本文へジャンプ
甲州街道を歩く ( 04:布田五ヶ宿 ) 2020.10.13




(写真は、西光寺にある新撰組局長・近藤勇の像)

「布田五ヶ宿」(ふだごしゅく)は、国領・下布田・上布田・下石原・上石原の5宿が、6日交代で勤める
「合宿(あいじゅく)」でした。

本陣、脇本陣は無く、旅籠9軒がありました。

これまで五街道を歩いて来ましたが、本陣・脇本陣が無く、6日毎に宿場町が変わる宿場町なんて聞いたことがないし、
どういう運営実態だったのか、どうもイメージが湧きません?

ちなみに、我が町内のゴミ置き場の掃除当番は、6日交代ではなく7日交代です・・・関係ないか・・・?

幕末には、幕府の長州征伐に際して、布田五ヶ宿に割り当てられた拠出金の5千両が払えず、新たに、遊女屋30軒と
遊女100人の許可を得て、ここから割り当てられた拠出金を捻出するという、裏技も発揮していた不思議な宿場町です。

 

 



野川に架かる馬橋を渡ると、 旧甲州街道は、調布警察署の先で、甲州街道(国道20号)から分かれて、「布田五ケ宿」(ふだごしゅく)
へと入って行きます。



布田五ヶ宿の最初の宿は「国領(こくりょう)」宿です。



旧甲州街道に入ると、旧街道を彷彿とさせる独特のカーブの先の祠の中に、だいぶ剥げ落ちた下の写真の1798年建立の
「青面金剛(しょうめんこんごう)像」がありました。



その青面金剛像の先に、下の写真の「常性寺」があります。



常性寺は、鎌倉時代に創建された由緒ある寺院で、不動堂には、成田山不動尊を勧請した不動明王が祀られていて、
「調布のお不動さん」と呼ばれているそうです。



常性寺から更に進むと、写真の「蓮慶寺」があり、寺の左側に、写真の「赤門」が残っています。



蓮慶寺は、徳川家光から、歴代将軍の菩提を弔う御朱印寺として「赤門」が許されたそうで、正門は
三つ葉葵の紋がありました。





 

布田五ヶ宿の2番目の「下布田」宿に入り、更に3番目の「上布田」宿へと進みます。



(茅葺のポスト)



旧甲州街道の右手には、上の写真の「天神商店街」が続き、そのずっと奥に「布多(ふだ)天神社」がありました。



布多天神社は、927年の創建で、この地の長者が、布多天神のお告げにより、木綿織りを習得して、この布を朝廷に
献上したそうです。



    

上の写真の布多天神社の狛犬は、1796年の建立です。



布多天神社から旧甲州街道に戻り、更に進むと、日本橋から6里目(24キロ)の上の写真の「小島の一里塚跡」があました。



説明版によると、この一里塚は、樹齢200年の榎でしたが、危険防止のために昭和40年に伐採されたそうです。

一里塚跡の先に、下の写真の「常演寺」があります。





常演寺の門前には、上の写真の地蔵祠と、下の写真の1850建立の常夜燈がありました。


 

常演寺を出て、布田五ヶ宿の4番目の宿の「下石原」宿に入りました。



少し歩くと、写真の「源正寺」があり、参道口には、1783年建立の下の写真の日本廻国供養塔がありました。

廻国とは、全国66ヶ国の著名な寺社に、法華経などのお経を一部ずつ納めながら巡礼することです。





街道沿いには、写真の様に、やたらと「新選組の近藤勇」の旗が目立ちます。



更に歩いて西調布駅の辺りを過ぎると、徳川家光から御朱印地を与えられた「西光寺」があり、山門の脇に
「新撰組局長の近藤勇の坐像」がありました。



    

「近藤勇」は、1834年、ここ多摩郡の上石原村で、富農の息子として生まれました。


  
1868年、近藤勇は、徳川慶喜から許された大名格になり、甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)を編成して、ここから甲州街道を
甲府に向かって出陣しました。

説明版によると、地元の「近藤勇と新選組の会」が、近藤勇没後130年を記念して、ゆかりの地である西光寺に座像を建立したそうです。

その後の近藤勇の活躍は皆さんご存じの通りですが、最後は、1868年、中山道の板橋宿の近くの刑場で斬首されました。

 

西光寺を出て、布田五ヶ宿の5番目の宿の「上石原」宿に入りました。



中央拘束の高架をくぐると、その先に、上の写真の長〜い「黒塀の旧家」の塀が続きますが、多分、
この辺りの名家なのでしょうね。



更に歩いて、飛田給(とびたきゅう)駅の辺りを過ぎたところに写真の「飛田給薬師堂」がありました。



薬師堂の境内には、仙台藩の御殿医の松前意仙が、諸国遍歴の末に、1686年、薬師如来像を彫り上げて、墓穴を掘り、
自ら入定し成仏したという上の写真の「行人塚」がありました。

薬師堂の中には、この薬師如来像が安置されているそうです。

少し歩くと、次の宿場町の「府中宿」がある「府中市」に入りました。