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甲州街道を歩く ( 07:八王子 ) 8km 2020.10.27




(写真は、八王子宿の街道沿いに点在する蔵を活用した店舗)

以前にもご説明した様に、江戸城に危難が迫った際、将軍は、服部半蔵の手引きで、江戸城の半蔵門から甲州街道に
入り、内藤新宿で「百人組鉄砲隊」、八王子で「千人同心」を従えて甲府城に入る手筈でした。

「八王子千人同心」は、八王子の甲州街道筋に住んで、江戸の西の守りを固めていましたが、江戸時代の長い泰平の世が
続くと、役割が「日光東照宮の火の番」に変わっていきました。


八王子は、戦国時代は城下町として、江戸時代は宿場町として栄えてきました。

八王子宿は、本陣二2、脇本陣3、問屋2、旅籠34軒と、甲州街道で最も大きな宿場町でした。



「司馬遼太郎」の「燃えよ剣 」では、「八王子宿」について以下の様に描いています。

「八王子宿は、甲州街道きっての大宿場で、西に向かって長く、小宿に分けると十五宿に分かれる。

 その小宿を、横山、八日市、八幡、八木と歩き、武家屋敷の並ぶ千人町まで来たときには、すでに陽も高くなっていた。」

 

 



日野市から八王子市に入ります。



八王子市に入ると、甲州街道(国道20号)沿いに、写真の様な見事な銀杏並木が続き、快適なウォーキングです。 



立派な門構えの旧家が点在します。





上の写真は、和田町の現甲州街道と旧甲州街道の分岐点で、左側の細い道が旧甲州街道です。



この辺りの旧甲州街道は、何となく昔の雰囲気が残っています。

その細い旧甲州街道を暫く歩くと、浅川に架かる大和田橋に突き当たるので、この橋を渡ります。





江戸時代には、ここに「大和田の渡し」がありました。

橋を渡り、旧甲州街道の細い道に入って進んで行くと、右手の竹の鼻公園の前に、日本橋から12里目(48キロ)の
「竹の鼻一里塚跡」碑があります。





更に進んで、突当りのマンションの前を左折しますが、ここが八王子宿に入る前の「枡形」です。

少し歩くと、八王子駅入口東の交差点の先の右手に、下の写真の「市守大鳥神社」があります。





この「市守大鳥神社」が、八王子宿の東口で、江戸時代には、ここには木戸がありました。

毎年十一月の酉の日に大鷲(おおとり)祭が行われますが、私が訪れたときは、多くの露天商が、この大鷲の準備中でした。



少し歩くと、街道の左手の奥が上の写真の八王子駅で、その先が横山町交差点です。



横山町交差点の脇の上の写真の「横山町郵便局」の辺りには、横山宿の本陣、脇本陣、問屋場があり、八王子宿の中心
でした。



この辺りには、宿場町の面影を残す店舗や蔵が点在しています。







「司馬遼太郎」の「燃えよ剣」では、ここ「横山町」での新選組に対する官軍の探索の様子について以下の様に描いています。

「板垣退助の率いる東山道部隊が、甲州勝沼で新選組を破ったあと、甲州街道を進撃し、武州八王子の宿に入り、同宿の
横山町の旅館・柳瀬屋を板垣退助の本営として、敗敵の捜索を行った。

 このあたりは新選組の発祥の地だということは、官軍の常識になっている。

 土方歳三の義兄の佐藤彦五郎の息子の源之助は捕えられ、近藤勇の潜伏先について、八王子の本営で厳しい取調べを
受けた。

横山町から、かつて八日市宿のあった八日町に入ります。



写真は「八日市宿跡碑」です。

八日市宿から八幡宿(八幡町)、八木町と進みます。



前方に「陣馬街道追分」(追分交差点)が見えてきました。

陣馬街道は、甲州裏街道または甲州脇街道とも呼ばれ、この追分交差点から、神奈川県相模原に通じていました。



歩道橋の上からの写真ですが、旧甲州街道は左側の道です。



写真は、この追分交差点にある「追分古道標」で、「左 甲州道中 高尾山道 右 あんげ道」と刻まれています。

「あんげ」とは、武州の案下(あんげ)のことで、現在の八王子のことです。

かつて、「陣馬街道」は「あんげ道」とも呼ばれていました。

 

写真は、追分古道標の先にある「千人町記念碑」です。

ここ千人町には、千人同心の小人頭10人と、それぞれの小人(同心)約100人が、拝領屋敷を与えられていました。



甲斐の武田信玄が病死し、その子勝頼が滅ぼされた後、武田の遺臣達は、家康の指揮下に入りました。

千人同心は、甲斐の武田氏の家臣たちを母体とした、半士半農の武士集団で、甲州口の抑えとして、江戸の西を守って
いました。



写真は、「興岳寺」の境内にある「石坂弥次右衛門 顕彰碑」です。



石坂弥次右衛門は、幕末の千人同心の頭で、日光勤番として、家康を祀る日光東照軍を護っていました。

戊辰戦争の際、日光山に立て籠もった幕府軍と、これを攻める官軍の間に入って交渉し、日光東照宮での戦闘を未然に
防いで、戦火から守りました。

しかし、石坂弥次右衛門は、その功績にも拘わらず、官軍と一戦も交えなかった責任を問われ切腹しました。