(写真は、最上川下りの船からの紅葉)
「新庄」の豪商であり俳人の「風流」の邸宅に泊まった芭蕉は、新庄の「本合海」(もとあいかい)から、最上川下りに乗船しました。
(新庄での芭蕉については、「新庄」を見てね。)
本合海(もとあいかい)は、かつて、最上地方と庄内地方との間に陸路がなかった時代に、舟運の中継地として栄えていました。
芭蕉は、実際に舟に乗ってみて、最上川の風景に心を揺さぶられ、「奥の細道」に以下の様に記載しています。
「左右山覆い、茂みの中に舟を下す。
白糸の滝は、青葉の隙(ひま)々に落ちて、仙人堂、岸に臨んで建つ。
水みなぎって、舟危うし。
”五月雨を(さみだれを) 集めて早し 最上川”」
私は、銀山温泉に1泊した翌朝、宿泊している旅館に、最上川下りの送迎バスが迎えに来ました。
送迎バスの車窓から、芭蕉が乗船したという「本合海」(もとあいかい)の渡船場跡を見ます。
本合海の渡船場跡には、芭蕉と曽良の像と、芭蕉の句「五月雨を 集めて早し 最上川」の句碑が建っていますが、私は、送迎バスの車窓から、
この像と句碑をチラリと眺めただけで通り過ぎました・・・
また、「本合海」の川向うにある、上の写真の鳥居のある山の中腹に「矢向(やむき)神社」があり、上陸した義経一行はこの神社に参拝しました。
送迎バスに揺られること約1時間で、最上川下りの乗船場である「船番所」に着きました。
写真は、「船番所(古口番所)」で、最上川の舟運のいわば関所跡で、関所番人の役宅が公開されています。
ここから舟下りは、「草薙」(くさなぎ)までの約12キロ、所要時間1所間ほどです。
説明版によると、
「ここ古口(ふるくち)より下流は、最上峡と呼ばれる峡谷で、ここから先は陸路がなく、全て最上川の舟運に頼らねばならないため、新庄藩の船番所が置かれていました。
古口の船番所の役人は、二本差しの帯刀を許されて200石を与えられ、川舟の荷物の出入りを監視していました。
なお、1623年に新庄藩主に戸沢政盛が任ぜられて以降、明治の戊辰戦争で廃城となる迄の250年もの長きにわたり、1回の国替えもなく戸沢氏が統治しました。」
と、あります。
懐かしいNHKドラマの「おしん」もマスクをしています。
チケットを買い指定された時間まで、乗り場の土産屋で待ちます。
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