小公園の東側に「濁り池」、更にその北西に「殿の井戸」があったそうです。

ただし、芭蕉の上の句の古池は、この「濁り池」とは直接の関係はなさそうです。

この「濁り池」は、中央高速の建設の際に埋められたそうです。



芭蕉句碑の横に上の写真の「長峰砦跡」の碑がありました。



案内板によると、武田信玄は、甲斐の国(山梨県)の東口を北条氏の侵略から防衛するために、この地に
「長峰砦」(中世の山城)を築いたそうです。

この地は、甲斐・武蔵・相模三国が国境を接する地なので、“境目の城”と呼ばれました。

この「長峰砦」跡は、中央高速の建設工事の際の発掘調査によって、郭、堀切、横堀の跡が発見されましたが、
この史跡も、工事完成時に埋め戻されました。



小公園から先に進んで、写真の「新栗原橋」で、中央高速を跨ぎます。









新栗原橋を渡ってから、坂道を下って行くと、切通しの間から、先方に集落が見えて来ました。 



あの集落が次の宿場町の「野田尻宿」の様です。


鶴川宿から野田尻宿までは約 4キロです。

 

 



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