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甲州街道を歩く( 13:関野)(神奈川県相模原市) 2020.11.19



(写真は、突然現れた「イノシシ いるぞ!」の看板)

 



ダンプ等の交通量が多くて、歩道の無い国道20号を歩いて行くと、やがて右手に上の写真のJR中央本線「藤野(ふじの)駅」がありました。


藤野駅前の交差点の先の左手の石段を下り、長い坂道を下りて行きます。 


その先の下り坂の途中で、「相模川」に架かる「弁天橋」が微かに見えたので、ちょっとだけ寄り道して、弁天橋の上に立ってみます。











橋の上からは、マス釣りでしょうか?、沢山の釣り船が相模川に浮かんでいます。 

気持ちいい!



弁天橋から旧甲州街道に戻り、歩き続けます。 



暫く歩くと、旧甲州街道は、個人のお宅の脇で、いきなり行き止まりになりました。

その先は、狭くて怪しげな土の道です?

白い車が駐車しているお宅の敷地内の個人所有の道の様にも見えますが・・・




そして、その土の道の入口には、写真の「イノシシ いるぞ!」の看板が!


旧甲州街道を気持ちよく歩いているところに、突然、「イノシシ いるぞ!」と言われても、こちらは、未だ心の準備が・・・ 

それに、ホントに、この狭くて怪しげな道が旧甲州街道なの?・・・



そうは言っても、先に進むしかありません。 











この怪しげな道を暫く進んで行くと、やがて舗装の上り坂の道となり、JR中央本線沿いの道になりました。 

やれやれ・・・









跨線橋でJR中央本線を跨ぎます。



跨線橋を渡り、その先の空地を抜けると、国道20号に突当りました。



国道20号を左折したところが「関野宿」でした。

国道沿いに写真の「関野本陣跡」の解説板があります。





解説板が逆向きだったので(上の写真の赤色丸印)、見過ごして通り過ぎそうになりました・・・

解説板によると、関野宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠3軒で、中村家が本陣を勤めました。

相模の国(神奈川県)と甲斐の国(山梨県)との国境を控える宿場町でした。

関野宿の先には、国境の「諏訪番所」があったので、相模の国の最後の宿でした。



上の写真は、関野宿の中心部の家並みですが、明治21年とその後の2度の火災で完全に焼失してしまったので、当時の面影は全く残っていません。



宿場町の外れに写真の曹洞宗「増珠寺」があります。



増珠寺の参道の階段の脇には、上の写真の様に、1781年建立の「庚申塔」と、力士の追手風喜太郎が1829年に建立した「安昌久全信士(追手風小太郎)碑」がありました。



上の写真の追手風喜太郎についての説明版によると、喜太郎は、ここ関野の生まれで、大関まで昇進しました。

ここ増珠寺には、喜太郎が寄贈した五具足や燭台などがあるそうです。

関野宿の外れの増珠寺から、次の上野原宿へ向かいます。




藤野町小渕歩道橋の先を、斜め右の上り坂の道に入ります。 



その上り坂の先で、下の写真のY字路を斜め左の下り坂に進みます。 









更に、坂道を下り、国道20号に合流します。 







国道20号の左側の歩道を、左手に相模川を見ながら下って行きます。







上の写真の名倉入口の交差点を、左の下り坂に進みます。 



坂を下って行くと、分岐点に上の写真の甲州古道「下小渕下」標柱がありました。 



甲州古道標柱に従って坂を下って行きます。 





更に、下り坂を進み、「境沢」を「境沢橋」で渡ります。





「境沢」(境川)は、相模の国(神奈川県)と甲斐の国(山梨県)との国境の川です。

江戸時代には、「境沢橋」(境橋)は、国境に架かる長さ9メートルの土橋でした。



境沢橋を渡り、下の写真のヘアピン状の道を右折します。







その先は、ヘアピンカーブが延々と続く、つづら折りの急な上り坂でした。











   







長かったヘアピンカーブを過ぎると、眼下に相模川の眺望が広がります。





更に、ヘアピンカーブの坂を上って行くと、右手の石垣の上に「諏訪関跡」碑が見えました。



案内板によると、「諏訪関」は、甲斐の武田氏が設置した「甲斐24関」の一つで、相模国(神奈川県)と甲斐国(山梨県)の国境にありました。





江戸時代に入ると、境川番所とも呼ばれ、江戸への出入りの取り締まりを行っていました。

この番所の屋敷は、大変立派なものだったそうで、明治天皇の巡幸の際の小休所にもなりました。

更に、この番所屋敷は、明治17年に「渋沢栄一」によって買い取られ、東京の飛鳥山の別荘として移築された、とあります。

驚き!

あの「渋沢栄一」が、この武田氏の関所の番所屋敷を買い取って自分の別荘にしたなんて、知らなかったなあ〜!

しかし、飛鳥山の別荘として移築されたその後、この建物は小泉策太郎という人に転売され、それ以降、どうなったかは不明、とあります。

これほどの建物が不明って、どういうことなんだろう?

(渋沢栄一については、「谷中霊園散策」を見てね。)



諏訪関跡からしばらく進むと、上の写真の日蓮宗「船守寺」(ふなもりじ)の並びに、下の写真の「諏訪神社」がありました。



この地を支配した古郡(ふるごうり)氏が、長野の諏訪神社に勧請(かんじょう)して分霊を迎えところから、古郡神社とも呼ばれたそうです。





更に進むと、油屋の表札を掲げた上の写真の旧家があり、その先に、下の写真の旧甲州街道の大きな石碑が あります。



碑には「あいさつをかわす思いやりの道、昔をしのぶ思いでの道」と刻まれています。



その先の諏訪橋で中央高速を跨ぐと、右手に1661年創建の「疱瘡(ほうそう)神社」がありました。





疱瘡(ほうそう、天然痘)は、当時、鬼神の仕業(しわざ)と恐れられていたので、三月と十二月の祭礼は参詣者で賑わったそうです。



この疱瘡神社の裏手には、私有地なので近づけませんでしたが、「塚場の一里塚」の片塚が残っていました。



塚木はモミの木だったそうで、江戸日本橋から数えて18里目(72キロ) です。



旧甲州街道は、上野原の町に入り、新町交差点で右からの国道20号に合流します。

この合流地点辺りが「上野原宿」の東口です。

もう「上野原宿」に入りました。



今日は、この先の新町二丁目の交差点を左折して、JR上野原駅から、八王子駅経由で新横浜駅に帰ります。




「関野宿」から「上野原宿」までは約4キロです。